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「ポストモダン」と「ソーカル事件」に便乗して目立とうとする「山川賢一とその仲間」という寄生虫はどうやって生まれてきたのか? 仲正昌樹【第44回】 – 月刊極北

「ポストモダン」と「ソーカル事件」に便乗して目立とうとする「山川賢一とその仲間」という寄生虫はどうやって生まれてきたのか?


仲正昌樹[第44回]
2017年5月8日
[1]

『「知」の欺瞞』(岩波現代文庫、2012年)

『「知」の欺瞞』(岩波現代文庫、2012年)

 第四十一回 [2]から三回にわたって、「ポストモダン批判」の名の下に、多少名の知れた学者・知識人に対して誹謗中傷をして憂さ晴らしている、山川賢一とその仲間たちの行状と、彼らの基礎学力の欠如について述べてきた。山川は全く反省する様子もなく、四月の下旬になって、以下のようなふざけたことをツブヤイテいた。

いや、どうもポモはソーカルの話になると予想以上に激しい反応をするので、ひたすら蒸し返していくだけでも効果はあるのかなと思って。

これからはオリジナリティのあるポモ批判はネットには書かず、定期的にソーカル事件を蒸し返していこうと思います

 こいつは自分の言っていることが分かっているのだろうか? これでは、「ポストモダン(ポモ)」と見なされている人をからかい、評判を悪くすることに喜びを感じる屑だと自白しているようなものである。山川は、ソーカルとブリクモンの『「知」の欺瞞』を読んで、その内容を要約してツイートしているかのように装っているが、実際に読んでいるかかなり怪しい。単なる孫引きか、読解力と真剣さの不足による早とちりとしか思えないところが何か所もある。それらについては、この後の話しの流れで順次指摘していくことにする。
このふざけたツイートに対して、学者ぶった口調で私にしばしば絡んでくる偽トノイケダイスケ(久弥中)‏という人物が同調し、以下のようなことを言っている。

そもそも、ソーカル事件が「大したことが無かった」のならば(まぁソーカルに批判された人やその批判があて嵌まる人を除けば)基本的に無視すればいいと思うんだけど「大したことが無い」を延々と繰り返している時点で、流石「理性を嫌い感情を称揚する」ポモだなぁと感心する。

ソーカルの批判が「ポモ全体の思想評価には関係ない」(これはソーカルの表面的な立場もそう)だとするならば、ソーカルの部分的批判を受け容れて「次からはこういう事が無いように気をつけましょう」でFAなんだけど、何故かそうには成らず「ソーカル事件は無かった」と有耶無耶にするからこそ……

 状況認識がおかしい。数学・物理学の不正確な使用の問題に限定して、穏当に批判している人たちだけであれば、ポストモダン系とされる論客の多くは話し合いに応じるだろう。山川やこいつのように、「ポモは数学の概念を間違って使用した。これはポモの理論が根底から論破されたことを意味する!」「お前たちはこれまで詐欺行為を働いてきた」「過ちを認めないポモ連中は欺瞞だ!」といった調子で喚き立てたら、到底話しをする気にならない。そういう連中に対して、部分的にでも間違いを認めるような態度を取ったら、曲解されてどういうことになるか分からない。特に山川のように、自分でもよく分かっていない孫引きの内容を基に相手を罵倒して、快感を覚えるような人間は、相手にされなくて当然である。といっても、山川や偽トノイのような訳の分からない連中が、同じように訳の分からない連中を集めてきて、ポモ系とされる人を名指しで誹謗中傷すれば、不愉快なので、何らかのリアクションをすることもあるだろう。偽トノイの言う「「大したことが無い」を延々と繰り返し…」というのは、実体としてはそういうことである。

