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「天皇を読む」第21回 たけもとのぶひろ【第138回】 – 月刊極北

「天皇を読む」第21回


たけもとのぶひろ[第138回]
2017年11月26日
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2017年11月22日付朝日新聞夕刊

2017年11月22日付朝日新聞夕刊

 再思三考する⑤「天皇のこと」
 美智子さまを支えた “三つの宝”

 美智子皇太子妃・美智子皇后は、どうにかなっていても不思議でないほどの、危なく険しい難所をしのいでこられました。前回は、その一端を紹介したのでした。では、その苦しみの日々・悲しみの日々のご自分について、皇后は、いったいどのような言葉でもってどのように語っておられるのでしょうか。それを見てゆきたいと思います。

 最初に、「天皇皇后両陛下御結婚満50年」を迎えられての思いをうかがいます。(平成21年(2009年)4月8日、皇后は74歳、天皇は75歳です)。
 皇后陛下は、「50年前、普通の家庭から皇室という新しい環境に入りましたとき、不安と心細さで心が一杯でございました。今日こうして陛下のおそばで、金婚の日を迎えられることを、本当に夢のように思います」と、感無量の面持ちです。
 俗に “十年一昔” と言いますが、半世紀もの歳月をしのいできたのです。それがだれのおかげか百も承知の天皇陛下は、そのままの気持ちを述べておられます。「本当に50年間よく努力を続けてきてくれました。その間にはたくさんの悲しいことや辛いことがあったと思いますが、よく耐えてくれたと思います」と。皇后の努力に対する尊敬と感謝です。

 以上は、お慶びの日であればこそのお言葉だと思います。その日を迎えるまでの歳月、皇后さまはどのようにしてご自身を保ち、もち堪えてこられたのでしょうか。
 この問いに対しては、すでに金婚の慶事を迎える日の4年前、平成16年の皇后陛下70歳古希のお誕生日のときに、宮内記者会の質問に対する文書回答のなかで答えておられます。記者会の問いのほうを、関係する部分に限って示すと次の通りです。
 曰く、「(半世紀近い年月)皇太子妃・皇后として務める日々の心の内にあったものは、どんなことだったでしょうか」と。

 この問いに対する文書回答のなかから滲み出てくるのは、美智子皇后の心の内に生まれつき備わった、次のような美質なのではないでしょうか。
 「両親への愛情と感謝」
 「庶民への感謝と報恩」
 「理想への憧れと献身」
 この三つについて語るとき皇后は、「指針」とか「励まし」など、ご自身を強く鼓舞する言葉を選んでおられます。美智子皇太子妃・皇后にとって、これらは、これまで自分を見失いそうになったときに、いつも心の内にあって、向かうべき方向を示し、拠るべき指針を与え、自分を励ましてくれた、心のあり方でした。美智子さまはこれらについて、ひそかに “三つの宝” とたたえたくなるほど、ありがたく思い、大切にしておられるのではないでしょうか。三者について順を追ってみてゆきたいと思います。

 第一は「両親への愛情と感謝」です。
 「古希を迎え、両親に育てられ、守られていた頃がはるかな日々のこととして思い出されます。家を離れる日の朝、父は「陛下と東宮様のみ心にそって生きるように」と言い、母は黙って抱きしめてくれました。両親からは多くのことを学びました。」
 ご両親へのこの感謝の言葉は、さらに10年後の傘寿のお誕生日においても、ほとんど同じ文章が再述されています。
 「80年前、私に生を与えてくれた両親は既に世を去り、私は母の生きた齢を越えました。嫁ぐ朝の母の無言の抱擁の思い出と共に、同じ朝「陛下と殿下の御心に添って生きるように」と諭してくれた父の言葉は、私にとり常に励ましであり指針でした。これからもそうあり続けることと思います。」

