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「天皇を読む」第19回 たけもとのぶひろ【第136回】 – 月刊極北

「天皇を読む」第19回


たけもとのぶひろ[第136回]
2017年11月4日
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『新装版 道 天皇陛下 御即位十年記念 記録集 平成元年~平成十年』

『新装版 道 天皇陛下 御即位十年記念 記録集 平成元年~平成十年』

再思三考する「天皇のこと」③
 「倭建御子(やまとたけるのみこ)と弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)」の思い出

前回、明仁天皇と美智子皇后の、結婚へ至る運命的な出会い、ということを書きました。
 その出会いについて、皇后さまはどのような意味で「運命」を感じられたのでしょうか、
 このことを考えるうえで、これに勝るものはないと言って言い過ぎでないテキストがあります。国際児童図書評議会第26回世界大会(ニューデリー 平成10年 1998年)における基調講演「子供の本を通しての平和——子供時代の読書の思い出」が、それです。原文は日本語、スピーチは英語、ビデオレターに仕上げてニューデリーまで届けられたとされています。ぼくは『道(平成元年〜10年)』(宮内庁篇 NHK出版)『橋をかける 子供時代の読書の思い出』(文春文庫)で読んでいます。

 美智子さんが小学校の4学年に進級するころの日本は、戦況が悪化し、みんな田舎へ疎開し始めます。正田家も父親と兄さんを東京に残し、ご本人と母親と妹弟の4人は疎開地をあちこちし、3度目の疎開先で終戦を迎えます。疎開先へは父親が、たまにですが、何冊かの本を手に激励に来てくれたそうです。その中に、子供のために書かれた日本の神話伝説の本があって、そこに「一つ忘れられない話がありました」と彼女は書いています。倭建御子(やまとたけるのみこ)とその后(きさき)の物語が、それです。
 皇后は、どうしてその物語を忘れることができなかったのでしょうか――講演のなかで、物語のあらましを語って、その問いに答えておられます。

 長い引用――というより書き写し――になりますが、講演の当該部分を紹介します。
 その前にちょっと、辞書からの知識を書いておきます。
 倭建御子(やまとたけるのみこ)と言うときの「御子(みこ)」は、天皇の子を意味し、「皇子(おうじ)」とも書く、とあります。また、ヤマトタケルノミコト(日本武尊、倭建命)については、「大和国家成立期の伝説的英雄。景行天皇(71〜130、第12代天皇)の皇子。天皇の命で九州の熊襲を討ち、その首領から日本武尊の称を奉られた。さらに東国の蝦夷を討ち、その帰途、伊勢で没した」とあります。
 では、皇后のスピーチの日本語原文を書き写します。

 「 ――年代の確定できない、6世紀以前の一人の皇子の物語です。倭建御子(やまとたけるのみこ)と呼ばれる皇子は、父親の命を受け、遠隔の反乱の地に赴いては、これを平定して凱旋するのですが、あたかもその皇子の力を恐れているかのように、天皇は新たな任務を命じ、皇子に平穏な休息を与えません。悲しい心を抱き、皇子は結局はこれが最後となる遠征に出かけます。途中、海が荒れ、皇子の船は航路を閉ざされます。この時、付き添っていた后、弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)は、自分が海に入り海神のいかりを鎮めるので、皇子はその使命を遂行し覆奏してほしい、と云い入水し、皇子の船を目的地に向かわせます。この時、弟橘(おとたちばな)は、美しい別れの歌を歌います。

   さねさし相武(さがむ)の小野(をの)に燃ゆる火の
   火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも 【注 さねさし=相模にかかる枕詞】