 四十一と四十二回 [3]に述べたように、既にアカデミックなポジションを得、研究発表の媒体を得ている人であれば、訳の分からない外野がいくら悪口を言っても、実質的に困ることはない。ソーカル事件の本場であるアメリカでは、学会間、専門分野間、大学間でのポストや予算の取り合いをめぐる政治的事情が絡んでいるので、アメリカの状況について語る場合は表面に出ていない様々な要素を考慮に入れないといけない。しかし、少なくとも日本では、ソーカル騒動を聞きつけた山川や偽トノイのような、“ポモ系の学者”にルサンチマンを抱いている輩や、それに毛の生えた程度の無教養な学者未満が、ネット上で空騒ぎしているだけなので、名指しされてしまった人が不快感を覚えるかどうかだけの話である。
 山川はこれまで、「ポストモダン」系と目される代表的な思想家や研究者に対して、罵倒などふざけた態度抜きで、きちんと対話をしようと試みたことが一度でもあっただろうか? ひょっとすると本人たちはそんなことは考えたことすらなかったのかもしれない。
 この後で見るように、彼らは特定の学者・知識人をいきなり罵倒しまくり、「まともに相手にできる相手じゃないな」という印象を相手に与えた後で、「何故俺を無視する! 逃げるのか?」「質問しているだけなのに、どうして素直に答えてくれないんでしょうね?」、などとしらじらしくツブヤクような輩である。自分がまともなコミュニケーションを不可能にするような無礼な振る舞いをしていることが分からないくらい受けた教育が悪かったのか、記憶力に問題があるのか、それとも、相手の学者・知識人はどのように無礼な振る舞いをされても、“質問”されたら答える義務があると勝手に思い込んでいるのか――無論、連中はまともな“質問”などしない。本気でやっているとしたら、認知機能に根本的な歪みがあるとしか思えない。

 ところで、山川や彼とつるんでこの件に関連して私を誹謗中傷している輩の中にはフランス文学・思想関係の院生崩れがいるが、彼らはこれまでソーカル、ブリクモン、ブーヴレス等によってやり玉に挙げられている「ポストモダン系」の学者たちに、数学や物理学の概念の濫用についてどう思うかと、問い合わせをしたことがあるのだろうか? 山川や彼と近い年代の元院生であれば、院に在学中にボードリヤールやデリダはまだ存命だったはずである。クリステヴァやイリガライは現在も存命である。ラカンは八〇年代に亡くなっているが、前回 [4]指摘したように、山川が早とちりでからかった(つもりになっていた)ラカンの娘婿で、後継者と目されるジャック=アラン・ミレールは存命である。ソーカル事件が「ポストモダン系」思想の本質に関わる大問題だと確信したのだとすれば、どうして彼らに問い合わせをしなかったのか。本当に大問題だと思ったのなら、「ポモ」の一人と目されることの多いロラン・バルトの研究をしていたはずの山川は、そうすべきである。問い合わせをしているのなら、どこかでそれを喧伝しているだろうから、何もしなかったのだろう。どうでもよかったのか、そもそもフランス語で手紙を書くことはおろか、読むことさえおぼつかないかのいずれかだろう――恐らく両方だろう。フランス語ができないのなら、英語でいいから真摯な手紙を書いたら、大物の“ポストモダニスト”の中に答えてくれる人はいたろう。私は一度、雑誌の編集の関係で、デリダに直接手紙(フランス語)を書いたことがあるが、すぐに自筆の返事をもらった。アメリカ在住のデリダやドゥルーズの研究者――あるいは彼らを批判する側の立場の研究者――には、メールで質問したらフランクに答えてくれる人が結構いる。ひょっとして、山川は英語の手紙さえ書けないのだろうか? 前回指摘したミレールとジジェクの記事に関する彼の頓珍漢な態度を見ていると、英語もまともに読めないのではないかと思えてくる。

 さて、上記のようなバカげたポモ批判を蒸し返した数日後、四月の末日に山川は、第四十一回に掲載した文章に対する“反論”として、誤読と悪意に満ちた文章「仲正昌樹のソーカル事件をめぐる記事について」をブログにのせ、それをツイッターで拡散した。それに、彼と同等のバカたちが何人かよく分からないまま食いついてきた。以前から私に因縁を付けてくる院生崩れ、自称批評家や山川のお友達(自称医療ジャーナリストの祭谷一斗等‏)、いろんな事件に無理に絡んで目立とする下品な学者などである。
 山川の文章は話の流れが悪く、私を激しく罵倒していること以外は何がポイントか分かりにくいのだが、おかしい所をできるだけピンポイントで指摘していこう。以下のように始まっている。