 10年という時間をへだてて、同じ趣旨の文章を並べてみて気づくことがあります。古希のときにはなかった文章が、傘寿の文書回答では加筆してあります。「父の言葉は、私にとり常に励ましであり指針でした」との一文です。お父上の「御心に添って生きるように」とはどのように生きることなのか、と自らに向かって問うこと自体が、美智子さまにとっては自らに対する「励まし」となり、「指針」へとつながっていったのではないでしょうか。

 第二は「庶民への感謝と報恩」です。
 「もう45年以前のことになりますが、私は今でも、昭和34年のご成婚の日のお馬車の列で、沿道の人々から受けた温かい祝福を、感謝とともに思い返すことがよくあります。(中略)あの同じ日に、私の新しい旅立ちを祝福して見送ってくださった大勢の方々の期待を無にし(てはならない)、私もそこに生を得た庶民の歴史に傷を残してはならないという思いもまた、その後の歳月、私の中に、常にあったと思います。」
 昭和34年のあの日の馬車の行進、沿道の人たちの祝福の声・激励の声――美智子さまは何度も繰り返して飽きることなく思い出されたであろう光景です。あんなにも祝福していただけるなんて! 人々の期待に応え、人々のために尽くし、恩に報いなければ! 同じ庶民の一人として間違っても庶民の歴史を汚すようなことがあってはならない!
庶民への感謝の気持ちと報恩の願いには切なるものがあり、その心が美智子さまの人生の支えとなったに違いありません。

 上記に引用した文章回答のなかで(中略)とした部分があります。
 「東宮妃として、あの日、民間から私を受け入れた皇室と、その長い歴史に、傷をつけてはならないという重い責任感とともに……」と、皇后は書いておられるのでした。その前後は先に引用した通り、庶民・人々への思いを励みにしてきた旨の叙述であり、ごくごくわかりやすい。ですが、「皇室とその歴史」に「傷をつけてはならない」という話になると、どういうことなのか、説明が求められるような気がしました、そこでいったん(中略)としたのでした。両者を比較してみましょう。

 前者は、ご自身が庶民の歴史に「傷を残してはならない(=傷になってはならない)」との思いです。これは、いわば内面から出てくる、自ずからなる決意だと言えるのではないでしょうか。こういうことであれば、身に即してイメージできますし、納得がいきます。
 ところが、後者。「皇室とその歴史」に「傷をつけてはならない」――あるいは「皇室の歴史」に「傷がついてはいけない」――となると、「皇室とその歴史」こそが「内的な主体的な存在」である、という定義になるのではないでしょうか。そして、天皇・皇后・皇太子・皇太子妃などの地位にしろ、その地位に付随して発生する義務や責任などにしろ、それらは、その大本にある「内的な主体的存在」としての「皇室とその歴史」が、外へと現われ出たものにほかならない――こういう次第になるのではないでしょうか。
 もしもそういう論理になっているとしたら、然るべき地位にある者が然るべき責任をはたすことができない、となると、「外なる世界」に齟齬をきたし、ひいては「内的な主体的存在」を傷つけることになりかねません。問われる責任は重い、とならざるをえないのではないでしょうか。すこし脇の道に入りこんだきらいがあります。本筋にもどします。
 美智子皇后の “三つの宝” のうち、最後の心について考えます。

 第三は「理想への憧れと献身」です。
 古希文書回答のなかで皇后がこの点について述べておられるのは以下の通りです。
 「まだ若かった日々に、社会の各分野で高い志を持って働く多くの年長の人たちの姿を目のあたりにし、その人々から直接間接に教えを受けることができたことも、幸運でした。とりわけ、自らが深い悲しみや苦しみを経験し、むしろそのゆえに、弱く、悲しむ人々の傍らに終生よりそった何人かの人々を知る機会を持ったことは、私がその後の人生を生きる上の、指針の一つとなったと思います。」

 ここで皇后は、何人かの年長の人たちの生き方に学び、ご自身の「人生を生きる上の指針の一つ」を得たと述べておられます。「自らが深い悲しみや苦しみを経験し、むしろそのゆえに、弱く、悲しむ人々の傍らに終生よりそった何人かの人々」の、そのひたむきな生き方に接したとき、身に沁みて感じるところがあったのではないでしょうか。ご自身も、そのように「弱く、悲しむ人々」に身を寄せて、その人たちのことを思う、そういう人間でありたい、そういう人生であらねば、との思いを抱かれたと思うのです。

