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「天皇を読む」第6回 たけもとのぶひろ【第123回】 – 月刊極北

 「天皇を読む」第6回


たけもとのぶひろ[第123回]
2017年3月13日
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稲の収穫をされる今上天皇

稲の収穫をされる今上天皇

第四節 皇室の伝統—国家神道と皇室祭祀

 今回は「皇室祭祀」について考えます。今上天皇が模索してきた「象徴天皇」制におけるそれと、安倍官邸側が理想として想い描いているであろう「神聖天皇」制のもとでのそれとでは、イメージからしてまるで別のものであろうと察せられます。
 どう違っているのかと考えるきっかけとなったのは、前回にも挙げた『近代天皇論』(片山杜秀・島薗進著 集英社)のなかの、両氏のやりとりの次の部分です。

島薗 (前略)生前退位を認めないと主張する論者たちは、生前退位が天皇の神聖性を脅かすという理由に重きを置き、そう主張しているのです。
彼らは戦後の天皇がその神聖性を薄めて、国民とともにある人間君主であることが、まちがったことだと考えているのです。
片山 有識者会議のヒヤリングで櫻井氏が「求められる最重要なことは、祭祀を大切にしてくださるという御心の一点に尽きる」と述べたこととも一致しますね。
島薗 そうです。彼らの主張は、尊い「国体」を護るという神聖国家の信念に基づいています。ただ、祭祀を大切にするのが伝統だと言っても、戦前期にあった13の皇室祭祀のうち11は明治期につくられたものです。つまり新しい伝統をフィクションとして創造した「上からのナショナリズム」です。

 櫻井よしこ氏によると、尊いのは国民ではない「国体」である、その「尊い国体」を護る祭祀こそが皇室の伝統なのだ、ということです。
 しかし、「皇室の伝統」とか、あるいは「祭祀」「神事」とか、威風堂々たる立派なものが受け継がれてきたかのように言っても、実際にはそんなものはなかった、だから明治になって慌てて造らざるをえなかった、それが実態だ、というのが島薗氏の指摘でしょう。ぼくは戦前の皇室祭祀について何も知りませんが、以下に示す歴史的事実からして、島薗氏のご指摘の通りだと察することができます。

 古代の飛鳥・奈良・平安時代は天皇親政・祭政一致の時代でしたから、天皇たちが時代を動かしていたに違いありません。しかし、その後の武士の時代となると、天皇たちは打ち捨てられたも同然の酷いあしらいを受けます。その何百年ものあいだ、貧しい、苦しい、悲惨な天皇家苦難の歴史が、実は延々と続いたのではないでしょうか。
 平安末期から鎌倉時代に始まり、そのあと建武の中興から南北朝の動乱へ、そのなかで室町幕府が成立しますが、世は治まらず応仁の乱から戦国時代へ。江戸二百数十年の平和があったとはいえ、禁中並公家諸法度の支配下にあるわけですから、御所の塀の外へは一歩たりとも出ることができない幽閉の身であり、掘建て小屋同然の住まいで辛うじて糊口をしのぎ、なんとか生きながらえていくしかない――そう言っても決して大袈裟でない暮らしぶりだったと伝えられているのが、天皇家の歴史だと思います。

 だとすると天皇たちは、形のうえでは「統治する側」にあったとしても、実際にはむしろ「統治される側の存在でもある人間」として「人々とともに」生活の辛酸をなめてきたのであって、だからこそ、彼ら天皇たちは、生活苦を抱えた同時代の人々の身の上に、自分たちのそれを重ね、民の苦境を我が事のように受けとめ、その行く末に幸あれと願わずにはおれなかったのではないでしょうか。

