- 明月堂書店 - http://meigetu.net -

「天皇を読む」第23回 たけもとのぶひろ【第140回】 – 月刊極北

「天皇を読む」第23回


たけもとのぶひろ[第140回]
2017年12月18日
[1]

黒田清子さん(旧名紀宮清子内親王)

黒田清子さん(旧名紀宮清子内親王)

再思三考する「天皇のこと」⑦
「複雑さに耐える」とはどういうことか

 美智子さまが皇太子妃として嫁いで来られる直前に、「ご進講(お妃教育)」というものが為されたことは既述の通りです。全12科目のなかに、入江相成侍従が講師を務める「宮中慣習」という講座がありました。皇室という新しい環境で生きていくうえで弁えておかなければならない「心得」とは何か、というのがそのテーマでした。議論の余地はありません、教えは「何事もご自分の胸に納める」「黙して語らず、ひたすら耐える」、これに尽きるのでした。あからさまに言うと、“何かにつけあれこれと言うんじゃない、そもそも余計な事を考えるな、黙っていろ、ただひたすら耐え忍ぶしかない” というような説教だったのではないでしょうか。

 他方、美智子皇后も同じ「耐えて」という言葉を使っておられるのですが、「複雑さに耐えて」というふうに使うことによって、複雑さ解明のために問い続ける忍 耐を説いておられます。人生の、人間の、現実の、社会の、世界の、複雑さに負けないように、その複雑さを耐えしのいで、問い続けてほしいのだ、と。皇后さまの言葉を以下に紹介します。
① 平成9年 お誕生日会見
「複雑な問題を直ちに結論に導けない時、その複雑さに耐え、問題を担い続けていく忍耐と持久力を持つ社会であって欲しいと願っています。」 
① 平成10年 IBBY国際児童図書評議会第26回大会基調講演
「読書は、人生の全てが、決して単純でないことを教えてくれました。私たちは、複雑さに耐えて生きていかなければならないということ。人と人との関係においても。国と国との関係においても。」 

 美智子さまのピクチャーレター「子供の本を通しての平和――子供時代の読書の思い出」(第26回IBBYニューデリー大会 平成10年1998年基調講演――NHK出版『道』平成21年第1刷)については、少し前に書いたことがあります。倭建御子(やまとたけるのみこ)と弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)の物語についてです。
 その時すでに気がついていたのですが、ぼくの手許にはなかった文春文庫の本がいま目の前にあります。NHK出 版『道』と同じ年の出版なのですね。皇后さまのこの文章をメインにして、ほか3名の方が文章をお寄せになっている、手の平サイズの可愛らしい本です。書名を『橋をかける』とした発想には、ご講演のメッセージ性がそのまま伝わるようにとの願いがこめられているのではないか――そういった感想を持ちました。

 その「橋をかける」です。この言葉はどういうことを意味しているのでしょうか。美智子さまの答えを引用したうえで、それを敷衍しつつぼくなりの理解を示していきたいと思います。美智子さまはこう述べておられます。
 「生まれて以来、人は自分と周囲との間に、一つ一つ橋をかけ、人とも、物ともつながりを深め、それを自分の世界として生きています。この橋がかからなかったり、かけても橋としての機能を果たさなかったり、時として橋をかける意志を失った時、人は孤立し、平和を失います。この橋は外に向かうだけでなく、内にも向かい、自分と自分自身との間にも絶えずかけ続けられ、本当の自分を発見し、自己の確立をうながしていくように思います」と。

 「橋をかける」とは、人が自分以外の他者――人であり・物であり・事であり・社会であり・現実であり・世界であるところのもの――とつながりをつけていく行為です。  
 人は他者へと橋をかけ、他者とつながって生き、「自分の世界」をつくっています。自分と他者との交わりのなかで、「自分の世界」が作り出されていく、と言い換えてもよいのではないでしょうか。このようにして形成される自分の内面の住人は、まず自分自身です。そして他者です。自他の存在から、自他の関係が――そうして社会の連帯が――生まれて、「自分の世界」となる、そういうことではないでしょうか。

