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「天皇を読む」第27回 たけもとのぶひろ【第144回】再思三考する「天皇のこと」(11) 違いが大切――象徴民主主義の念願 – 月刊極北

「天皇を読む」第27回


たけもとのぶひろ[第144回]
2018年2月17日
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対馬丸記念館での天候皇后両陛下

対馬丸記念館での天候皇后両陛下

再思三考する「天皇のこと」(11)
違いが大切――象徴民主主義の念願

 沖縄初訪問の初日、「ひめゆりの塔・火炎瓶事件」の夜、陛下は、歴史に残る談話を発表されました。談話は、沖縄戦の犠牲者・ご遺族に対して「悲しみと痛恨の思い」を述べたあと、ご自身の沖縄に対するご覚悟を次のように述べられたのでした(くり返しになりますが、再引用します)。
 「払われた多くの尊い犠牲は、一時(いっとき)の行為や言葉によってあがなえるものではなく、人々が長い年月をかけてこれを記憶し、一人一人、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません。」

 両陛下は、この談話の1975年から、ご譲位を目前に控えた2018年の今日まで半世紀近くにわたって、このお言葉通り、記憶し、内省し、心を寄せ続けてこられました。前回は、そのご決意がいかほどのものか、実感していただくために、両陛下が関わられたいくつかの事柄、事実を、ほんの一端に過ぎないのですが、紹介した次第です。

 その両陛下を、沖縄の人たちは、どのように受けとめてきたのでしょうか。先にも言及した『日本人と象徴天皇』(「NHKスペシャル」取材班、新潮新書、2017.12)には、『本土復帰40年間の沖縄県民意識』調査の、嬉しい結果が記載されています。
 「こうした天皇の「和解」への努力は、沖縄の若い世代にも共感を生み始めている。NHKが10年ごとに行う世論調査の結果では、「天皇は尊敬すべき存在だ」と答えた沖縄の20代の割合は、2012(平成24)年で43% 。10年で約4倍に増えている」と。
 何が嬉しかったか。 沖縄の青年の多くが、天皇を “親しみの対象” としてではなくて、「尊敬すべき存在」として認識してくれていることです。しかも、その数がどんどん増えていることです。

 NHK取材班は琉球大学を訪ねて、天皇に対する気持ちについてインタビュー取材し、答えてくれた中から、日本の歴史を勉強している外間栄真(ほかまえいしん)さんの発言を紹介しています。二つあります。

①一つは、沖縄初訪問のその日の晩に発表された「談話」に触れて、です。
「心を打たれた」外間さんは、以来、天皇のお言葉を意識するようになった、として次のように語っています。「まず、本当におやさしい方だなあというふうに思いましたし、慰霊をほんとうに熱心にされて、平和への願いを込めたメッセージもよくされるわけですよね。それについて共感できますし、そのあり方は信じられるなと」

②いま一つ、外間さんが「特に心に残る言葉がある」として挙げたのは、前回に検討した「即位10年に際しての記者会見」のお言葉だったそうです。とくにその最後に「…………沖縄の歴史と文化を理解し、県民と共有することが県民を迎える私どもの務めだと思ったからです」とある中の「私ども」に関わらせて、外間さんは、その言葉の真意を次のように推しはかっています。

「「私ども」というのは、ご自身と皇后陛下もそうですし、日本国民全体という意味も含まれているんじゃないかなと思うんですよ。こういうふうに、ほんとうに温かく迎えていただいているというのが沖縄だと思うんですよね。保守・革新のどちらかの特定の政治的主張とか、イデオロギーということじゃなくて。こういうお気持ちというのは、本当に信じられますよね」

①において外間さんは、陛下の慰霊と平和への願いについて、「そのあり方は信じられるな」と語り、
②においては、「こういうお気持ちというのは、信じられるな」と語っています。
ぼくは、この「信じられるな」という発言を接したとき、なにかしら、久し振りに聞く言葉のような気がして、を動かされました。
人びとが問うているのは、陛下の人としての「あり方」であり、「お気持ち」の在り処であり、つまりは「内面の世界」であって、だから、「信じられるかどうか」なんだな! と。
 外間さんは、陛下とともに言いたかったのではないでしょうか――「一時(いっとき)の行為や言葉」でもって「正しさ」を争う、そういうレベルではないのだ、と。

 両陛下がどれだけ「沖縄の悲劇」に心を寄せておられるか、ここでその一端を物語る事実を紹介しておきます。
 皇太子徳仁さまが「33歳のお誕生日会見」(平成5(1993)年2月19日)にて明かされるまで、あまり知られてこなかったらしいのですが、天皇家では家族全員がそろって、沖縄戦で犠牲になった戦没者に、慰霊の祈りを捧げてこられたそうです。皇太子さん、は次のように述べておられます。
 「両陛下は、先の大戦でもって住民を巻き込む地上戦が行われた沖縄に対して深く思いを致しておられます。その例としまして、例えば6月23日の沖縄戦終結の日には家族全員でもって黙祷をささげている、こういったことも両陛下のお考えによるものであります」。
 黙祷は、「沖縄全戦没者慰霊祭」(沖縄県主催)の式典に合わせて、正午に捧げられます。