 仲正昌樹さんが「月刊極北」の連載で、ソーカル事件にたいして意味はないという話を以前からしている。(…)さらに、最近三か月の連載は、すべてソーカル絡みの内容だ。ここではぼくも批判されている。

 中略の所には、『極北』の当該の回へのリンクが貼られている。こういう出だしだと、まるで私が、ソーカル事件やポストモダンをめぐる一連の記事の流れの中で、「反ポモ」の代表として山川を取り上げ批判し始めたように見えるが、肝心な所を誤魔化している。第四十一回の連載で述べたように、「たかはし@調布圧倒的成長部@tatarou1986」という人物がツイッター上で、私に対して、ソーカル事件に関連付けていきなりふざけた誹謗中傷を始めた。山川はそれに便乗し、私の著作『集中講義!日本の現代思想』(NHK出版)について、「ポストモダン言説史を2000年代まで語りつつ、ソーカル事件に一切触れないってのは卑怯者としか言いようがないですからねえ。議論する価値もないです」などと述べ、私に対する人格攻撃に加わった。
 前後のツイートやこれまでのネット上での行状から分かるように、山川はもともと、東浩紀氏や千葉雅也氏などのポストモダン系の売れっ子に絡んで、目立つことにしか関心がない奴である。彼等が相手にしてくれなくて、面白くないので、元々さほど関心がなかった私に対する悪口ツイートに便乗し、憂さを晴らそうとしたのは明らかである。個人的なストレス解消のために、「ポストモダン」や「ソーカル事件」、そして私を利用しようとする山川の横着さに憤りを覚えたので、三回にわたって、山川の「ポストモダン」に関する認識のおかしさ、思想史や文芸批評に関する基本的知識のなさを指摘したのである。山川や祭谷はその肝心なことを誤魔化している。祭谷に至っては、まるで私の方から挑発したかのような言い草である。彼らは卑劣さそのものなのか、それとも彼らの中では、自分に都合のいいように記憶が改編されてしまうのか?
 その山川が今頃になって“反論”と称して、再び私を攻撃し、“結論”として私を相手にする必要がないと宣言している――恐らく仲間内や、いつも私に絡んでくる常連向けのアピールなのだろう。彼の言い分は、自分の理解力のなさを相手に転嫁して難癖を付ける、ひどいしろものだが、「反ポモ」を標榜してネット上で暴れている人間の思考の杜撰さ、無教養ぶりを端的に示す絶好の例なので、どこがおかしいのか指摘しておこう。彼の文章はごちゃごちゃしていて分かりにくいが、“反論”らしきものは、以下の三点である。
(1)私が山川のことを「頭の固いマルクス主義のようだ」、と形容したこと。
(2)『集中講義!日本の現代思想』の中での柄谷行人の「不完全性定理」をめぐる記述。
(3)私が連載第二十三回で、ソーカルが、インチキ論文「境界を侵犯すること」の中でポストモダン思想とニューサイエンスが結び付いているかのような印象操作をしている、と述べたこと。
 ごく普通に考えれば、いずれも瑣末な問題だが、山川や祭谷の頭の中では、私の学者としての資質を疑わせるにたる大問題のようである。
 まず、(1)について。第四十一回で、私は山川の無礼な言いがかりを批判する文脈で、「これまでの彼の雑なこと極まりない言動からすると、ソーカルに論破されたせいで、ポストモダンが衰退したと言いたいようだが、論争の勝ち負けで思想のブームが決まるなどと思っているのか? まるで、一昔前の頭の固いマルクス主義者のような発想だ」と述べた。それに対して、山川は急に真面目な人間を装って、以下のように述べている。

 このくだりを読んだときは、あまりのことにぼくも目をパチクリさせた。「論争の勝ち負けで思想のブームが決まるなどと思っているのか?」はい。すくなくとも思想潮流を左右する大きいファクターなのは間違いないでしょう。そうでないなら、なぜ人々は論争をするのだろうか。そのあとの「まるで、一昔前の頭の固いマルクス主義者のような発想だ」も謎だ。論争に負けた思想は人気を失う、というのはマルクス主義的発想なのか。