 何にもまして耐え難かったのは、ご成婚4年目、昭和38年(1963年)3月の第二子流産の悲劇でした。宮中の女官・皇族・華族の敵意に包囲されるなか、皇太子との「暖かいホーム」をつくろうと孤軍奮闘真っ只中の美智子妃殿下です。再起が危ぶまれるというより、もっと端的に言うと、死ぬ思いをされたのではないでしょうか。
 流産の後およそ1カ月して葉山の御用邸へと静養の旅に出られたことは、すでに紹介した通りです。宮内庁から同行した、東宮侍従・女官・東宮侍医・看護官・大膳(食事係)などは、最小限の人数だったと言います。
 御用邸での美智子さまのご様子については、渡邉みどりさんの前掲書に記述があります。
 「ほとんどお話もなさらず、読書をされる日々でした。お話もしたくないといったご様子で、用事がおありのときは、ドアの隙間から用件をお書きになったメモを差し出して、ご用を足していたそうです。葉山でのご静養は二カ月半にもおよんだのです。」

 上記文書回答に「弱く、悲しむ人々」とあります。これは、美智子さまの人生を知らずに読むと、単なる言葉として読めてしまいますが、決して他人事ではありません。ほかならぬご自身が、苦しみと悲しみのなかで、めげそうになりながらもめげずに、闇のなかに光を求めて、ここまで生きてこられたのでした。
 ですから、「弱く、悲しむ人々」とお書きになるとき、ご自分もその一人であること十分に承知しつつ書いておられるのだと思います。ですから、「弱く、悲しむ人々」に接するとき美智子さまは、我が身のことのように思い、哀れとも思い、愛しくも思い、ただただ祈るような気持ちになられるのではないでしょうか。

 葉山御用邸での美智子皇太子妃は、悲しみの淵に沈み、まかり間違えばどうなるかわからない、窮地に立っておられたと思うのです。そのときにご自身の心に芽生えたものがあったのではないでしょうか。苦しみや悲しみからのがれたならば、その向こうに幸せが待っている、というのは、どうもウソっぽい。この苦しみや悲しみと共にあってこその、救いであり幸せでなければならない、これがホントのことではないか、と。

 美智子皇后は、皇太子妃の時代、それも結婚4年目の若さで、上記のような残酷な目に遭っておられます。であったればこその、こんにちの皇后さまなのでありましょう。
 あの時に芽生えた思いが、古希のお言葉における「第三の指針」という形で実を結ぶまでに、美智子さまの内面は、深まりを増してますます暖かくなっていったのではないか、と察せられます。その間、いろんな思念が浮かんでは消え、消えては浮かんだことでありましょう。そのほんの一端ですが、垣間見る思いのする文章があります。「昭和55年(1980年)10月18日 美智子皇太子妃46歳の誕生日会見」のなかから引用します。

 「私は、人はひとりひとり自分の人生を生きているので、他人がそれを十分に理解したり、手助けしたりできない部分を芯にもって生活していると思うのでございますね。ですからそうした部分に立ち入るというのではなくて、そうやって皆が生きているのだという、そういう事実をいつも心にとめて人にお会いするようにしています。
だれもが弱い自分というものを恥ずかしく思いながら、それでも絶望しないで生きている。そうした姿をお互いに認めあいながら、なつかしみあい、励ましあっていくことができればと、そのように考えて人とお会いしています。」

