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自分の脳内陣取りゲームを現実と思い込み、「お前は追いつめられている! 俺がそう思うんだから間違いない!」、と絶叫するソーカル病患者たちの末期症状 仲正昌樹【第41回】 – 月刊極北

自分の脳内陣取りゲームを現実と思い込み、「お前は追いつめられている! 俺がそう思うんだから間違いない!」、と絶叫するソーカル病患者たちの末期症状


仲正昌樹[第41回]
2017年2月5日
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『増補新版 ポスト・モダンの左旋回』(作品社)、 『教養としてのゲーテ入門: 「ウェルテルの悩み」から「ファウスト」まで』 (新潮選書)

『増補新版 ポスト・モダンの左旋回』(作品社)、
『教養としてのゲーテ入門: 「ウェルテルの悩み」から「ファウスト」まで』(新潮選書)

 「ソーカル事件」によって“ポストモダン”と呼ばれる思想潮流が壊滅したと思い込み、気に入らない人文系の学者・評論家に“ポモ”のレッテルを貼って罵倒することで悦に入っている輩のことは既に何回か(『極北』第二期二十二~二十四回 [2]参照)話題にした。最近になってまた、新手のソーカル信者が登場し、よく分かっていないのに、私を“ポモ”の人間と見なし、意味不明の攻撃をしかけてきた。その攻撃に、何人かの常連の目立ちたがり連中が便乗してきた。パブロフの犬のような連中である。
 最初にツイッターで一方的な攻撃をしてきた「たかはし@調布圧倒的成長部@tatarou1986」という人間は、ポストモダンやソーカルがどうのこうのという以前に、思考過程にかなりの飛躍があり、対人コミュニケーションに関して根本的な勘違いをしているようだが、本人にはその自覚がないようだ。どうしようもない奴である。
 「たかはし」による最初の一連のツイートは以下の通りである(①~⑦)。

①仲正昌樹のソーカル事件についての論評を読みました。偏ってると思います。本質ではないからというのはわかる。が、高度な数学的概念を比喩表現として使うのと「神」「狼」「野生人」を比喩表現として使うのを並べるのは無理がある。おべんきょうのしすぎで普通の人の感覚がわからないのではないか?

⓶俺はSNS論客とかいうのになるためにこのアカウントを開設したんじゃないはずだ!!!!!!!!!!!!!!

やめだやめだやめだ

③いやー俺もそう思うな―。メタファーって分かりやすくするもんだし……これに対して仲正昌樹は「お前はわかっていない!」とよくわからない反論をしている。痛いところをつかれたんだろうなーという印象しか正直うけない。
ポストモダンにおける、自然科学概念を用いた比喩、の意義とは – Interdisciplinary http://interdisciplinary.hateblo.jp/entry/20150710/p1 …

④難しい哲学系のテクストを読んで挫折し、その敗北感をごまかすために、全てを著者のせいにしたがっているのがよく分かるーとか決めつけてるところもなかなか痛々しい……ソーカル教にすがりついてしまう廃人たち 仲正昌樹【第23回】 – 月刊極北 http://meigetu.net/?p=3065

⑤「お前はわかってない」という反論のなんと虚しいことか……仲正昌樹はわかってないよ。うん。

⑥ところで仲正昌樹は「権威主義」について否定的に述べてたけども。数学的概念を比喩表現に使うのって、突き詰めていけば、この「権威主義」に属するものだと思うんだよねーこれに対してどう反論するんだろう。きっとわかってない! 難しいテキストを読んで挫折したバカだ! って反論がくるだろうな(笑)