 私は「論争の勝ち負けで思想のブームが決まる」と書いたのだが、山川は、それを「論争などやる意味がない。本気で論争するなどバカらしい」、という意味合いに曲解したのか、それとも、彼の言動をフォローしているツイッタラーたちにそう錯覚させたいようである。
 無論、学問的な作法に則った真剣な論争であれば、学問の発達にとって有意義である。しかし、そういう論争はごく稀にしか起こらない。そのごく稀な論争も、本当に厳密な学問的な作法に則って行われていたら、一般人に知られるどころか、隣接分野の専門家にさえあまり理解されない。同じ分野の人間でも、その論争に直接参加した人でないと、内容をちゃんと把握できないことが少なくない。例えば、一九三〇年代に初頭にハイエクとケインズの間で展開された景気の循環における貨幣の役割をめぐる論争は、両者の初期の理論について詳しくないと、専門家でさえ両者が何に拘っているのかよく分からないことで有名である。
 分野を横断する論争とか、新興分野の生き残りがかかっているような論争だと、表面的には学問的な話をしているようで、学界政治的な思惑が絡んでいるので、歪んだ展開を見せることが少なくない。この点については、山川が反ポモ本のつもりで挙げている、セーゲルストローレの『社会生物学論争史』が参考になる――無論、ちゃんと読めばの話である。「思想のブーム」というのは、ごく普通な国語力があれば、そうした広い意味での論争でさえなく、出版ジャーナリズムとか一般読者の受容のレベルでの浮き沈みのことを指している、と分かるだろう。と思っていたのだが、山川や祭谷レベルの人間には、それさえ分からないようである。日本における思想のブームのいい加減さんについては、丸山眞男の有名な新書で的確に論じられているので、関心がある人はそれを読んでほしい――“山川ファン”には、こういっただけでは、通じないような気もするが、それは致し方ないことだ。
 「まるで、一昔前の頭の固いマルクス主義者のような発想だ」というのは、安保世代や全共闘世代の、ある程度名前の知られた左翼系の論客とかセクトのリーダーと多少ともお付き合いがあれば、どういうことかすぐにピンと来る話だが、どうも私は、山川一派のバカさ加減を見誤っていたようである。「Masato ONOUE‏ @9w9w9w9」という自称社会学者が、 マルクス主義についての生半可な知識で、「理論の正否は「実践」で検証されるというのが普通のマルクス主義の立場なんで、論争の勝敗と関係あるというのは「マルクス主義的」ではありませんね。仲正とかいう人が単純にマルクス主義がわかってないだけな気します」、とツブヤイタので、山川たちはそれに気をよくして、この点をめぐってどうでもいいようなやりとりをしばらく続けていた。
 この連中は、恐らく、マルクスやエンゲルスの論考を原文で読んだことも、左翼の(元)活動家と話をしたこともないのだろう。こういう連中に、「マルクス主義」について“教えられる”とは、相当になめられたものである。連中は、私のことを全然知らないのだろう。彼らの無知ゆえのおめでたさはさて置いて、一応、説明しておこう。年輩の(元)左翼活動家は、「〇〇の理論が影響力を失ったのは、▼▼に□□の問題で論破されたからだ」とか、「◆◆は、●●に◇◇の問題を指摘されて追い詰められ、▲▲に関する見解を替えたが、そのことを黙っている」、とか言いたがる。その▼▼とか●●は、自分か、自分に近い人である。その多くは、言っている本人とその少数のお仲間のサークルの内でしか通じない、手柄(ほら)話であり、ほとんど相手にされない。
 無論、こういうのは昔風の左翼に限らず、最近の“SNS論客”もしょっちゅうやっていることである。恐らく、本人たちは、自分たちが、昔の左翼がやっていたことを劣化コピーしていることに気付いていないのだろう。山川等も、東浩紀氏や千葉雅也氏に関して、まさにこの類の“手柄話”をしているわけだが、本人たちが普段やっていることで形容しても意味がないので、より一般性があると思われる、「頭の固いマルクス主義者」という言い方をしたのである。しかし、山川にとっては、自分が知らないことは、全て相手の非論理性の現れということになってしまうようである。疲れる連中である。