 あと、両陛下がおふたりだけで慰霊の黙祷を捧げられる日があります。
 昭和19(1944)年8月22日、米軍の魚雷攻撃によって学童疎開船「対馬丸」(日本郵船所有の貨物船)が撃沈され、乗船者約1800人のうち学童780人をふくむ1500人近くの疎開者が犠牲になりました。陛下ご夫妻は、犠牲者の学童が自分たちと同じ年頃だったこともあって、彼らを悼み悲しむ気持ちは一通りのものではなかったと察せられます。
 8月22日は、毎年欠かさず、おふたりで慰霊の黙祷をささげて来られたと聞いています。

 このように人知れず黙々と続けてこられた慰霊の祈りによって__両陛下の思いは、琉球大学の学生をして「信じられるな」と言わしめ、沖縄の若い世代に、天皇への共感と尊敬の気持ちを抱かせるまでになったのではないでしょうか。
 たとえば、「みんなの国 日本」と書いてみます。このとき、「日本のみんな」は、沖縄の人たちのことを、自分たちと「同じみんな」と感じる、そういう実感があるでしょうか。そういう実感があったなら、沖縄県民に対して「土人」とか「シナ人」なんて言わないのではないでしょうか。また逆に、「沖縄のみんな」は、日本本土の人たちのことを、自分たちと「同じみんな」なんだと感じる実感があるでしょうか。そういう実感が当たり前のこととしてあるのなら、陛下の言動について、わざとというか、ことさらというか、「信じられるな」とは言わないと思うのです。

 事柄の真相は、日本(本土)と沖縄とが、いまだ「みんな」の関係になっていない、ということなのだと思います。ここでも――前回に引き続き――外間守善先生の言葉を引きます。先生は第14回「福岡アジア文化賞」大賞受賞の翌日の「市民フォーラム」(2009年1月)において、次のように発言しておられます。
 「残念ながら、日本から沖縄が見えないのです。沖縄は日本にとって、いつでも切り離せる地域だったのです」と。
 日本(本土)からは沖縄が見えません。日本は沖縄を「いつでも切り離せる地域」として、本土とは別立てで考えてきました。沖縄県民についても、本土の「みんな」からは区切って、別のくくりで考えてきました。
 日本軍は、本土決戦までの時間を稼ぐための “捨て石” の役目を沖縄に負わせたのでした。日米あわせて20万人の犠牲者を出しました。沖縄は地名県名にすぎないのに、オキナワと聞いただけで、地上戦の悲惨のイメージに直結し、ひいては日本の犯した戦争犯罪を想起させる代名詞にさえなっています。日本(本土)にとって、オキナワはタブーに近い、ある種の記号だった時代もあったのではないでしょうか。

 これでは、沖縄の人びとは「日本のみんな」にはなれません。そういう時代が、ずっと続いてきたのでした。一方、両陛下は、皇太子・皇太子妃の頃から、沖縄の悲劇を深刻に受けとめ、思いを巡らし、考えを練ってこられました。沖縄県と沖縄県人のことを、我が事のように思いやるとしたばあい、なによりもまず成し遂げなければならないのは、沖縄の人びとを「みんなの国 日本」のメンバーとして迎えることのはずです。
 「みんなの国 日本」を象徴する陛下にとって――実はこのことこそが、もっとも大事なお務めなのではないでしょうか。
 そして迎えるとは、陛下のばあい、前にも述べたように、「こちらから出かけて行って」迎える、つまり出迎えることだと思います。「皇室はもっと国民に近づくことが必要ではないか」と、陛下はしばしば周囲に語っておられるそうですが(朝日新聞 2017.6.10)、このお言葉も象徴天皇と国民との関係について、述べておられるものと思います。天皇と国民は、なにしろ「割符の関係」なのだからな、と。

 人びとの間の差異(ちがい)に目をつけて、分けて別けて……とやっていけば、人びとの間は分け隔てられ、バラバラに分断されてしまいます。「みんな」の解体が進みます。それぞれが違う他者が互いに出会い、集い、つながって、「みんな」をつくるところから、いろんなものが生まれてくる、と言うのに、その、万物の産みの親でさえある「みんな」の連帯が危機にさらされています。
 両陛下は何十年ものあいだ、沖縄を「みんな」の連帯のもとへ取り戻そうと、象徴天皇の務めに献身してこられました。沖縄に対するときの両陛下のあり方・考え方というものを、繰り返したどっていくとき、そこに立ち現れるものこそ、象徴天皇としての明仁天皇の生き方なのだと思います。