 このしばらく前、建(たける)と弟橘とは、広い枯れ野を通っていた時に、敵の謀(はかりごと)に会って草に火を放たれ、燃える火に追われて逃げまどい、九死に一生を得たのでした。弟橘の歌は、「あの時、燃えさかる火の中で、私の安否を気遣って下さった君よ」という、危急の折に皇子の示した、優しい庇護の気遣いに対する感謝の気持ちを歌ったものです。
 (1行余 中略)弟橘の言動には、何と表現したらよいか、建と任務を分かち合うような、どこか意志的なものが感じられ、弟橘の歌は(1行半近く 中略)あまりにも美しいものに思われました。「いけにえ」という酷い運命を、進んで自らに受け入れながら、恐らくはこれまでの人生で、最も愛と感謝に満たされた瞬間の思い出を歌っていることに、感銘という以上に、強い衝撃を受けました。はっきりとした言葉にならないまでも、愛と犠牲という二つのものが、私の中で最も近いものとして、むしろ一つのものとして感じられた、不思議な経験であったと思います。
 この物語は、その美しさの故に私を深くひきつけましたが、同時に、説明のつかない不安感で威圧するものでもありました。
 古代ではない現代に、海を静めるためや、洪水を防ぐために、一人の人間の生命が求められるとは、まず考えられないことです。ですから、人身御供というそのことを、私が恐れるはずはありません。しかし、弟橘の物語には、何かもっと現代に通じる象徴性があるように感じられ、そのことが私を息苦しくさせていました。今思うと、それは愛というものが、時として苛酷な形をとるものかも知れないという、やはり先に述べた愛と犠牲の不可分性への、恐れであり、畏怖であったように思います。(後略3行)――」

 10歳の少女はその物語を読んで衝撃を受けました。その衝撃のなかで、少女は直観しました。愛と犠牲とは実は同じものの別の表現であって、分けようにも分けようがない、一つのものなのだ、と。そのときの衝撃、直観、感動は、少女のなかでしっかりと記憶されていたのでしょう、その少女が長じて、皇太子妃となり皇后となるなかで、弟橘(おとたちばな)の記憶はくり返し反芻され、再体験されてきたのではないでしょうか。
 そうした思いもあってぼくは、皇后が「弟橘の物語」をどのように語っておられるか、知りたいと思いました。ぼくなりに受け止めたところを以下に記します。

 弟橘(おとたちばな)は、夫の倭建御子(やまとたけるのみこ)と共に、遠征の途上にあります。二人は兵を率いています。任務は戦争勝利です。途上、海が荒れて危機に直面します。弟橘は、海の神の怒りを鎮めるために「いけにえ」となって入水することを決意し、夫の建御子(たけるのみこ)への別れの歌を詠みます。というか、その美しい歌を詠むことによって弟橘は、夫とのあいだの「最も愛と感謝に満たされた瞬間」をその身に再現することができ、揺るぎない決意に至ったのでした。彼女は自身にこう言って聞かせたに違いありません――自分は自身の命に代えても、夫の建(たける)を守りたい、これはレトリックではない、愛する夫のために自分を「いけにえ」として海の神に捧げるのだ、つまり夫のために死ぬ、死ぬことが愛の証しなのだ、と。

 同じことを別なふうに言うとしたら、こんな具合でしょうか。
 建御子と后の弟橘とは、自らの意志で同じ一つの運命を選択し、その運命を背負って生きてきたのでした。であってみれば、互いが共有する、同じ一つのその運命に身を捧げるときにこそ、ふたりの愛は成就するのではないでしょうか。愛のなかに犠牲があり、犠牲のなかに愛がある、二つはもともと一つなのだ、と。単なる言葉ではなくて、と。

 皇后さまは、弟橘について次の三点を指摘しておられます。
①弟橘の言動には、建と任務を分かち合うような、どこか意志的なものが感じられる。
②「いけにえ」という酷い運命を、進んで自らに受け入れながら、恐らくはこれまでの人生で、最も愛と感謝に満たされた瞬間の思い出を歌っている。
③弟橘の物語には、現代にも通じる象徴性があるように感じられる。

①についての、ぼくなりの理解はこうです。
 人間たるもの、運命には逆らえませんし、それから逃れることもできません。自ら進んで受け容れる、自らの意志で選び直すほかありません。逃げずに選び直したとき、運命はその人のなかで任務(務め)となるのではないでしょうか。
②について。天与の運命を自らの任務として意志的に選びとったとき、人は、最大の愛と感謝に恵まれるものかもしれません。
③において、皇后さまは語っておられます。「弟橘の物語」のなかには「現代にも通じる象徴性がある」、と。この物語は、千数百年の時間を生き抜いて語り伝えられおり、これからも語り継がれていくに違いありません。弟橘という女性の生き様に象徴させて語るこの物語は、いつの時代であってもそうありたいと願う「人としてのあり方」がある、と教えています。その意味で現代に通じていると思います。