 (2)について。自称学生のSkinnerianという人物がブログで、私の連載第二十二回 [5]に対する“反論”という形で、かなり雑なポストモダン批判文を書いたので、第二十三回 [6]でその雑なことを指摘した。すると、そのことを恨みに思ったのか、しばらくしてSkinnerianは、拙著『集中講義!日本の現代思想』における「柄谷行人のゲーデルの不完全性の定理」についての記述がいい加減だという主旨の記事を書いている。端的に言えば、揚げ足取りである。『集中講義!日本の現代思想』は、日本の現代思想の主要な流れを、社会史的な背景を重視しながら記述する著作である。科学哲学の本ではない。取り上げている個々の思想家が、数学や自然科学の専門的な概念を正しく使っているかチェックする本でもない――そんな不毛な内容の本を書く著者や、それを刊行しようとする出版社がいたとしたら正気の沙汰ではない。ゲーデルの不完全性の定理について本当に正確に説明しようとしたら、本全体のそれまでの流れを断ち切って、かなりの頁数を費やすことになる。
 いかなる分野であれ、包括的な性格の概説書を書こうとしたら、多少なりとも、当該分野以外のこと、あるいは同じ分野でも異なった研究テーマに属する問題に、随所で簡単に触れざるを得ない。特に、歴史学、思想史、文学史、社会哲学、政治哲学など、歴史や社会の仕組みに関係する分野では、そうせざるを得ない要素が多い。当然そうした簡略な記述は、専門家の目から見たら、いい加減に見えてしまう。その本で扱っているテーマそのものに関心がない、よく分かっていない、他分野、他のテーマの専門家が、自分に関係している所だけ目にすると、そのいい加減さがクローズアップされてしまう。ただ、プロの成熟した研究者であれば、「私にはこの記述は許容できないが、この本のメインテーマからかなり遠い話なので、この程度なら仕方がないのかもしれない」、というように忖度するものである。その範囲を出ていたら、ある程度批判するかもしれない。ソーカル事件というのは、その範囲についての見解のズレが問題になったわけである。
 しかし、Skinnerianはその辺のことが分かっておらず、不完全性の定理のことに言及する以上、たとえ他の著者(柄谷)が述べていることの概略的な説明という間接的な言及であっても、不正確であることは許されない、という完璧症的な基準を持っているように見えた。この後、(3)に関連して触れるように、彼のテクストの読み方にはかなりバイアスがかかっていておかしいのだが、やたらにプライドが高く、学者のミスを見つけて批判することに喜びを見出すタイプの人間に思えたので、その時は放っておいた。そうしたら、一年半経って、「たかはし@調布圧倒的成長部@tatarou1986」の私に対する中傷誹謗に便乗して、その時のブログへのリンクをツイッター上でアップするなどして、私への個人攻撃を始めた。それで、揚げ足取りはいい加減にしてほしい、(上記のような意味で)不正確になっているのは認めるが、本のメインテーマとは違う話である、それを承知で批判するのなら、どういう書き方なら、許容範囲に収まるのか自分の案を示すべきだろう、という主旨のコメントを彼のブログにしておいた。すると、山川がそれを見つけてきて、自分では何のことだか分かっていないのに、私が痛いところを突かれて、狼狽していると思い込んでしまったようである。山川はまともな本を書いたことがないのだろう――彼に本を書かせて、いっぱしの著作家のつもりにさせてしまったキネマ旬報社などの編集者の責任は重い。山川のような輩がいるので、最初、Skinnerianのことは放っておいたのである。

