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「天皇を読む」第28回 たけもとのぶひろ【第145回】再思三考する「天皇のこと」(12)「慰霊の黙祷」「平和の願い」は「日本国憲法の良心」です – 月刊極北

「天皇を読む」第28回


たけもとのぶひろ[第145回]
2018年2月21日
[1]

オランダ国王夫妻の歓迎行事に臨む両陛下

オランダ国王夫妻の歓迎行事に臨む両陛下

再思三考する「天皇のこと」(12)
「慰霊の黙祷」「平和の願い」は「日本国憲法の良心」です

 天皇陛下は、皇太子時代の昭和50(1975)年7月17日、沖縄国際海洋博覧会の名誉総裁として開会式に出席するために、妃殿下とともに、はじめて沖縄を訪問されました。3日間のご予定の初日、最初の慰霊の地、ひめゆりの塔では、火炎瓶を投げられたりして一時混乱しましたが、一行は予定を変えることなく沖縄南部戦跡をめぐって慰霊の祈りを捧げられました。その日の晩、文書による「談話」が発表されたのでした。
 この「談話」のなかで、とくに陛下がご自身に言い聞かせるようにご覚悟を語っておられるお言葉については、すでに詳述したところであり、くり返しません。今回、考えたいのは、そのあとの、沖縄県民に呼びかけておられる文章について、です。

 「県民の皆さまには、過去の戦争体験を、人類普遍の平和希求の願いに昇華させ、これからの沖縄県を築き上げることに力を合わせていかれるよう心から期待しています。」

 沖縄「談話」にこの2行のお言葉があるとは? これまでのぼくは気がつきませんでした。しかし、ここへ来て、どうもこの2行があるらしいことに気がつきました。陛下は単なるレトリックで文章を書いておられるわけではありません。やはり、考えを練りに練り、外間先生なんかとも議論をして、この談話を、最終的にぼくらが目にする形に仕上げられたのだと思います。その際、陛下が熟考されたことのなかには、「談話」を終えるにはどのような文章をもってすればよいか、そして、どうしてもそこに書き込まなければならない言葉(概念)があるとしたら、それは何か、というふうな問いがあったのではないでしょうか。そうして到達したのが上記の2行だと思うのです。

 沖縄県民へ向けた「談話」ですから、「沖縄県民への呼びかけ」になっていますが、それは同時に、「国民への呼びかけ」でもあるべきものとして、語られています。
とはいえ、「沖縄初訪問」というのは唯一無二のシチュエーションであり、その時その場で問わなければならないことがあると思います。陛下は二つ挙げておられます。
 一つは、「過去の戦争体験」と述べておられますが、言うところの「過去の戦争」とはどの戦争のことか、という点です。
 いま一つは、「人類普遍の平和希求の願いに昇華させる」とありますが、それの意味するところは奈辺にあるのか、ということです。それぞれについて、以下に見てゆきます。

 まず、日本人のぼくらが忘れてはいけない「過去の戦争体験」とはどの戦争のことか、ということについての、陛下の発言は、例えば以下の通りです。
①「私がむしろ心配なのは、次第に過去の歴史が忘れられていくのではないかということです。昭和の時代は、非常に厳しい状況の下で始まりました。昭和3年、1928年、昭和天皇の即位の礼が行われる前に起こったのが、張作霖爆殺事件でしたし、3年後には満州事変が起こり、先の大戦に至るまでの道のりが始まりました。(中略)過去の歴史的事実を十分に知って未来に備えることが大切と思います。」(平成21(2009)年11月6日 ご即位20年会見)
②「本年は終戦から70年という節目の年に当たります。(中略)この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています。」(平成27(2015)年1月 ご感想「新年に当たり」)

 ぼくらが忘れてはならない「過去の歴史=過去の戦争」とは、真珠湾攻撃(1941.12.8)に始まる「太平洋戦争」ではなくて、満州事変(1931.9)に始まる「大東亜戦争」だ、ということです。かの戦争の真実は、米英に嵌められて已むなく始めた戦争ということではなくて、(後発の資本主義国としてつねに圧迫される構図のもとにあったとはいえ)むしろ我が方から仕掛けて他国を巻き込んでいった戦争だったということです。
 ところが、その「大東亜戦争」は、言葉自体が、GHQの占領統治の下で使用禁止とされました。その使用禁止命令に、これ幸いと便乗して、「戦争の事実=歴史の事実」を歪める、あるいは、あった事実をなかったことにしようとする意図が、どこかで働いたのではないでしょうか。しかし、自身の都合で過去を書き換えることは許されないでしょう。たとえ自身に不都合な事実であったとしても、ということです。

