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【極北リレーエッセイ】初回のお題「音楽のある風景」→1人め:極内寛人 – 月刊極北

【極北リレーエッセイ】初回のお題「音楽のある風景」


1人め:極内寛人
(きめうち・ひろと/明月堂書店)

2017年12月1日


全国1000万人の極北読者のみなさま!!
年の瀬も押し迫ってまいりました。今日は12月1日です。
古来、「師も走りだす月」といわれる師走にちなんで、極北主要メンバーが順番にバトン(お題)を渡しながらぐるぐる回る「極北リレーエッセイ」を今月から開始します。初回のお題は「音楽のある風景」です。(極北編集部)


kimeuchi

 京都に、一千もの仏像が境内に並べられている大きなお寺があって、そこに行くと、参詣者はその一千の中から、必ず亡くなった親近者の懐かしい面影を宿した仏像と対面できるよ うになっているのだとか。
 何故なら、人間の表情、感情、外形は、どれも一千以内の類型に識別されて、それ以上はないかららしい。
 それを知ってか昔の人は、死者を悼み、また慰めを求めて来る人達の気持ちを慰撫するために、千体の仏像を用意し(死者との出会いの)場所を作ったのだそうだ。
 小学校四年生の時の担任に聞かされた話である。今にして思えば、多分、担任は「三十三間堂」を念頭に語ったものと思われるが、丁度その頃私は、 溺愛してくれていた祖母をなくしたばかりで、祖母への思いと、担任の話が妙に重なり、(その真偽は別に) 忘れられない記憶として残る事になった。人類は三〇億人( 当時そう言われていた)いても、千種類で全部なんだ、妙に少な( すぎるような)気がした事を覚えている。

 人間一二歳までの経験が総てであり、後はその経験をなぞるだけ。 晩年に至って人生来し方を振り返れば、そこでの出来事の総て、そして出会った人物の総ては、一二歳までの経験、 出会った人物のいずれかに類別出来で、 まさに天の下に新しき事なしと思い知らされるだろう。あのH・ヘッセはどこかにそんな意味のことを書いていた 。やはり妙に少な(すぎるような)気がしたが、 これは今の私の切実な実感でもある。

 仕事柄、パソコンをいじりながら時間を過ごす事が多い。それで( 実際そうでないからこそ)せめて形だけでも、 やり手ビジネスマンや、 優雅に喫茶店で仕事をこなす大御所クリエーターみたいな雰囲気を 仕事に出せればと、 何時も私はユーチューブから拾ったお気に入りのBGMを小さく流 しながらパソコンに向かうようにしているのだけれども、 拾うBGMのほぼ総てが、一〇代の頃私が聴いていた曲に限られている事に気が付いた。五〇、 六〇といくら齢を重ねようと、あいもかわらず、 同じ時代の曲を流している。
 無数にある餌の中から、 ひたすらたった一種類の餌しか補食しようとしないある種の昆虫に も似て、音 楽と名のつくものは世界中どこでも満ちあふれていながら、 自分に必要としている音楽は、たったこれだけだったのか。 そんな感慨が脳裏をよぎった時、 上記のエピソードをふと思い出したのだった。これって、 妙に少な(すぎるような)気がしないか? と。
(おわり)


リレーの2人めは竹村洋介さんです。