⑦この人、トンデモ本のとこでも、ソーカル教、ソーカル教って痴呆老人みたいに喚いてるけど、よっぽど痛いとこ疲れたんだねw

 「たかはし」は、私に対する攻撃を始める前に、某美術批評家が数学用語を不正確に使っているという話題に関してツイートしていたので、その関係で検索している内に、私の『極北』の連載(二十二~二十四回)に行き当たったのだろうが、言っていることが支離滅裂である。先ずすぐに気づくのは、SNS論客になるつもりはないと言いながら、私に対する悪口を連投して、私に対するネット上での攻撃をしつこく煽っていることである。私はこの人物をこれまで知らなかったし、当然、彼を名指しで批判したこともない。にもかかわらず、「おべんきょうのしすぎ~」「痛いところをつかれた」「なかなか痛々しい」「わかっていない」「痴呆老人」と悪意の籠った言葉を並べ立てている。どういうつもりなのか?
 一番問題なのは、「『お前はわかっていない!』とよくわからない反論をしている」、という、意味不明の決め付けである。「お前はわかっていない!」、とはどこにも書いていない。恐らく、(その多くが似非科学批判クラスタやリフレ=ピケティ教信者と重なっている)“ポモ批判者”たちが、ソーカルのパロディや批判の対象になったラカンやクリステヴァなどのテクストを自分で読んだ形跡がなく、ソーカルの言い分を――かなり拡大解釈したうえで――“鵜呑み”にしているとしか思えないことに私が何度か言及したことを、そう曲解したのだろう。
 そう指摘することの何がおかしいのか? 批判の対象になっているテクストを自分で読みもしないで、批判側の言い分をそのまま真に受ける態度が、学問的ではないのは言わずもがな、真面目に議論をしようという人間の態度ではない。読むつもりさえないのに、“ポモの本など目にする価値さえない”と言い張るのであれば、正気でないか、人としての誠実さのひとかけらもないかのいずれかである。
 文句があるのであれば、どの著作家のどのテクストでもいいから、ソーカルが言及しているものを一つでいいから自分でちゃんと読んだうえで、不正確な数学・物理学用語が、そのテクストの本質的な部分にどういう深刻な影響を与えているのか、自分で指摘すればいいのである。そういう当たり前のことが「分かっていない」くせに、“ポモ批判”だけはしたいというおかしな人間には、反論のしようがない。私はそういうことをちゃんと書いたのだが、ひょっとすると、高橋の“頭”の中では、それが「お前はわかっていない!」に短絡されてしまうのかもしれない。
 また、「普通の人の感覚」とは何のことか? ソーカル事件は、ポストモダンと呼ばれている思想家たちの一部の言葉遣いにソーカルというもの好きな物理学者が突っ込みを入れた、というだけの話である。ソーカル事件のことを知っている「普通の人」などごく少数である。「普通の人」に何の関係があるのか? 何かの人気投票のようなもので、“ポモ”と“ポモ批判”のいずれが正しいと決まるとでも思っているのだろうか? ひょっとすると、先に述べた、ソーカルの批判を全て真に受け、嬉々として“ポモ批判”をしている連中のことを、「普通の人」と言っているのかもしれない。だとしたら、あまりにも偏っていて、話にならない。
 もう一点、「たかはし」は、私が「痛い所をつかれた」という前提で、私をからかっているつもりになっているが、「痛い所」とは具体的にどういう意味か? 何度も述べているように、私は別に“ポストモダン”と呼ばれるもの全体を擁護しているわけではないし、仮に”ポストモダン“なるものが全否定されたとしても、個人的には全然困らない。大学で教えるうえでも、自分の著作を書くうえでも全く支障がない。連載第二十二回では、内容を知らないままの”ポモ批判“が無意味すぎると指摘しただけだし、第二十三回以降は、第二十一回の連載にかこつけて私の誹謗中傷をしていた連中の言動のおかしさを示しただけである。悪口を言われて不快なので、相手のバカさ加減を指摘しようとするのは、ごく普通のリアクションではないか――私は、個人に対して誹謗中傷をする輩をまともな反論相手とは認めない。
 不快かつ不可解であったので、ツイッターとリンクしているブログに表示されていた、「たかはし」のメールアドレスに抗議文を送った。すると、高橋はメールで直接返事をするのではなく、ツイッター上で、仲正がリアクションしてきたことをからかう書き込みをしたので、それに重ねて抗議した。すると今度は、そのことを詫びる、一応丁寧な口調のメールがきた。意外と話が通じる人間かもしれないと思って、上記の疑問をぶつけたが、いざやりとりを始めると、丁寧なのは表面だけで、かなり無礼で、自分の妄想を“現実”として他人に押し付けるタイプの人間だと分かってきた。最終的に「たかはし」は話を打ち切って、悪口ツイートを再開した。