 「過去の歴史=過去の戦争」は、たとえそれが正視できないほど耐え難いものであっても、否、そうであればあるほど、ぼくらはそれらの事実をそのまま認めるところから出発しなければなりません。両陛下の沖縄訪問を見てください。あるいは、過ぐる大戦中の日本軍が暴虐のかぎりを尽くし多くの犠牲者を出した国――例えばフィリピン――への、両陛下のご訪問を見てください。お二人は、日本が犯した戦争の悪を一身に引き受けたうえで、「慰霊の旅」を続けておられるのです。

 先に引用した「談話」の結語部分のうち、後者について見ます。「人類普遍の平和希求の願いに昇華させる」とはどういうことでしょうか。
 悪逆非道な戦争を身をもって体験した国の国民であるからこそ、平和の希求は国民的な願いです。憲法が命じていますし、天皇は常日頃から、機会があるたびに、平和の希求について触れておられます。

 たとえば、平成5(1993)年4月23日、沖縄平和祈念堂では、次のように述べておられます。「今、世界は、平和を望みつつも、いまだに戦争を過去のものにするに至っておりません。平和を保っていくためには、一人一人の平和への希求とそのために努力を払っていくことを、日々重ねていくことが必要と思います」と。

 ところが、上記の「談話」の結語部分では、「一人一人の平和の希求」ではなくて「人類普遍の平和希求」とまで踏み込んだ表現になっています。どういうことでしょうか。
 世界の平和を実現するためには、「一人一人の平和の希求」が求められます。しかし、それだけでは十分ではありません。平和への願いを実現するには、「広く普く人類全体に行き渡る平和への願い」(=「人類普遍の平和希求の願い」)という、より次元の高い、より純粋な理念のレベルにまで、自分たちを高めなければならないのではないでしょうか。ぼくらは過去に戦争を体験しているからこそ、平和への願いを「人類の希求」にまで高め、昇華させることができるはずだし、昇華させなければならないのではないでしょうか。……陛下はそういう意味のことを述べられたと思うのです。

 両陛下のそもそも論からすると、平和希求という問題は、「国家・国民の安全保障という範畴」をはるかに越えていると思われます。むしろお二人の思いは、何よりも先ず、生きとし生ける一人の人間として、人類の一員として、平和を祈願しないではおれないということ、それに尽きるのではないでしょうか。
 では、両陛下の平和祈念は、いつ・どこで・どのように為されるのでしょう。
 お二人は国の内外を問わず、国のために殉じた人たちの慰霊碑の前に詣でて、一礼し、花を捧げ、頭を垂れ黙したまま、犠牲者の死を悼み、霊を慰め、平和の誓いを新たにする、もう二度と過ちを犯さない、と。戦争犠牲者の追悼と平和希求の祈願とは、ひとつの行為のなかで・ひとつながりの行為として行われる、ということです。
わかりやすい例を、以下に示します。

①まず、8月15日の終戦記念日に開かれる「全国戦没者追悼式」です。陛下は、戦没者約310万人の死を悼み、お言葉のなかで、近年はとくに、大戦について明示的に「深い反省」の念を示し、平和を祈る気持ちを表明しておられます。戦没者追悼のなかで平和祈願が行われている、ということです。
②次に、別のところですでに紹介したことの再述ですが、沖縄初訪問の陛下が詠まれた御製があります。「沖縄の言葉」での表記は省略して、日本語表記のみを引用します。
   花を捧げます
   人知れず亡くなった多くの人の魂に
   戦争のない世を
   心から願って
 ここでも、戦争犠牲者への鎮魂の思いと平和な世界を願う気持ちが、分けることのできない一つのものとして、詠まれています。
③最後に、オバマ大統領が米国大統領として初めて、広島の原爆慰霊碑に詣でたときのことを紹介します。彼は、慰霊碑に献花して犠牲者を追悼したのち、こう述べたと伝えられています。「我々は過去の過ちとは異なる物語を語ることができる」と。過去の過ちとは戦争のことでしょう。それとは異なる物語とは平和の物語にほかならないでしょう。ここでも、犠牲者への追悼は平和を求める気持ちと分ちがたく交じりあっています。