 天皇たちは、民百姓とともに、貧困・苦悩・悲哀の当事者です。自らの人生において、身をもって、それを思い知っています。当時の天皇たちは、民百姓とともに、生きることの困難の当事者だったからこそ、ともに在ることを身に沁みて感じていたし、感じてきたからこそ、それを「表出」することができる、と思っていたにちがいありません。
 このような当時の天皇たちの精神の在り方を一語で表しているのが、実は日本国憲法第一条の「象徴」という概念なのではないか、さらに言うと、そのような意味での「象徴」としての天皇の在り方が日本の皇室の伝統なのだ――今上天皇は、こんなふうに考えておられるのではないでしょうか。

 ここで、今上天皇の言葉を引用します。
 「天皇が国民の象徴であるというあり方が、理想的だと思います。天皇は政治を動かす立場になく、伝統的に国民と苦楽をともにするという精神的立場に立っています。
 このことは、疫病の流行や飢饉にあたって、民生の安定を祈念する嵯峨天皇(平安時代・在位809~823)以来の写経の精神や、また、「朕、民の父母と為りて徳覆うこと能わず。甚だ自ら痛む」という後奈良天皇(室町時代・在位1526~1557)の写経の奥書などによっても表されていると思います。」(「読賣新聞」昭和61年5月26日付朝刊、同新聞への文書回答)。
 「国民の象徴」という言葉について陛下は、「伝統的に国民と苦楽をともにするという精神的立場」と書いておられます。そして、「民生の安定を祈念する」「写経の精神」とも。
皇室の神事祭祀の本質に触れる思いがします。

 たまたまですが、ドナルド・キーン著『明治天皇(一)』を再読していて、国民と苦楽をともにする天皇の姿を見る思いがしました。その部分を以下に示します。
 「ふだんは民衆から隔絶している禁裏の天皇でさえ、少なくとも過去に一度は飢饉の苦しみを知る機会があった。天明7年(1787)、約7万人の群衆が御所を取り巻き、あたかも神に祈るごとく飢餓救済を天皇に祈ったことがあった。光格天皇と後桜町上皇はこれに同情し、飢える民衆に施せるだけのものを分け与えた。光格天皇は人々の悲惨な状況にいたく驚き、先例を破って幕府に民衆の窮状を救うよう申し入れまでしている。天皇が国の政治に口をはさむなど、徳川幕府始まって以来のことだった。」

 この江戸時代の天皇上皇の振る舞いに重なるようにして想い出されるのは、今上天皇皇后が、東日本大震災(平成23年3月11日)の5日後にテレビを通じて発せられたビデオメッセージのことです。山本雅人著『天皇陛下の本心』(新潮社)の当該部分です。
 「(次の「」は陛下のメッセージの最後の部分です)「被災した人々が決して希望を捨てることなく、体を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう、また、国民一人一人が被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者とともにそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています。」
 被災者だけでなく、被災地から遠く離れた人も含む国民全体にも向けられている点が重要だ。そこには、「国民と苦楽をともにする」という陛下の思いが貫かれている。
 両陛下は、那須御用邸の職員用入浴施設を近隣地域の避難者に開放したり、皇室用の御料牧場の生産物である卵や野菜などを避難所に提供されることを決められた。原発事故に伴い計画停電が実施されると、両陛下も御所にて「自主停電」し、その際には、「大勢の被災者、苦しんでいる人たちがおり、電源すらない人もいる。私の体調を気遣ってくれるのはありがたいが、寒いのは厚着をすればいいだろう」という趣旨のご発言があったことを羽毛田信吾・宮内庁長官(当時)が明かした。」

 こうして見てくると、明治の王政復古に至るまで天皇家の人々が大事にしてきて、今上天皇がそれを引き継ぐ形でとり行なわれている宮中の神事祭祀というのは、ぼくらの思い込みとはまるで違うものなのかもしれません。儀式張った仰々しいものではなく、ましてや威風あたりを払うなんて、統治権力の衝に当たる勢力がその権勢ぶりを見せびらかすのとはまるっきり反対の行為のような――水と油ほども違う気がしてきます。