 山川・祭谷の一派には何を言っても馬耳東風だろうが、自分が批判しようとする相手の見解をちゃんと理解しておきたいという誠意のある人向けに改めて説明しておく。「ゲーデルの不完全性の定理」は、形式化された公理系における無矛盾性をめぐる数理論理学の問題なので、その証明を、数学のように形式化された公理系を用いない他分野、特に文系の諸分野に直接応用することはできない。これは当然のことである。アナロジーとして言及するにしても、本当に適切なアナロジーか考えるべきだろう。ソーカルに同調して“ポストモダン”における数学・物理学概念の濫用を指摘したブーヴレスは、不完全性定理のように高度に専門的な議論ではなく、素人でもさほど不正確にならずに扱える基礎的な理論への言及ですむのであれば、そうすべきではないかと言っているが、私もその通りだと思う――ただし、ブーヴレスは『アナロジーの罠』で、デリダやドゥルーズを直接の標的とするのではなく、普通はポストモダニストとは見なされない左派論客レジス・デゥブレを、ポストモダンの代表であるかのように見立てて、批判を展開しているので、全体の議論の進め方はフェアではない。人文・社会系の分野で、“不完全性定理”とのアナロジーで語られていることの多くは、「自己言及性のパラドックス」に関連する問題として記述した方が適切だろう。
 山川等は知らないようだが、柄谷等の不完全性の定理の使い方がおかしい、正確に理解していないのではないか、との指摘はソーカル事件のずっと以前からあった。分析哲学系の人たちはそうしたことに拘って、柄谷を批判していた。中沢新一に対しても同種の批判があった――八七年の東大駒場騒動の際、その手の批判が表面化した。ただ、思想史や文芸評論の文脈で柄谷や中沢を読んでいた人は、理系的な概念の使用の正確・不正確は表面的な問題にすぎず、一見理系的な言葉で表現されている、哲学・思想史的なテーマが重要だと考えていたのではないかと思う。例えば、ドイツ・ロマン派の言語哲学・批評理論を研究していた私は、柄谷が「不完全性定理」と呼んでいるのは、初期ロマン派によって提起され、デリダのエクリチュール論にまで継承された、体系の完結不可能性―自己差異化的な再生産をめぐる問題だと――柄谷本人がどう思っていたかは別として――理解していた。この辺のことについては、拙著『モデルネの葛藤』(御茶の水書房)や『危機の詩学』(作品社)を見て頂きたい。私のように柄谷や中沢の理系的な用語をあまり気にしないで、思想史的な文脈で理解していた研究者にとっては、ソーカル事件など、何を今更という感じの話である。
 無論、『集中講義!日本の現代思想』では、柄谷が“不完全性の定理”と言っているものが厳密な意味での「不完全性の定理」ではなく、実体としては、体系の自己言及・自己記述をめぐる問題であることを示唆しておいたつもりだが、山川、祭谷、Skinnerianのような強烈な悪意を持った“毒者除け”にはならなかったようである。もう少し慎重な書き方をしてもよかったかもしれないが、いずれにしても、「現代思想を科学哲学的に斬る!」という主旨の本ではないので、「柄谷のゲーデル理解は間違っていて、専門家から批判を受けているのだが…」というようなことを本文中で述べる必要はなかったと思う。山川のように、基礎学力が低いくせに論客ぶる連中の曲解に対して完全な予防線を張るのは不可能である。あと、細かいことだが、「柄谷の不完全性の定理」の解説に私が「三ページも割いて」と山川は書いているが、実際には、二ページであり、その大半は、先に述べたような方向での私なりの言い換えである。山川にはページの勘定さえできないのか? あるいは、自分では読まないで、誰かに教えてもらって孫引きしたのか?
 (3)について。第二十三回の連載で、私は「ソーカルは「境界を侵犯すること」の中で、フリチョフ・カプラやシェルドレイクなど疑似科学的な議論で評判の悪いニューサイエンスの旗手たちの名前を挙げ、彼らがあたかもラカンなどの“ポストモダニズム”と関係しているかのように印象操作をしているが、『「知」の欺瞞』の方ではさすがに、彼らのことを本格的に取り上げてはいない。(…)少し慎重になったのであろう」と書いた。ごく普通の評価だと思うのだが、それについて山川は以下のように言っている。