 まず、何故私の悪口を言ったのかという点に関してだが、高橋は先に述べたように、某美術批評家の文章との関連でネット検索して、極北の連載に辿りついた。第二十一回の文章で、私が「〇〇を知らないで▼▼を批判したつもりになっているのはバカだ!」、と書いているのを見て、不快感を覚えて、思わず強い言葉を使った、という。そのことを謝るのかと思ったら、さにあらず。自分が不快に思ったのは「事実」なので、謝る必要ない、という。その感覚はおかしい、個人攻撃を始めたのはあなたなのだから、少なくともその点は謝るべきだろう、と言ったら、「う~ん、先生の言葉で僕が不快感を覚えたという事実がある以上、そういう風に言われるのは、泥棒に窃盗するなと説教されているみたいで、納得いきませんね」、とのこと。本人は礼儀を尽くしたまともなコミュニケーションをしているつもりのようである。今まで、様々な“独自のネット・マナー”を説く輩に遭遇してきたが、これにはさすがにびっくりした。
 また、「痛いところをつかれた」という表現に関してやりとりしている内に、どうも「たかはし」が、数学用語をレトリックとして使うことについて過剰な意味付けをしているらしいことが分かってきた。⑥のツイートから、数学の概念を比ゆ的に使うのを、ポストモダンの論客たちの「権威主義」だと彼が考えていることは分かるが、私はこの場合の「権威主義」というのは、単に「格好つける」とか「アクセサリーとして使用する」という程度の意味だと思っていた。しかし、どうもそうではなかったようである。「たかはし」曰く、「学術論文は、Impact factorという数値でどの雑誌がどれだけ影響力を持つかが数字で出ます。どれだけのIFの論文誌に何本のせたかは直接その人の人事に影響を与えます。科学者なら誰もがこの数字を突き付けられ、否応なしに自分の立ち位置を見せつけられます。ヒエラルキーを明確に感じるのです。(…) また、科学技術政策は国が莫大な予算を割り当て、研究者に分配します。この予算獲得にもこのIFがかかわってきます。スター科学者は大型予算をどんどん獲得して、どんどん論文をだして、一流大学のポストを得ます。(…)このような背景があるからこそ、物理学や数学といった科学技術全般を権威だと思ってしまうのは僕だけの特異な見方ではないと思います、むしろ一般的な感覚ではないかと思います」。
 これが「たかはし」の認識の大前提になっているとすると、彼の過剰反応している理由が分かるような気もするが、根本的に間違っている。文系の学者にとってはいわずもがなのことだが、数学概念らしきものをちりばめた文章を書いたからといって、論文として高く評価されることはほぼない。学会誌の査読論文として通りやすくなるということもない。無意味な数式っぽいものを書いたら、むしろ逆効果である。だから、教員としての採用や昇任にもつながらない。経済学、心理学、社会学の一部では論文で数式を使ったり、実験の結果を報告することが必要な場合もあるが、そういう分野であれば、インチキ数学などすぐに見破られてしまう。少なくとも私は、インチキの数学の概念による証明もどきを展開するインチキ論文が業績として高く評価されて、大学で終身雇用のポストを得たという人を知らない。ソーカルのインチキ論文が、査読を通ったという《Social Text》というアメリカの雑誌は正式の学会誌ではないし、人文系の学者の登竜門のようなものになっているわけでもない。仮に、インチキ数学概念のようなもので出世している学者がいる、と「普通の人」たちが信じて、“ポモ系の学者”を非難しているのだとしたら、何の根拠もない誹謗中傷である。ポモ系の学者たちが、インチキ数学・物理学論文のようなものを量産することで、何の苦労もなく出世していると本気で思っているのなら、自分でそういうインチキ論文を書いてソーカルのようにどこかの思想系の雑誌に投稿してみたらいいだろう。
 このことと先の誹謗中傷表現のことを「たかはし」に伝えたところ、高橋曰く、「う~ん、根本的にズレていますね。ちょっと冷静になった方がいいですよ」、と冷静ぶった返事が来た。一体何がズレているのか? 私は、「たかはし」や「普通の人」の妄想に付き合わねばならないのか? しかも、疑問に対してちゃんと答えている私に、「冷静になった方がいいですよ!」は失礼だろう。そうした彼の態度の問題を指摘すると、先の「泥棒に窃盗するなと説教されている……」発言や、「先生が冷静になった方がいいというのは事実の指摘です」、といった失礼極まりない発言が続いた。たまりかねて、「君は他人とコミュニケーションしようとする姿勢がない」、と言うと、「その言葉そっくりお返しします。御自愛ください」、という「たかはし」の台詞で、この不毛なやりとりが終わった。そして「たかはし」は以下のようにツイートした。