 「象徴」ということについて、ここまで書いてきての感想めいたものをそのまま率直に申し上げれば、倭建御子(やまとたけるのみこ)とその后(きさき)弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)の物語は、あたかも「明仁天皇と美智子皇后の物語」を象徴するかのように感じられてなりませんでした。

 ご結婚にあたっての美智子さまの思いについては、前回くわしく見たところです。正田美智子さんは、「東宮さまのために乏しい力の全部をあげて暖かいホームを作ろう」と決心し、自らの意志で運命を選択し、熱い思いをもって皇太子さまの腕の中に飛び込んでいかれたのでした。では、結婚を直前にした明仁皇太子は、どんな思いを抱いておられたのでしょうか。思いを打ち明けられた美智子さんは、こう仰っています。
 「殿下はまたかつて私に、自分は生まれと境遇からも、どうしても世情に迂(うと)く、人に対する思ひやりの足りない心配がある。どうか、よく人情に通じた、思ひやりの深い人に助けてもらひたいものだ、といはれたことがある」と。

 当の皇太子はというと、報道陣の、結婚について評論めいた質問に対して、「ぼくは彼女を好きになって結婚するんです」と率直に答えておられます。
 またお付合いをしている頃の明仁皇太子は、彼女に宛てて何度も手紙を書き、電話をかけるなかで、自分の求める天皇像について「国民とともに歩み、憲法を尊重した新しい形の皇室を作っていきたい」との意志を明確に示し、新たな天皇を実現するために「共に苦難を乗り越えてほしい」とプロポーズされたと伝えらえています。

 そうして「結婚の儀」が執り行なわれたのでした。昭和34(1959)年4月10日のことです。そのあとのお二人の人生を、明仁皇太子・明仁天皇の目で振り返っていただきましょう。どのように見えるか、以下に示します。
①皇太子時代の昭和58(1983)年12月20日——50歳のお誕生日会見
(結婚25周年を前にして)この25年間を振り返ると、やはり絶対にそれまで味わえなかった心の安らぎを得られたと思います。(中略)それまで一人でしたから、心の安らぎというか安定はありませんでした。
②平成5(1993)年12月20日――60歳のお誕生日会見
(還暦に際し最も印象に残っていることは)私自身のことに関しましては、結婚が挙げられます。温かみのある日々の生活により、幸せを得たばかりでなく、結婚を通して自分を高めたように感じています。
③平成15(2003)年12月18日――70歳のお誕生日会見
私自身にとり、深い喜びをもたらしてくれたものは皇后との結婚でした。どのようなときにも私の立場と務めを大切にし、優しく寄り添ってきてくれたことは心の安らぐことであり、感謝しています。

 明仁天皇は、ご成婚以来何十年経っても、同じ一つのことをくり返し述べておられます。人生最大の喜び、幸せを享受させてくれたのは、皇后との結婚だった、その結婚がもたらしてくれた心の安らぎこそ、他をもっては代え難い至高の宝だ、と。

 とりわけ大切な指摘がなされたのは、上記③の「70歳のお誕生日会見」においてです。
 陛下は、天皇になられてから、あと少しで15年目の区切りを迎えるというこの時点で、過ぎ去りし日々を振り返っておられます。少し言葉を足してその趣旨を述べると、次のようなことではないでしょうか。
 “ 象徴天皇のあるべきあり方を求めてここまでの道のりを歩み続けてきましたが、その間ずっと、皇后が優しく寄り添い、一緒に歩いてくれました。道中を共に歩んできてくれたことで、どれだけ心安らぐ思いをしたかしれません。皇后には本当に感謝の気持ちで一杯です。”

 このように敷衍して噛み砕いて書いたのは、両陛下の間柄を通俗的なレベルで解釈してほしくないからです。おふたりは、夫唱婦随の関係ではありません。陛下の後を皇后陛下が付き従う、そういう関係ではありません。また、夫婦は一心同体、みたいなキレイ事で誤魔化せるような話ではありません。お二人の関係をどうしても四文字熟語で表現せよというのであれば、相即不離の関係、というのが近いのかもしれません。
 『新明解』は「相即」を次のように説明しています。「どちらが本(=原因)でどちらが末(=結果)か区別がつきにくいほど、深い関係をもっていること」と。『日本語大辞典』(講談社)には、「一つにとけあっていて、離すことができないこと」とあります。
 惜しむらくは、これだと、両陛下はともに一個の独立した人格である、という大事な真実が軽視されかねません。そうは言っても、おふたりのあり方・関わり方を「相即不離の関係」とする表現は、捨てきれません。天皇の立場があり、皇后の立場がありながら、務めについては天皇・皇后の別があるわけでなく、「一つの務め」を共同しておこなう、というのが両陛下のスタンスかと察せられるからです。「天皇=皇后」職は共同事業である、というのがお二人の考えではないでしょうか。