 そもそもの始めをふり返っていえば、「橋をかける」という営みが為されなければ、自分の世界は生まれようがありません。自分の世界がなければ、自分を発見す ることも、自分と対面することもできません。ましてや、自己の確立へとつなげていくことなど、できるものではありません。 
 このように橋をかけて他者とつながりつつ本当の自分を求めていく歩みは、実に困難を極める複雑なプロセスです。容易なことではありません。

 「自分の世界」とか「自己の確立」とか言うからには、それが「自分自身の内面の世界」を問うていることに間違いありません。ところが厄介な事情があります。 日々新たに更新しつつ生きている自分のことですから、自分で自分のことが解っているとは限らず、自分はつねに「未知の世界」でもあると思うのです。そうい う自分に橋をかけ、自分を問うていく、自らへの問いかけは終わりというものがありません。問うのも問われるのも自分なのです、粘り強く問う、問い続けるほ かありません。これが動かすことのできない最終的な絶対的な正解であるという、そういう “答え” は、事の性格上、もともとないのですから。皇后さまが「複雑さに耐えて問い続ける忍耐」を説いておられるのは、そういうことではないでしょうか。

 「複雑さに耐え」というと、なにしろ「耐える」のですから、上辺だけの印象で言うと受動的・他動的に聞えるかもしれません。しかし、決してそうではありませ ん。複雑さに耐えて橋をかけ、問い続けるのですから。自分のなかで考え続け、問うことをやめないのですから。その営みは、自他に対する能動的かつ主体的な姿勢なくしては為しえないのではないでしょうか。

 ここで紀宮さまの言葉を紹介したいと思います。大学卒業の折に理想の女性像について尋ねられ、母である皇后さまが理想の女性だと答えられた部分です。
 「……娘 の眼から見ると、決して器用ではいらっしゃらない皇后さまが、困難なことに当たられるたびに、戸惑いなさりながら、投げ出すことなく、最後まで考え続けて答えを出されるお姿は、私に複雑さに耐えることと、自分で考え続けることの意義を教えてくださいました。一方で、皇后さまがいつも心に抱いていらっしゃる 喜びと少年のような明るさは、私たち子供をのびのびと育て、家庭には楽しい笑いを提供してくださいました。これまでの長いお歩みの中で、どんなこともすべ て静かに受け入れてこられた皇后さまの、深い沈黙の部分は娘にも推し量ることはできないものです。」

 紀宮さまは、皇后さまのなかに理想の女性像を見ています。この述懐に接したときのぼくの率直な感想を言えば、 “わが意を得たり” の思いを禁じえない、というものでした。
 紀宮さまの文章表現をほとんどそのまま使って、彼女の言わんとするところを、ぼくなりに再述してみます。――皇后さまは、どんな困難な問題に直面されたときでも、その問題をすべてそのまま静かに受け入れ、決して投げ出すようなことはせず、問題の複雑さに耐え、問題の問題たる所以をご自身で問い、考え続けて 来られました。その間には、深い沈黙の世界に沈潜し、思索を深められることもあり、そこまでは娘の自分でも推し量ることはできないのですが、皇后さまは最後の最後まで問いを離さず、考え続けて、答えを出されるのでした。その姿をお示しになることによって皇后さまは、私に複雑さに耐えることと、自分で考え続 けることの意義を教えてくださったのでした。

 紀宮さまの述懐の中には書いてあって、ぼくの再述で言及しなかったところは、「一方で、皇后さまがいつも心に抱いていらっしゃる喜びと少年のような明るさ……」についての部分です。皇后さまの心の喜びと少年のような明るさ――これは、皇后さまのどこからでてくるのでしょうか。

 前回、横田勲牧師の『傍らに立つ者』(説教集刊行委員会)から学びましたが、今回もその中の説教「息をつめて待つ」(『福音と世界』74年11月)における横田師の教えに即して考えていきたいと思います。
 現実の「複雑さに耐える」ということは、耐えて「待つ姿勢」を続けることだと述べている部分を、紹介します。横田師曰く、「もちろん、現実を直視するということ、現実に耐えるということが「待つ」ことと無縁だと言っているのではない。むしろ、現実を直視し、その荒野性(=複雑性)に耐えるということは、つきつめたときには「待つ」という姿勢に似てくるのではないかということを言いたいのだ」と。
 皇后さまと同様に横田師は、「耐えること=待つこと」の中に秘められている、当の人の内面の充実に着目し、さらに一歩を踏込んだものの言い方をしています。さらに引用します。