 なるほど!そこに微妙な駆け引きがあったとはまったく気がついてなかった。日本のソーカル信者はおろか、ソーシャル・テクスト編集者のアンドリュー・ロスも、ソーカル本人も気づいていないだろう。おそらく世界広しといえども、そう指摘しているのは仲正さんだけではないだろうか。なぜなら、そんな駆け引きはないからだ。/よく考えてみてほしい。「境界を侵犯すること」はそもそもポストモダン批判の文章ではなく、ソーカルが寄稿したデタラメ論文だ。ソーカルがこの論文でニューサイエンスの人々を肯定しているのは、ソーシャル・テクスト誌が、そうした内容の論文でも掲載してしまうことを実証するためである。/仲正さんは、ソーカルがすでにデタラメだと明かした論文について、「デタラメが書いてある!!これは印象操作だ!!」といっているわけだ。正直に言って、ここでぼくは仲正さんの読解力にかなり不安を覚えた。

 「そんな駆け引きはないからだ」などと自信満々に言い切っているので、何か裏情報のようなものでも握っているのかな、と一瞬思ったが、どうも山川は、「「ソーカル自身が『境界を侵犯する』はデタラメだと明かした」⇀「だから、『境界を侵犯する』で書かれていることを信じる人はいない」、とシンプルに想定しているらしい。彼は世の中には、自分のような悪意による誤読人間――その多くは孫引きによる誤読――が一定数いることを計算に入れていないようである――自分のことだから、計算に入れることができないのは当然か。
 ソーカルは、自分の投稿論文における数学や自然科学の概念がインチキであることは明らかにしたが、それ以外の部分、特に「ポストモダン系の●●が◆◆と述べている」というような記述もでっちあげだということまで明言していない。そのせいで、ソーカルのいたずらに快感を覚え、ファンになった人間の中には、数学や自然科学的な概念を使っていない部分には信憑性があるかのように思い込み、ニューサイエンスとドゥルーズやラカンが関係あると勘違いしている人間が少なくない。直接読んでおらず、孫引きでしか知らない人間は、その傾向が更に強くなる。山川自身、そうした影響をかなり受けているように見られる。連載二十三回では、そういう勘違いをしているソーカル信者の実例を挙げている。また、連載四十一回では、山川やたかはしが頼りにしているSkinnerianが「境界を侵犯する」の記述にひきずられて、ポストモダン系のフェミニストが、「選択公理によって人工妊娠中絶を正当化した」という珍説を作りあげてしまったことを指摘している。山川はそれらの指摘を完全に無視している。それとも、「選択公理と中絶」のような話は、山川や祭谷には高尚すぎたのだろうか?
 そうした勘違いを産み出すような書き方のことを「印象操作」と言ったのである。ソーカルは自分のインチキな論文によって、山川のようなバカが遠く離れた日本で生まれてくることまで計算に入れていなかったかもしれないが、結果的にそうなっている。誤解に基づくポモ叩きのきっかけを作ってしまったことをソーカルたちも知らないわけではないだろう。私の知る限り、ソーカルは、「境界を侵犯する」は人文系からの引用に見える部分も含めてデタラメであるので、それに引きずられて安直なポストモダン批判をすべきではない、と丁寧に釘を刺しているわけではない。そういう意味での、「印象操作」である。その程度のことは細かく説明しなくても理解できると思ったのが、何でも自分の都合のいいように曲解する山川や祭谷の特異な思考回路のことまではさすがに計算に入れられなかった。

 さて、山川は『知の欺瞞』について「この本を貶したり、見下したりした論評は数 多く現れたけれども、事実誤認を指摘したり、著者の分析に合理的な反論を加えたりした者は一人もいない」、と豪語しているが、そういう批判は既にかなり出ている。山川が知らない、あるいは理解していないだけである。例えば、私は前回の連載で、ソーカル+ブリクモンがドゥルーズ+ガタリの『哲学とは何か』における概念史的な問題提起を強引に、“物理学の最新の知見に基づく科学哲学”に読み替えて批判していること、『差異と反復』を読んだふりをして見当外れなことを言っていることを指摘した。この種の指摘をしている人はかなりいるはずだが、自分に都合のいいことだけが“真実”の山川や祭谷の目には一切入らないのだろう。
 もう少しピンポイントの具体例を挙げておこう。山川は、「虚数と無理数を混同するラカンにアッパーカットを食らうことになる」と断定的にツブヤいているが、これは、山川が『知の欺瞞』をまともに読めてない証拠である。該当する引用箇所をよく読むと、ラカンが虚数と無理数を混同しているというのは、ソーカルとブリクモンの早急な決め付けではないかという疑問が生じるはずだ。邦訳でも十分分かるが、ラカンの『セミネール』の原文を見た方が分かりやすい。かつてロラン・バルトを研究してフランス語を読めるはずの山川は、よもやこの程度のフランス語が理解できないとは言わないだろう。