 ここで、お二人の公務の現実を見ておきたいと思います。斉藤利彦さんの『明仁天皇と平和主義』(朝日新書)から引用します。
 「実際に現在も天皇は、多くの公務を皇后と共に遂行している。天皇が単独で行なうものは、2割強にすぎないという。その(=2割強の)中には、「国事行為」として、もともと皇后が同伴し得ない行為も含まれている。昭和天皇の時代には、皇后と共に行なわれたのは一部のものにすぎなかったことを考えれば、まさに明仁天皇の歩みは美智子妃という伴侶を得たことにより、二人の共同の歩みとして進められているといえよう。」
 斉藤さんのこの文章は “我が意を得たり”の趣旨です。 “強力な援軍” と言いたいほどです。

 いまひとつ、『天皇陛下の本心』(新潮新書)の著者である山本雅人さんが、③のお言葉を生で聴いた際の感想を述べています。以下に紹介します。
「筆者は、皇后さまとのご結婚が「深い喜び」という、この平成15年のお誕生日会見を会見場(皇居・宮殿「石橋(しゃっきょう)の間」)で生で聞いていたが、これ以上ない率直な表現に、こちらも素直に感動した。筆者がじかに聞いたおことばの中では一番印象に残っているものであり、そのくだりを話されているシーンを今でも鮮明に思い出すことができる。」

 皇太子明仁親王殿下と正田美智子さんのご成婚は、昭和34年(1959年)4月10日のことです。ということは、おおよそ45年の歳月を経て70歳になられた陛下にしてこのお言葉がある、ということです。並の日本人の男性の水準をはるかに超えておられます。
 普通なら口に出して告げることの稀有な感謝の言葉を、陛下は、機会のあるたびに何度も繰り返して、70歳になられても、万人注視の中で告げておられます。聞きようによっては単なる “おのろけ” に過ぎない言葉が、どれだけ相手の人格を尊んでいるかという、ご自身のありのままの思いの告知になっている、だから聞く人の感動を誘ったのではないでしょうか。

④「70歳のお誕生日会見」のあとが、まだ続きます。平成25(2013)年12月18日、80歳のお誕生日会見において、このテーマについての総括とでも言うべき発言があったのです。その発言は以下の通りです。
「天皇という立場にあることは孤独とも思えるものですが、私は結婚により、私が大切にしたいと思うものをともに大切に思ってくれる伴侶を得ました。皇后が常に私の立場を尊重しつつ寄り添ってくれたことに安らぎを覚え、これまで天皇の役割を果たそうと努力できたことを幸せだったと思っています。」

 前回のお誕生日会見の際に陛下は、「私の立場」という物の言い方をしておられました。80歳の会見では、それをさらにつきつめて、ご自分に限らず天皇という立場は何どういうものかということを問いつつ語っておられるのではないか――そういう印象を受けます。
 これまでの一連の会見をふりかえるなかで、この回の会見を拝読していて気づかされたことがあります。陛下が「天皇という立場」「天皇の役割」といういわば概念的な表現を用いておられること、さらには皇后さまについても「伴侶」という言葉を選んで、あらまほしき「天皇と皇后の関係」を定義しておられること――そういうことを印象深く感じました。
 陛下はこのように述懐することで、おふたりしてたどり着かれた今日の境地の一端に触れられたのでありましょう。であるからこそ、聞く者の胸を打つのではないでしょうか。

 「伴侶」とは道連れのことでしょう。おふたりの場合、人生の道連れであると同時に、「理想の天皇」への道を探りつつ、連れ立って歩く同志なのだと思います。おふたりの言葉を編んだ「天皇陛下御即位記念記録集(宮内庁編)」の書名が『道』であることは、この間の事情を物語って、まことに象徴的だと思います。