 「「待つ」という行為は激しい行為です。両ひざをかかえ、腰の下からやってくる寒さに耐えながら、少しずつしらんでくる東の空を、そして地平線の一点に朱が集中し、確実にそこに輝きの微細な光点があらわれるのを待ったことがありますか。思わず口をついて出そうになる叫びを抑えかねるほどの息づまりのなかで、新しい太陽を迎えたことがありますか。このような「待つこと」が退屈なことだと思っておられる方がおられるなら、その方は、何も待ってはいないのです。待つこ とは激しい行為なのです。とぼとぼ帰ってくる放蕩息子を見つけて父親は「遠く離れていたのに走り寄った」と書いてあります。待つとは、その全力疾走を内在させているのです。百メートル競走のスタートの合図を待つ選手にとって、その号砲を待つことがどうして退屈でありえましょう。」

 ちょっと脱線します。ぼくは中学高校のあいだずっと反抗期が続きました。とくに高校1年2年のころは、出来損ないの不良みたいな、荒れた生活でしたから、家に帰 らないことも珍しくありませんでした。その日はたまたま帰ったのでしたが。まだ暗い朝の4時頃のことだったと思います。遠くからでもぼんやりとわかるのは、家の玄関を出て何歩か進んだあたりで、母がぼくの帰りを待っていてくれる姿です。あれから60年以上の歳月が経っているのですが、その情景は忘れようにも忘れることができません。
 そういう体験をしてきたこともあって、待つことは祈ることだ、との横田師の次の言葉は、母の言葉でもあるかのように身に沁みて聞こえます。

 さて、閑話休題です。紀宮さまによると、皇后さまの心には、いつも喜びがあり、少年のような明るさがある、ということですが、これはいったいどういうことなのでしょうか。
 美智子皇后の、心の喜びのなかで少年のように明るく生き抜く知恵みたいなものを学ぶことができるなら、学びたいと思うのです。
 その際、横田師の次の教えは、啓発されるところ大です。師は、上記の文章のすぐあとをつぎのように続けています。曰く。
 「待つことは祈ることだと言ってもよいと思います。この二つのことは、前方の、かすかな予徴としての一点に向けられた激しさとして同一なのです。身を前にのり 出した姿勢のなかに、まだ実現していない出来事が内包されているという意味で、この二つは同一の事柄なのです。祈りの要素を含まない待つことはありえないし、また逆もほんとうです。それは待つことのうちに「来たる」ことが確実に内在しており、祈ることのうちに「かなえられる」ことが確実に内在しているのです。「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい」(マルコ伝 第11章・24節)は、祈るという行為の本質を言い表しています。」

 「耐える」ことは「耐えて待つ」ことを意味します。「待つ」ことができるのは、「来たる」ことを確信しているからです。その間、もちろん「来たらん」ことを願って祈ります。そうして願いは聞き届けられ、祈りはかなえられます。このことを、皇后さまは信じて疑わない、信じきって生きる生き方を選択しておられる ――そういうことだと思います。マルコ伝第11章・24節を、もう一度、日本聖書協会発行の文語解約新約聖書で見てみましょう。
 「この故に汝らに告ぐ凡て祈りて願う事はすでに得たりと信ぜよさらば得べし」
 とあります。信じて祈ります。力に満ちた心には、「喜びと少年のような明るさ」が抱かれているのではないでしょうか。
 『橋をかける』(文春文庫)の表紙に巻いてある帯の部分に、美智子さまの少女時代の写真があります。知的で一途な表情です。皇后さまはこの少女の表情のままの心で、ここまで生きてこられたのではないでしょうか。

 このように書いてくると、キリスト教じゃないか、とけちをつける人がいるものです。以前にも書きましたが、聖書の教えは、もはやキリスト教徒の専有物ではありません。人類の共有財産です。ウエーバーの有名な著書のタイトルを想起してもらえば、誰だって思い当たるのでしょう。それとは真逆の「マルクスの革命的 楽観主義」でさえ、上述のマルコ伝第11章・24節の精神が拠り所の一つでした。若い頃のぼく自身にとっても、大きな心の支えだったのです。