 沖縄以外に、「みんなの国 日本」から分断・排除されている人たち――「みんな」の一員として数えてもらっていない人たち――とは、どういう人か、挙げてみます。
 戦没者とその遺族、原爆被爆者、原発事故被害者、地震風水害被災者、身体障害者、水俣病やハンセン病など難病患者、離島や過疎地の住民、後期高齢者特別養護施設に置き去りにされている老人たち、等々です。
 日本社会の周縁に押しやられて、肩身の狭い思いをしている彼らを、差別と偏見の目がさらに追いつめます。 “働かざる者食うべからず、税金食い虫め!”と。

 しかし、陛下は象徴天皇として決意しておられます。社会の辺境を決して見捨てない、と。象徴の目は、彼らのところまで届いていなければなりません。彼らの産みの親は実は「みんな」なのですから、彼らを「みんな」の中に迎え入れるそのときにこそ、「みんな」はよみがえるのではないか――両陛下はこんなふうな思いを抱いておられるのではないでしょうか。このような象徴天皇像をこそ、両陛下はふたりして造ってこられたのだ――と思わず断定したくなってしまいます。

 「天皇」の再定義、ということです。これこそが、今上天皇の究極の仕事なのだと思います。この仕事ができる条件を、陛下は自ら作ってこられました。公務(象徴としての公的行為)という活動範畴において、その内容を自身の意思でもって――全面的でないにしろ、かなりの程度において――作り上げる、公務の内容を充実させることが、それです。陛下は天皇のあり方・役割を自ら再定義する、作り変える――その道をただひたすら歩んで来られたということです。
 このように指摘しているのは、フォルカー・シュタンツェルの論考「時を超えて――21世紀の天皇」です。この論文は『渡部先生、日本人にとって天皇はどういう存在ですか?』(幻冬社)の第2部として収録されています。この論考の中でシュタンツェルは、「天皇の歴史」を俯瞰したばあい、「今日の天皇」がどのような位置を占めるか、という問いを立て、次のように総括しています。

 「日本の非常に基本的な文化的特色を表す存在として、現天皇はこれまでで最も明確に国を象徴していると言えるかもしれない。
 最初の天皇は神話であるし、万世一系は創作である。国家神道は、この国の複数の宗教に変更と操作を加えることで生み出された。かつての天皇は、愛国主義的崇拝の中心に意図的に据えられたということはあっても、真の意味で日本を象徴したり、国体を象徴したりはしていなかった。この意図的操作は日本の近代化を円滑に進めるために行われた。そして今や、目標であった近代化は成し遂げられた。
 今日の天皇は(中略)国民にこれまでになく近づいた、文字通り国民に「近い存在」なのである。」
 「(今日の天皇は)多元的で、個々人の居場所のある社会の多様性を体現する存在である限りにおいて、また、現代日本の文化・社会をその身に取り込んだ存在である限りにおいて、そうした(日本の現状に影響を与えるような)役割を果たしているのである」()は引用者。

 以上に見てきたように、「みんなの国 日本」と言うときの「みんな」とは、社会の辺境に暮らす人びとをも掬いあげ包みこむところで成立するのですから、「みんな」は互いに自分とは異なる隣人たちから構成されているのが、当然です。その、互いに異なる隣人の関係を、分断ではなくて連帯の方向へとつないでいくには、多様にして異質な隣人の価値観に対して寛大でなければなりません。その複雑さに耐えて理解する忍耐力・持久力を身につけなければなりません。すでに別のところで触れたように、皇后さまも述べておられます。人生を生きるとは、民主主義を行うとは、そういうことなのだ、と。

 ここで、北代淳二さん(きただいじゅんじ 中浜万次郎の会会長・米国史研究家)の、コラム「私の視点」(朝日新聞 2017.2.18)における議論――米国大統領の紋章に記されているラテン語についての考察です――を紹介したいと思います。
紋章とそこに書いてあるラテン語について、まず北代さんはこう述べています。
 「大統領の紋章は、1776年の独立宣言のあと82年に採用された国章の図柄を中心に、周りに各州を表す50の星を配したものだ。中央に描かれた国鳥の白頭ワシがくわえたリボンに短いラテン語が記されている。 「E PLURIBUS UNUN(エ・プルリブス・ウヌム)」。
 「多くのものが集ってできた一つ」という意味だ」と。