 死者の魂を鎮め・霊を慰める祈りは、そのまま人類普遍の平和を願う祈りでもあるということ、二つの祈りがあるのではなくて、合わせて一つの祈りを捧げる――慰霊碑の前での祈りとは、そういうことだと思うのです。
 テレビで拝見した両陛下のご参拝の映像を思い出しながら書きます。
 お二人は、一礼したあと慰霊碑の前に進み出て、花を捧げ、黙祷されます。
 献花は、お招きして降りてきていただいた死者の魂がしばしこの世とどまることができるようにと、そのための居場所(依り代)として、花を差し出す、ということではないか、と想像するのですが。
 また、黙祷というのは、頭を垂れた姿勢で、無言のまま、目を閉じて、祈ること、と言ってよいのではないでしょうか。最初に、花を捧げますから、死者の霊は参拝者のすぐ前に来てくれているわけです。だから、頭を下げて敬意を表し、挨拶をします。そして、しばらくの間、無言と瞑目を続けます。目をつぶり一言も発しないのは、まだこの世に生きている自分を、世俗の世界から遮断して、そこに死者の霊と対面する場をつくるためではないでしょうか。それはまた、耳を澄ませて死者の声を聴くためでもあると思います。

 両陛下は、黙祷という祈りの行為のなかで、献じた花に宿る死者の魂と直に対面し、その無言の声に耳を傾け、死者のその思いを全身全霊でもって受けとめておられるのだと思います。驚くべきは、黙祷の時間の長さです。直角に身を折らんばかりの深々とした拝礼の姿です。それでいて、別に何程の事もなかったかのような物腰の柔らかさです。まったく構えたところのない自然体の振る舞いです。

 ぼくはその光景のほんの一部を、映像で拝見しただけなのですが、これはもう、人間業ではない、神の領域に属するのではないか、とさえ思ったことでした。
 神々しい! と。
 『新明解』に拠る、「神神しい」(こうごうしい)の項目は――「[かみがみし]の変化:俗の世界とは縁のないような雰囲気を漂わせていて、いかにも神がそこに宿っているように、また、神が具現したかのように感じられる様子だ」とあります。

 両陛下が何十年ものあいだ、倦まず弛まず続けてこられた「慰霊の旅」はそのまま「人類平和希求の旅」でもありました。陛下ご夫妻にとってそれは、ほかならぬ象徴天皇の身であってみれば、何はさて措いても、務めなければならない公務だったのです。お二人は、機会さえあれば、内外を問わず、いつでも・どこへでも出かけられました。海外での「慰霊の旅」の様子はどんな具合だったのか、知りたい気がします。一例として、オランダ訪問の旅について見たいと思います。

 まず、予備知識として、日本軍による蘭領インドネシア占領の事実を数字で碓かめておきます。日本軍が強制収容したオランダ人は、民間人が約9万人、戦争捕虜および軍属が約4万人。そのうち、食糧不足や風土病による死亡者が約2万2千人。死亡率は約17%――この数字はシベリア抑留の日本人捕虜の死亡率(約12%)より高い。
 そのオランダを、明仁皇太子は1953年に、昭和天皇は1971年に訪ねています。皇太子は無事スルーできたのですが、昭和天皇は大々的な抗議デモに見舞われます。これらについては事実を指摘するにとどめて、これ以上立ち入りません。

 2000年5月23日から4日間、両陛下はオランダを訪問されました。その間の出来事のうち最初の日の出来事について、西川恵著『知られざる皇室外交』(角川新書 2016)から引用します。長い引用で気が引けるのですが。

 「最初の公式行事は、アムステルダムの王宮前の広場にある戦没者記念慰霊塔への献花・黙とう式だった。(中略)(式典では)ベアトリックス女王、コック首相、パテイン・アムステルダム市長が両陛下に付き添った。約2500人の市民が見守るなか、両陛下は一礼したあと慰霊塔に進み出て花輪を供えられ、黙とうした。
「長い、長い黙とうでした」
と、そこに居合わせた日本の関係者は異口同音に語っている。この模様はオランダ国内にテレビで同時中継された。
その夜、王宮で歓迎晩餐会が開かれた。」