⑧自分を客観視できず。プライドだけが膨れ上がった惨めな老人。やっぱり、配偶者というのは重要で「あなた、おかしいわよ」と言ってくれるのは重要なことなのだろうなと思う。気をつけなければ…

 この言いぐさに対して特にコメントする必要はなかろう。「たかはし」はこういう人間だったのである。やれやれと思っていたら、「たかはし」のツイートに刺激されて、この手の騒ぎに便乗したがる輩が再び湧いて出て、騒ぎ始めた。第二十二回で言及したSkinnerianを名乗る“学生”は前回の自分のブログ(Skinerrian’s blog)の記事を再びツイートした。この記事には、ひどい勘違いによる記述があるのだが、「たかはし」が脊髄反射でその勘違いの記述に飛び付いて、見当外れのツイートを続けた。

⑨選択公理axiom of choiceを擁護することは、妊娠中絶を認めること(pro choice)と関係があるとか

⑩これまじかwwwwすげーwwww

⑪あーアレだよね確かにアーレント的に意味をなすよね …アーレント的に…

 バカに付ける薬はない、「すごい!」のはどっちだ、としか言いようがない。Skinnerianも高橋も全然気が付いていないようなので、一応指摘しておくと、数学の「選択公理 axiom of choice」と「妊娠中絶」を認めるという意味での〈pro choice〉が関係していると主張しているポストモダン思想家というのは実在しない。ソーカルのインチキ論文にそういうことを言っている人がいるかのような思わせぶりな記述があるだけである――インチキ論文の中の記述であることを忘れると、おかしなことになる。あと、『知の欺瞞』の方に、ある思想家の選択公理を不正確な理解で比ゆ的に使っているという批判が出ているが、これは中絶とは全く関係がない。恐らく、Skinnerianがポモはひどいことを言っているに違いないという思い込みから、この二つを勝手に合成して話を作ってしまったのだろう。それを実際に誰かが言っているのか確かめようともしない。私はそういう人間に対して、デリダとかクリステヴァの議論の本筋は似非数学でも似非物理学でもないですよ、と教えてやるのは不可能だと言っているのである。「たかはし」は、その作り話を真に受けているのだから、どうしようもない。ところで、「アーレント的には」、とはどういう意味だろう。多分、私がアーレントに関して何冊か本を書いているので、選択公理と中絶を結び付けたのはアーレントで、“アーレントの欺瞞”が暴かれると、飯の食い上げになるので、私が必死で擁護していると妄想したのだろう。よくもこれだけ自分の妄想を信じ込めるものだと感心する。念のために言っておくが、アーレントは数学の集合論とも中絶権論争ともほとんど縁がないし、彼女を“ポモ”だと言う学者や批評家は皆無である。
 「たかはし」に便乗した連中の中で目立ってひどかったのは、東浩紀氏や千葉雅也氏など、日本版ポストモダンの代表的論客と見なされる人たちに難癖をつけて目立とうとする、自称文芸批評家の山川賢一である。山川のツイートにも番号を付けておこう。

①仲正先生、『集中講義! 日本の現代思想』で、ポモが勢いを失った理由としてバブル崩壊だの共産主義崩壊だのをあげつつ、サイエンスウォーズとソーカル事件にはいっさい触れてない。逃げたわけですよ。/

⓶いやあ、「ポストモダンとは何だったのか」というサブタイの本で、ポストモダン言説史を2000年代まで語りつつ、ソーカル事件に一切触れないってのは卑怯者としか言いようがないですからねえ。議論する価値もないです。