 武家政治のもとで何百年ものあいだ歴代の天皇が行ってきた神事祭祀は、「祈り」とか「写経」とかの言葉が出てくるところから察するに、すぐれて内面的なものだったのではないでしょうか。後の天皇のためにとの趣旨で著した天皇の著書があるそうです。平安時代の宇多天皇による『寛平御遺誡』、鎌倉時代の順徳天皇による『禁秘抄』、などがそれです。
 それらの書物が後続の天皇に言い遺している教えとは、神事を大切にすること、学問を深めること、万人に対して常に公平であること、国民のことを常に思って幸せを祈ること、だったと言います。

 それは、神事祭祀と自身の内面、そして国民への祈り、これら三つの世界がつながり重なる――「場」みたいな――ところに成立するであろう、精神世界を大切にしなさいという、そういう教えだったのではないでしょうか。この、先祖の天皇たちが伝えようとした「精神世界」の流れを引き継ぐようにして発せられたのが、皇后陛下の、「皇室は祈りでありたい」とのお言葉ではないかと、ぼくはそんなふうに思っています。

 この流れは「日本国憲法」のもと、今上天皇によってふたたび開かれましたが、明治維新から敗戦までのあいだは、いったんは中断されていました。
 この流れを中断し、一気に古代の「天皇親政=神聖天皇」時代へと逆流させたのが、明治維新の王政復古でした。天皇の在り方が一変すると同時に、宮中の神事祭祀・儀式の様相も一変します。
 明治の御代がまだ明けきらない、慶応4(1868)年3月14日、新時代の幕を切って落としたときの儀式、「五箇条之御誓文発布」の儀式の様子というか雰囲気というか、それを見ておきます。これを見ておけば、その後の宮中祭祀は一事が万事、同工異曲ですから。ドナルド・キーンさんの『明治天皇(一)』から引用します。

 「天皇の五箇条御誓文の発布に伴う儀式は、完全に神道に則ったものだった。その日、儀式は紫宸殿で始まった。参列した公家諸候以下百官はことごとく衣冠を着け、その色とりどりの正装姿は目もくらむばかりの光景であったに違いない。儀式そのものは、まず清めの塩水、散米の儀式から始まった。次いで、神祇事務局督白川資訓(すけのり)が降神の神歌を奏した。神々に供物を捧げる献饌(けんせん)の後、天皇は引直衣(ひきのうし)を着け、副総裁2人(三条実美、岩倉具視)、輔弼2人(中山忠能、正親町三条実愛)等を従えて出御し、玉座に着御した。玉座は南面し、右斜めに神座に向かい、平敷で四季屏風で囲われていた。
 「かけまくも、おそろしき、あまつかみ、くにつかみ、、、、、」と、三条実美が祝詞(のりと)を奏し始める。祝詞が終わると、天皇は神座の前のしきみに進み、拝礼し、幣帛の玉串を供えた。続いて三条が、五箇条御誓文を読み上げた。」

 この国の新興階級――西国雄藩を中心にした維新の志士・公家など新政府勢力――が天皇を担いで結集する。その威力を誇示して政敵・幕府勢力を畏れ入らせる。そういう魂胆が見え見えの場面です。顧みれば、明治天皇・宮中祭祀の政治利用はここに始まり、この禍々しい明治の御代が半ばを越える頃から、わが国はつねに敵を求めないではいられない国となり、憑かれたように戦争をしかけてきました。他国を侵し、兵士と民間人の別なく、膨大な数の人間を殺しました。もちろん、殺されもしたのですが。