 ぼくなりに読み進むうちに生まれてくる理解をそのまま言葉にして示します。
 ――いったんこう言ってみましょう。人はその人にしかわからない苦しみや悲しみを抱えて、ひとりで生きている、そのようにいうしかない部分がある、それが人生というものではないか、と。それはそうでしょう。そもそも、他人(ひと)の人生について、その苦しみや悲しみを解ってあげたり助けてあげたりすることがはたしてできるものかどうか、大いに疑問です。
 ですから、あえて、他人(ひと)のそういう領域には立ち入らない、そうありたいと思うのです。とはいっても、どんな人間にもそういう心の領域があることを承知したうえでないと、とても人にお会いすることなどできません。人にはやはり、その人にしかわからない苦しみや悲しみというものがあって、人は皆、それをなんとか耐えてしのいで生きているのだ、と思います。そういう思いを持って生きていきたい、ということです。
 だれもが「弱い自分」というものを持って生きているということです。無い物ねだりと知りつつも、解ってほしい・助けてほしいと思うのが人情ではないでしょうか。それが「自分の弱さ」だと思うのです。ところが、ここに具合の悪いことがあります。弱さとその表われというのは人様々、千差万別だということです。人によって表れが違いますから、だれもが錯覚して、自分だけが弱いかのように思い込み、恥ずかしい思いに耐えながら、それでもそういう自分に絶望しないで、なんとかしのぎながら生きている。それが人生というものではないでしょうか。

 では、どのようにして生きていけばよいのか。
 上記の文章の中の最後に、美智子妃殿下の答えがあります。
 「そうした姿をお互いに認めあいながら、なつかしみあい、励ましあっていくことができればと、そのように考えて人とお会いしています」とおっしゃっています。
 ぼくなりに敷衍し、説明的な表現にしてみます。
 • その人その人に、その人に固有の「自分ひとりの人生」というものがあるのは確かでしょう。そうだとしても、だれもが「弱い自分の人生」を生きてきた事実は動かせないのではないでしょうか。
 • みながそれぞれの「自分の弱さ」のままに生きるところから出発することができれば、どんなでしょうか。弱いままのお互いの自分をお互いのなかに見て、共に生きることができれば、どんなに楽になることでしょうか。なにかしら慰められるというか、救われるというか、そういうところもあるのではないでしょうか。「自分ひとりの人生」の辛さは消えてなくならないにしても、です。
 • それにしても、美智子さまの「……お互いに認めあいながら、なつかしみあい、励ましあっていくことができれば………」は、しみじみと胸を打ちます。

 “鍵” になっている言葉を挙げてみます。「ひとりひとり自分の人生」「弱い自分」「お互いに~しあう」などです。最後のフレーズをあえて分けていうならば、「お互いに」は相互性を意味していると思います。「~しあう」は「共にする」ことを意味するところから、共同性を指しているのではないでしょうか。
 美智子さまの上記文章をジグソーパズルに喩えるとしたら、完成させるには、あと一枚、最後のピースが残っています。何か。「それでも絶望しないで生きている」、これです。
 「それでも生きている」「絶望しないで生きている」ということです。別言すれば、「耐えて生きている」ということです。皇太子妃の人生にとって大事なことは、一つには、「それでも」「絶望しないで」「耐えて」生きていることです。いま一つは、「生きている」ということです。「生きる」とは仰っていない。ここにも皇太子妃の生き方が表われていると思われますが、この点については機会を改めます。

 以上、皇太子妃46歳のときの言葉についてみてきました。それからおおよそ四半世紀の歳月を経て、70歳古希の言葉があります。二つの文章は、時を越えて、しっかりつながっている、というのが実感です。
 70歳のお言葉のなかの皇后は、「まだ若かった日々」に出会った人生の先輩たちのことを思い出しておられます。 “ああ、あの時だったのだ。のちのち自分が「生きる上の指針の一つ」として大切にしてきた道を学んだのは!” と。
 以来、皇太子妃の美智子さまにとっても、皇后の美智子さまにとっても、生きることの意味は「弱く、悲しむ人びとのかたわらに終生寄り添って」生きることでした。言葉としてはだれでもわかる、けれど実際にそのように生きること、生きてみせることは、容易ではなかったと思います。そのような険しい難路をゆくのが、美智子さまの憧れであり理想だったのだと思います。