③関係あるのか知らないけど、おれが知の欺瞞を援用した千葉雅也批判 https://note.mu/shinkai35/n/n37779516e099 … を書いた数か月後に仲正のポモ擁護記事が出たので、個人的にタイムリーだった記憶がある

 本当に呆れ返る。サイエンスウォーズとソーカル事件が、日本の現代思想において特筆すべき重大転換点だと誰が決めたのか? 『集中講義! 日本の現代思想』は、主として現代思想の社会史的背景について論じた本である。山川は、ソーカル事件が、全共闘、石油ショック、産業構造の転換、冷戦の終焉、バブル経済、グローバル化、大学制度改革などと同じレベルの大事件だとでも思っているのか。これまでの彼の雑なこと極まりない言動からすると、ソーカルに論破されたせいで、ポストモダンが衰退したと言いたいようだが、論争の勝ち負けで思想のブームが決まるなどと思っているのか? まるで、一昔前の頭の固いマルクス主義者のような発想だ。
 山川は、名古屋大の大学院で、モード論で有名なロラン・バルトについて研究していたらしいが、これがバルトを学んだ人間の発想だろうか? こんなつまらない決め付けしかできないようであれば、フランス文学・思想の研究で挫折するのは当然だ。それに、私のことを卑怯者で論ずるに値しないと断言したあとで、「個人的にタイムリーだった」と、自慢気に書き込むのはどういう思考回路か?
 山川がツイッターでアップしている千葉雅也論は、ルサンチマンの塊のような文章なのでそれこそ論ずるに値しないのだが、言いがかりをつけられてしまった行きがかり上、少しだけコメントしておく。「千葉雅也のアンチ・エビデンス論について」というタイトルの彼の文章は、千葉氏の文章が難解であるということと、エビデンスをめぐる問題を――意図的にか論理的混乱からか――混同している。この二つは別問題である。統計資料などのエビデンスをふんだんに示している文章だからといって、読みやすいとは限らない。にもかかわらず山川は、千葉氏の「論文のスタイル」ということで強引にくっつけている。しかも、そこにソーカルによるポストモダン批判を無理やり絡めている。数学的概念の比喩的使用の是非というのは、これまた、全く違う問題である。山川は、[ポモの代表=千葉雅也]という前提で、ネットの知ったかぶり連中が「ポモ的」だと思っているものを、全部千葉氏におっかぶせようとしているように見える。ちゃんと批判したいのなら、エビデンスの問題と文体の問題とソーカル問題をきちんと区分けすべきである。
 私は千葉氏や東氏とさほど接点があるわけではないので、積極的に擁護したいとも批判したいとも思わない。ただ一つ言えることは、「ソーカル事件で日本の現代思想史が終った!」と決め付ける山川のような自称批評家よりも、彼らの方が遥かに哲学・思想史研究におけるエビデンスを重視しているということである――山川などと比較するのは、本当のところ、彼らに対して失礼なのだが。「たかはし」と同様に山川も、“ポモ論客”たちがインチキ論文で楽に出世していると主張するのであれば、自分で査読付き学術誌の論文に投稿し、業績を作り、どこかの教員ポストに応募してみるべきだ。自分でやってみる勇気もない卑怯者のくせに、憶測で他人を誹謗して悦に入っているのであれば、山川は最低の屑である。
 “ポストモダン系”の思想は九〇年代に入って、八〇年代ほど一般的に注目されなくなったが、バタイユ、ラカン、デリダ、ドゥルーズ、フーコー、アガンベンなどの影響を受けている、人文系の若手研究者は今でも少なくない。現に東氏や国分氏、千葉氏等は注目されている。本当にポストモダン系の思想の研究をしているということが、穴があったら入りたいほど恥ずかしいなら、山川が嫉妬で狂う理由もない。
 あと何人か、見当外れのツイートをした人間に触れておく。「偽トノイケダイスケ(久弥中) ‏@gannbattemasenn」という人物が、この問題を整理するふりをして延々と連投し、最後に以下のようにツブヤいている。

 僕が思うに、ポモが失墜したのって、ソーカル事件そのものよりも、その後のアフターケアが、今回の仲正さんのように権威主義的だったからじゃないの? と思える。これ、あずまんの件もそうだったけど、この手の人間は何時も「これは複雑で単純な批判は受け容れられない」でスルーしちゃうんだよね。