 長い、長い黙祷だった、とあります。それが同時中継で放映されたとのことです。さぞかし、と目に浮かぶ思いがします。両陛下は、神神しいまでの静けさのなかで、圧倒的な気迫を秘め、祈りを捧げておられたにちがいない、と。
西川恵さんは上記文章のあと、晩餐会の模様を紹介しているのですが、そこは省略して、そのあとの文章を引用します。

 「晩餐会が終わって夜遅く、両陛下は王宮の宿舎に戻った。その部屋の窓からは、その日の昼間、両陛下が献花と黙とうを行った戦没者記念慰霊塔が見えた。皇后はこのときの情景をこう短歌に詠んでいる。
   慰霊碑は白夜に立てり君が花抗議者の花ともに置かれて
 両陛下の献花と黙とうの行事が終わったあと、戦争被害者の一群が白い菊を一輪ずつもって行進し、花を慰霊塔の柵の周りに置いた。両陛下が供えた花輪と、戦争被害者の白菊が並んで置かれ、白夜の光のなかに浮かんでいた。戦争被害者と日本の「静かなる和解」ともとれる象徴的な情景で、皇后はこれを歌に巧みにすくい取った。
 両陛下の訪問はオランダの対日世論を大きく変えた。戦争被害者たちの対日認識の核には「歴史に誠実に向き合わない日本」という思いがあった。しかし両陛下の慰霊塔での黙とう、晩餐会でのおことば、オランダの人々とのさまざまな交流、また両陛下のお人柄が連日、テレビを通して伝えられることによって、日本に対する印象を劇的に変えた。日本大使だった池田氏はこう語る。
 「両陛下のご訪蘭により、日蘭関係が新しい章に進むことができたことは、その後の数十年間(ママ)の日蘭関係を見れば一目瞭然です。個人のレベルの感情は一朝一夕には変わりませんが、2000年を境として、社会のレベルでは第二次大戦中の「過去の問題」をなんとか乗り越えたと言っていいと思います。」」

 両陛下は戦没者記念慰霊塔の前に進み出て黙祷を捧げました。その慰霊の祈りは死者たちの魂に届き、オランダの人びとの心を動かし、日本とオランダは和解へと向かうことができました。このようにしてぼくたちは、「人類の平和」実現の道を、一歩また一歩と前に進めていきます。そういうことではないでしょうか。その道は、実は、明仁天皇が象徴天皇として歩んで来られた道と同じ道だと思うのですが。

 道は「忠恕の道」でなければならない――明仁天皇はそう信じておられると思います。すでに引用ないし言及してきたところですが、最後に今一度、肝に銘じるつもりで引用します。昭和58(1983)年12月20日の「50歳の誕生日会見」でのお言葉です。
 「好きな言葉に「忠恕」があります。論語の一節に「夫子の道は忠恕のみ」とあります。自己の良心に忠実で、人の心を自分のことのように思いやる精神です。この精神は一人一人にとって非常に大切であり、さらに日本国にとっても忠恕の生き方が大切ではないかと感じています」と語っておられます。  

 「日本国にとっても忠恕の生き方が大切」と述べておられる点について。では、日本国を主語にして上記の文章をリライトすると、どうなるか。
 まず「日本国の道は忠恕のみ」となります。そして「日本国は自国の良心に忠実でなければならず、他国には広やかで思いやりのある寛恕の精神をもって対する必要があります」と続くのではないでしょうか。

 ここで「自国の良心」とリライトしたのは、明仁天皇「即位後朝見の儀」(平成元年1月9日)の結語部分を念頭に置いてのことです。
 陛下は天皇として最初のお言葉のなかで、次のことを誓っておられます。「皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たす」と。日本国の良心は日本国憲法にある、ということです。陛下は天皇になったばかりの朝見の儀において、日本国は自国の良心である日本国憲法に忠実でなければならない、と誓言しておられるのです。
「日本国憲法」別称「平和憲法」に思いを致しつつ、筆を置きます。

 と書きつつも、思い浮かぶ想念を書き留めないではいられません。最後の最後に、尾崎咢堂の言葉を書いておきます。
 「人生の本舞台は常に将来にあり」
 「過去はみな未来のわざの備えぞと知れば貴し悔いも悩みも」

 ほんとうに終わります。ありがとうございました。