…c’est en tant que la vie humaine pourrait se définir
comme un calcul dont le zéro serait irrationnel.
Cette formule n’est qu’une métaphore mathématique et
il faut donner ici à l’irrationnel son sens mathématique.
Je ne fais pas ici allusion à je ne sais quel
affectif insondable, mais à quelque chose qui se
manifeste à l’intérieur même des mathématiques sous
la forme équivalente de ce qu’on appelle un nombre imaginaire
qui est √-1.

 見れば分かるように、ラカンは〈un nombre imaginaire〉とは言っているが、〈un nombre irrationnel〉とは言っていない。単に比ゆ的な意味合いで、〈irrationnel〉という形容詞を使っているだけである。ソーカルたちは、形容詞の〈irrationnel〉を、〈un nombre irrationnel〉という意味にとったのだろうが、これは印象操作的な強引な解釈である。気が利いてない、曖昧な比ゆ表現を使っている、という主旨の批判なら妥当だが、「無理数」と「虚数」の違いを理解していないというのは、決め付けすぎである。
 また、邦訳には、「正確に虚数と言われているものを指している」という表現が見られるが、上記の原文には「正確に」に当たる言葉が見当たらない。これに対応するのは、〈Je ne fais pas ici allusion à ~, mais à quelque~〉という部分であるが、ここはちゃんと訳すと、「私が暗に言及しているのは…ではなく、…虚数と呼ばれているものである」となる。印象が大分違う。
 こういうヘンなことになっているのは、英訳でこの部分が、〈I’m referring not to some unfathomable emotional state but precisely to~〉となっているからである。〈faire allusion à~〉が〈refer〉という強い言葉になっているうえ、恐らく語調を整える程度のつもりで挿入したのであろう〈precisely〉が意味あり気に見えているせいで、かなりニュアンスが変わっている。ソーカルたちはこの〈precisely〉にひっかけて、「正確に」と言っているくせにラカンは「虚数と無理数を混同している」と話しを続けているのだから、かなりミスリーディングである。ブリクモンがフランス語のネイティヴであることからすると、かなり雑である。日本語への翻訳者たちも、論じられている事柄の性質上、こういうフランス語の原文と英訳のズレのようなことには気を付け、問題がある箇所には訳注くらい挿入してしかるべきだったと思う。
 山川一派や野次馬、似非科学批判クラスター等にとっては、こういう細かい話はちんぷんかんぷんかもしれない。しかし、この程度の話について来られない輩が、ソーカルの名前を持ち出して“ポストモダン系の学者”を誹謗するというのは、ふざけた話である。私はそういうのを「ソーカル教」と呼んでいるのである。

 最後に、私に対する敵意をむき出しにしている、自称医療ジャーナリスト祭谷一斗という存在についてコメントしておく。この男はブログで「おさらい臨床試験史」なるコピペ文章を書き連ねているが、臨床試験について勉強していて、仲正という名前に出くわさなかったのだろうか? 私自身が大したことをやったわけではないが、日本での臨床試験をめぐる法的問題を本格的に勉強していれば、私が共著者になっている何冊かの著作を目にしているはずだ。多分、本気で取り組んでいないのだろう。仮にどこかで眼にすることがあったとして、彼は私の名前が入っているので、スルーしてしまうことだろう――そう宣言しているのだから。そもそも臨床試験に関する具体的な事例について取材し、記事にした経験はあるのだろうか。ケース・スタディした経験もなしに、「臨床試験」についての本を書こうとしているのだとしたら、「知の欺瞞」どころの話しではない。人の命に係わる問題である。