 このフレーズをどのように理解するか――北代さんは、一例として、オバマ前大統領の演説を挙げています。オバマ前大統領は2011年の「9.11・10周年記念演説」のなかで、国民の団結を求めて次のように呼びかけたそうです。
 「あらゆる人々が エ・プルリブス・ウヌム というアメリカンドリームを追い求めています。たくさんの違いのなかで、われわれは一つなのです」と。オバマさんが言いたかったことをもう少し敷衍して示すと、次のようなことではないでしょうか。
“ われわれの間には「たくさんの違いがある」、その異質性・多様性・複雑性から来る諸困難にもかかわらず、われわれはそれらの困難に耐えて、「同じ社会」のメンバーとして団結し「共に」「一つの国家」を形成していくのだ、それがわれわれのアメリカンドリームなのだ ”というふうな。

 ところがコラムの結論部分にさしかかると、北代さんは、オバマ前大統領の理解とはニュアンスを異にする見解を述べます。
「「エ・プルリブス・ウヌム」が意味するのは、異なった人種や宗教や文化の人間が、共存し共生するという民主主義の理想である。異なったものが一つになって溶けあう、いわゆるメルティングポット(るつぼ)ではなく、異なった種類の花がそれぞれの色や美しさを保ちながら一緒になって、さらに新しい美しさを作るという花束のイメージだ」と。

 北代さんの民主主義をぼくなりの理解で表現すると、こんな感じになります。――“ われわれの間にはたくさんの違いがある、互いの間に違いがあるからこそ、その異質性・多様性・複雑性を活かして、共に生き、共に歩んで、新しいわれわれを創りだしたいのだ、それがわれわれの理想だ” と。あるいは、北代さんの比喩で言えば、”いろんな花の一本一本の美しさを活かし、束ねることによって、かつて見たこともないほど美しい花束を創るのだ” というふうなことでしょうか。

 「エ・プルリブス・ウヌム」についての、前大統領と北代さんの理解は、一瞥したかぎりでは矛盾しているかに見えますが、実は「たくさんの違いがある」ことそれ自体の意義がいかに重たいかという――そのことを物語っているのではないでしょうか。あたかも、同じ一枚のコインを、一方は面から・他方は裏から見ている――そういう違いとして捉えたいのですが。要するに、 “違うとは、一人ひとりが違ってみんないい” ということに尽きると思うのです。

 このように考えてくると、ちょっと飛躍しますが、以前に触れたことのある万葉学者の中西進先生(現在は奈良県立万葉文化館名誉館長)のことを想いだします。
 先生は “万葉集の「巻1」が「雑歌」から始まるのはなぜか” との問いを立てた上で、次の点を指摘しておられます。
①万葉集はあらかじめ描いた一つの全体像にもとづいて編纂されたわけではない。
②当時はさまざまなものが入り交じった「雑」という考え方が一定の価値をもっていた。
③もともと「雑」という漢字には「美しい」という意味もあった。
④現代人も万葉集が持つ「雑」を、どこかで求めているのではないか。(以上、第5回NARA万葉世界賞選考委員懇談会での発言、朝日新聞2017.9.21)
 さらに最近の先生は、「雑」「雑多」について、次のようにも語っておられます。
 「万葉集は未完成であり、雑多です。内容、並べ方、文字の使い方まで雑多。「雑」は根源なんです。根源の持つたくましい力、はかりがたい魅力に今も引かれ続けています」と。(聞き手・花澤茂人 毎日新聞2018.1.26)

 中西先生のご指摘を下敷きにして見るに、両陛下の世界は、まさしく雑多、何でもありなのではないでしょうか。すでに何度となく指摘してきたように、両陛下はこの国の・この社会の辺境を決して見捨てない、とのご決意ですから、まるで風呂敷の四隅を持ち上げて、その中にこの国のみんなを・すべてを包み込んで、背負っていく、というようなことでやってこられたのではないでしょうか。両陛下は、雑多そのもの、その異質性・多様性・複雑性のなかに常に身を置いておられる、ということです。
 必要とあらば、内外を問わず、ありとあらゆるところに出向いておられます。そうしなければ、象徴の務めが果たせない、と両陛下は肝に銘じておられるからです。しかも、その象徴の務めは、「忠恕の精神」をもってしなければ果たすことができない、というのが陛下のご覚悟です。

 それをやりきるために、いったいどれだけの人間に会って、どれだけの量の情報を消化していかなければならないことか。さらに、そういう雑多そのものの世界を、天皇という地位に於いて象徴していかねばならないのです、どれだけ大変なことか。
両陛下は、身を粉にして、文字通り全身全霊をもって、象徴の務め・天皇の務めに就いてこられたに違いありません。それがいったいどういうことなのか、どれほどのことなのか――ぼく自身、申し訳ないことですが、これまで自分に問うことがありませんでした。
 両陛下は、「象徴天皇の民主主義」を実現しよう、実現しなければ、との思いで、その人生をこの国とこの国の国民のために捧げてきてくださったのではないでしょうか。