 ここまで書いてきて思うに、皇后さまは、橋をかけ・複雑さに耐えて・考えることをやめない、ある意味で、自らに満足することを潔しとしない、そういうお方だと察せられるのですが、その同じ皇后さまが、待つものの来たることを信じて疑わない祈りのなかで、ご自身が大きく肯定されていることを実感しておられるの ではないでしょうか。

 美智子皇后は、そういうお方として、複雑さに耐えて、その現実のなかに身を投じておられます。その思いの丈をうかがいますと、たとえば、こんな具合です。
 「象徴でいらっしゃる陛下のおそばで、私も常に国民の上に心を寄せ、国民の喜び事をともに喜び、国民の悲しい折にはともに悲しみ、またともにそれを耐え続けていけるようでありたいと願っており、……」(平成12年2000年5月8日、欧州ご訪問を前にしての記者会見)。
 いつ如何なる時も国民とともにありたい、との思いが溢れているお言葉です。最後の「ともにそれを耐え続けていけるようでありたい」のところでは、皇后さまら しいな、と思って思わず口元がゆるみましたが、国を背負って旅立たれる前の会見ということもあってか、聞きようによっては、ほとんど決意表明に聞こえるお言葉ではないでしょうか。

 また明仁天皇も、皇后さまの上記会見からおよそ半年後に、即位10年の活動を振り返って、象徴天皇としての公務のあり方について述べておられます。
 「障害者や高齢者、災害を受けた人々、あるいは社会や人々のために尽くしている人々に心を寄せていくことは私どもの大切な務めであると思います。福祉施設や災 害の被災地を訪れているのもその気持ちからです。私どものしてきたことは活動という言葉で言い表すことはできないと思いますが、訪れた施設や被災地で会っ た人々と少しでも心をともにしようと努めてきました。」(平成11年1999年11月10日、ご即位10年会見)

 陛下は「心を寄せていく」「心をともにしようと努めて」とおっしゃっています。「寄せていく」心・「ともにしようと努め」る心――つまり、ご自身の心のあり方を問うておられます。それは、「活動という言葉で言い表すことはできないと思いますが……」と、正確を期するためでしょうか、丁寧な注釈が付けてあります。国民の象徴たるべき天皇に問われているのは、DoingというよりBeing なのだ、と。何を為すべきかというよりも、どうあらねばならないかなのだ、とおっしゃっているのではないでしょうか。

 そして、天皇皇后のおふたりが「国民」とおっしゃるとき、心に描いておられるのは、現在過去未来を通じてこの国に生を受けたすべての人々であろうかと思うの ですが、直接には、障害者や高齢者、被災者や戦没者遺族など、苦しみと悲しみのなかを耐えて生き抜いている方々――こういう人たちなのではないでしょう か。これら難儀の運命にある人びとを置き去りにしたとき、あるいは排除したとすれば、彼らは国民としては棄てられているわけで、いわゆる棄民です。もはや 国民扱いしていない人びとをも国民と言い張るとしたら、わが天皇は、厳密な意味では、国民を象徴する立場を失うのではないでしょうか。
 政治は、国民を分断差別することをもって統治と強弁することができますが、天皇には、それができません。憲法第一条が――つまり国民の意志 the will of the peopleが、天皇の務めを「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」the symbol of the State and of the unity of the people たらんとすることに厳しく限定しているからです。

 要するに、両陛下としては、国民が苦境に立ち、苦しみ悲しみのなかに置き去りにされているところ、その現地に,こちらから出かけていかなければなりません。それ以外にも、たとえば体育大会や植樹祭や海づくり大会などがあれば、その機会を活かして訪問できることなら訪問したい訪問先を選んで、心を寄せ・心をともにしようと努めて来られたのでした。訪ねるにあたっては、訪問先のことを勉強されます。自分たちだけでは手に負えないときは、宮内庁のスタッフなんか を動員して調べたり、あるいは専門家のレクチャーを受けたりも為さるのではないでしょうか。それこそ、文字通り、複雑さに耐えて、橋をかけ続けられるのでありましょう。