 わが日本人は、「現人神」の呪力も虚しく敗戦に至ります。最期の瞬間を迎えるまでに、この国はいったいどれだけの数の皇室祭祀の儀式をとり行なってきたことでしょう。さぞかし何百何千何万回にも及ぶであろう、それらの儀式は、かつてのような皇族のみの儀式ではありません。天皇は、自らが主宰する祭儀において、首相・大臣・官僚・軍人など、国家権力の要職にある者たちの一群を率いています。儀式の天皇は、象徴ではありません。神聖にして侵すべからざる現人神、絶対の統治者でなければなりませんでした。
 しかし、その、神懸かりの天皇を頂点にいただく戦争は、狂気の戦争でした。無惨な敗北に終わる以外に、終わりようがありませんでした。

 日本国が1945年8月14日ポツダム宣言を受諾し、9月2日米艦ミズーリ号上にて降伏文書に調印し、ここに連合国最高司令官マッカーサーのもと、占領軍=連合国総司令部GHQの日本統治が開始されます。占領開始3か月余りの同年12月15日、早々と発せられたのは、いわゆる「神道指令」でした。日本政府に対する指令(命令)の内容は、政府に対して、神道を国家(政府)から分離せよ(=「政教分離原則」)、というものです。細かく言うと、国家による神社神道への保護・援助を禁止する、公的機関から神道施設を撤去する、公共の場における神道教育・神道儀式を禁止する、などです。「指令」の目指すところは、軍国主義の本丸、国家神道の解体です。

 政教分離原則の制度的確立・国家宗教の排除によって、日本に基本的人権としての「信教の自由」をもたらす――それがGHQの目的でした。「神道指令」は時を措かず、日本国憲法第20条「基本的人権としての信教の自由」として結実したのでした。
 信仰という、個々の国民の精神世界を、国家が支配してはいけない、とする憲法20条はその冒頭において、「信教の自由は、何人に対してもこれを保証する」とうたっています。この「何人」のなかに、なんと!  天皇はじめ皇室の面々も含まれます。さらに第三項では「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」との規定がありますから、公務員は皇室の神事祭祀に関わることができません。たとえ宮内庁の職員であろうと大臣閣僚であろうと、関与は許さないということです。(注)

 つまり、憲法20条のこの規定は、宮中の神事祭祀について「天皇家の私的行事である」と定義した、ということです。個々の国民の「信教の自由」というプライバシーが絶対不可侵であるのと同じように、天皇および天皇家のそれも絶対不可侵である、国家であれ役人であれ他者の容喙を許さない、ということです。これは、大きい!

 基本的人権のうち他の権利はともかく、「信教の自由」という権利に関する限り、天皇といえども他の国民と同じ権利を主張することができる、との考えに基づいてのことだと察せられます。天皇も神の前では他の国民と同じく、一個の人間すぎない、そういう存在だという考えではないでしょうか。
 このことは、逆に言うと、ここまで追いつめて考えなければならないほど、国家神道の人心掌握力が根強く、生半可なことでは斥けることができなかった、その事情を暗に示しているのではないでしょうか。

 57歳のお誕生日の記者会見(平成2年・1990年12月20日)において陛下は、
 「 「信教の自由」は、やはり憲法に定められたものでありますから、非常に大切にされなければならないと思います。」
 と答えておられます。宮中祭祀(皇室神道にのっとった祭祀)を大切に守っていくには、憲法20条「信教の自由」権を尊重してゆかねばならない。憲法20条こそ、「皇室の信教」の「自由を守る砦」であり、守護神ですらある、というのが陛下の考えだと思います。

 神事祭祀について、昭和天皇は非常に熱心だったと聞いています。自身が「現人神」なんかに祀りあげられていたのですから、さもあらんと頷けるのですが、その昭和天皇よりも熱心なのが今上天皇だということも聞こえています。
 一方、今上天皇の宮中祭祀について、憲法における、国民主権の原則・政教分離の原則に抵触するのではないか、というふうな議論がある――あった――ようです。ぼくにはこの種の批判は理解できません。実際に即してみると、どうなのでしょうか。今上天皇ご自身の天皇活動全体のなかに、宮中祭祀を置いてみた場合、どういうことがわかるか、次回はそういうことを考えたいと思います。