 基本的に「たかはし」や山川と同じ発想である。ソーカル事件だけをきっかけに「ポモ」が失墜したということを自明視している。アフターケアとか言っているが、一般読者だった人が、ソーカル事件をきっかけに絶望して、離反したことを示すデータでもあるのか? 研究者志望の学生がソーカル事件でショックを受けて研究の方向性を換えたとか、文系の研究者になることへの希望を失ったとかいったケースが多発したのであれば、「アフターケア」という言葉に多少の意味があるかもしれないが、そういう人間が一人でもいたら、是非その時の心境を聴いてみたい。また、「たかはし」に関して指摘したように、私が「権威主義」だというのも言葉の濫用である。「読んでもないテクストを批判したつもりになるのはやめろ」、と言うのが権威主義なのか? 横着者には、それが権威主義に聞こえるのかもしれない。おまえは“究極のゆとり”か?
 竹内龍樹‏@takeuchitatsukiという人物は以下のような、よく意味の分からないツイートをしている。

中沢人事騒動で中沢擁護派(駒場教養派)がポストモダン擁護の立場に回った時点と今とでは、だいぶ時代条件が変わっている。 条件変化を十分に考慮できぬまま、仲正昌樹も単に守勢(むしろ「守旧」か)に回っているように見えるのは、「人文系」にとってはピンチではなくチャンスのはずだ。

 山川や「たかはし」と同様に、私が“生き残りをかけて”下手な論壇政治をしようとしているとでも思っているのだろうか? そう思っているのであれば、私が現在どういう風に追い詰められているか教えてほしい。また、私にとって「条件変化を十分に考慮」した生き残り戦略がどういうものか知っているのなら、切実な問題なので是非ともご教授願いたい。
 OokuboTact(中二病)という人物は、「しかし仲正昌樹氏(法哲学教授)のソーカル事件に関する話は酷い」と言っているが、何がひどいのか。繰り返し述べているように、読んだこともないテクストについて一方的な悪口を言うは不毛だ、と言うことのどこが酷いのか。酷いのは、何が話題なのか分かりもしないのに他人の悪口を言っているおまえだろう。
 「墓碑銘‏@_bohimei」という人物が、以下のような失礼な言い方をしている。

 アカデミアの人間が書いたインターネット上のソーカル事件についての纏まっていて一定の水準にある文章は理系かつソーカルに賛意する人間が書いたものが多いが、人文系でソーカルに批判的な人間によるものは仲正なんかよりこれ読んだらいいと思う https://ocw.kyoto-u.ac.jp/ja/general-education-jp/introduction-to-physics/html/physics/sokal1.html/skinless_view …

 私の極北の連載はもともとただのコラムである。論文的なものとして書いたつもりはないし、読めば分かるだろう。ソーカル事件を第三者的に紹介した書籍も何冊か刊行されているので、私が今更解説するまでもない。私は、ソーカルの批判それ自体ではなく、それに便乗して訳も分からず騒いでいる自称SNS論客のことを問題にしている。そんなことも分からないくせに、「アカデミアの人間」とかいう変な範疇を持ち出して、私をけなそうとするおまえの精神状態はどうなっているのか? ネット上で読める簡単なソーカル事件の総括として早川先生の文章を紹介したいだけなら、私の悪口を言う必要などないだろう。さっさと、墓穴に入れ!
 最後に念のためにもう一度言っておく。ラカンやクリステヴァなどのテクストの一部に、数学用語なのか比喩なのかはっきり分からない表現が多用されていて、紛らわしい、数学用語を使うのならもっと正確に使え、という批判であれば、その通りだと思う。論旨が分からなくなるような比喩表現は控えるべき、という議論には私も賛成である。そこから話を飛躍させて、「ポモに内容がなかったことが証明された!」「ポモ大破産!」とか言って喜んでいるような輩を問題にしているのである。批判対象になっているテクストを読もうと努力さえしないまま“ポモ批判”を続けることを恥じと思わない山川等の横着さには心底あきれ果てた。読まないで“批判”するのが当然と思いこんでいる奴は、話が通じない人外の存在である。


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