 誰にも知られていないところでの、おふたりのそういう努力が為されなければ、およそこういう場面は見られないであろうと思われるエピソードを紹介します。少し長い引用になるのですが。
 ――平成29年(2017)2月28日から3月6日にかけて、天皇陛下はベトナムとタイにお出かけになられた。ベトナムは長年オランダの植民地としてその支配下にあり、先の大戦では日本軍が駐留した。戦後、その一部の約600人の元日本兵が残留して、ベトナムの独立を支援した。中には現地で家族を持った者もいた。しかし、ベトナムは南北に分断され、元日本兵は本国に呼び戻され、現地の家族とは離別した。いわば、戦争によって家族をもち、戦争によって家族によって引き離された人たちなのだ。
 陛下はベトナムを訪れた際に、その家族たちと面会されている。この人たちのその後のつらい人生も、思えば日本が無関係とは言い切れない。日本人のほとんどが知ることさえない、そのような人たちにも陛下はこまやかにお心を寄せておられる。
 その中のひとりに、ゴー・ザ・カインという男性がいる。彼も残留日本兵を父に持つベトナム人だ。平成23年(2011)3月11日、東日本大地震が起こった際に、父の祖国である日本が大変な状況にあることを知って、ベトナムで募金活動をしてくれていた。
 天皇陛下はそのことに「日本人はとても勇気づけられたと思います」と感謝の気持ちを伝えられた。それに彼は「日本人としての気持ちを持ち続けています」と答えている。
 皇后陛下は、お優しく「日本のために祈ってくださったのですね」とおことばをかけられた。それを聞いたゴー・ザ・カインさんは、よほど感激したのだろう。皇后陛下のお手に額をつけて号泣したという。父の祖国・日本の象徴である天皇陛下が、残留日本兵の家族という忘れられそうな立場の自分たちをわざわざ訪れてくださり、しかも自分のしたことを知っていてくださった時の感動は、いかばかりだったろう。(監修・高森明勅『天皇陛下からわたしたちへのおことば』双葉社)

 いまひとつ、現地を訪ねる前の準備だけではなく、その場に臨んだ際にも、しっかり集中してすべてを受けとめ、自らが為すべきことを進んで見つけてレスポンスしようとされている姿がありありと伝わってくるエピソードを紹介します。
 ――たとえば、皇太子時代の陛下が皇后陛下(当時は皇太子妃)と盲学校を訪れ、授業風景をご覧になった際に、授業を受けている生徒が、
 「月の光ってどんな感じですか」
 と先生に質問した。
 それに対して、その先生はとまどってしまい、とっさに明確な回答ができなかった。そんな光景を見ていられた両陛下は、その場ではそのままお帰りになった。
 ところが、しばらくして宮内庁から学校にレコードが届いた。それはベートーヴェンの
 『月光(ピアノソナタ第14番)』という曲で、
 「この曲が生徒たちに月の光を想像してもらうてがかりになればと思います」
 というお手紙が添えられていた。
 このような逸話が多く残っているのは、
 「人間として望ましい人格をつくることが第一」
 という陛下の信念に基づいた行動の結果ではないだろうか。(双葉社前掲書)

 おふたりの全国行脚は、こういった格調の高さをキープしたままで成し遂げられてきたに違いなく、その大変さに思いを馳せるとき、量りしれない感慨を覚えます。次の文章がその大変さをイメージする一助となればよいのですが。
 「もともと明仁天皇と美智子皇后のおふたりは、皇太子時代にすでに47都道府県をすべて訪問されていました。そして即位後も、なるべく早く天皇として全国をまわりたいという強い希望をもたれていたそうです。
 その思いがかなって、2003年(平成15年)11月の鹿児島県訪問をもって、天皇即位後、15年間で、47都道府県をすべて訪問するという目標を達成されました。
 「人々の幸願ひつつ国の内めぐりきたりて十五年経つ」(平成16年 歌会始 題「幸」)
 その時点で、天皇として訪問した市町村の数は401、移動距離は12万キロ、沿道で歓迎した人たちの数は、660万人に達していたそうです。」(矢部宏治『戦争をしない国』小学館)