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「天皇を読む」第1回 たけもとのぶひろ【第118回】 – 月刊極北

 「天皇を読む」第1回


たけもとのぶひろ[第118回]
2017年1月6日
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祭祀を主宰する今上天皇

祭祀を主宰する今上天皇

 今回からしばらくの間、直接には今上天皇に学びながら、天皇および天皇制について考えていきたいと思います。少し前、昨年(2015年)の全国戦没者追悼式における陛下の式辞のときにも、触発されてそれについて書いたことがありました。式辞の文章そのものは、ごく短いものでしたが、何度も練り直す作業のなかで仕上げられたのであろうことが察せられ、迫力を感じました。それ以前の式辞の骨格を残しながらも、その言わんとするところをさらに深めて練り直し、再思三考しておられたのであろう、そのご様子から、日本人という存在を正面に見据えて語りかけるというのはこういうことなのだな——と、そのことが身にしみました。
  
 同時に、安倍首相の挨拶もありましたから、両者の違いが際立ち、印象的でした。陛下はご自身の頭でお考えになったことを、ご自身の言葉で語っておられるのに対して、首相のそれは、自分自身というものをあらかじめ埒外に置いたうえで、美辞麗句を並べただけの、ただの独り言でしかない、そういう印象でした。恥というものを知らない、という。
 いったい、この違いはどこから来るのであろうか――みたいな問いがぼくのなかに生れ、それがきっかけで、かの戦没者追悼式の式辞について書かせてもらったのでした。

 天皇についてなんの予備知識もない素人ではあっても、人は時として、なにか書かずにおれない気持ちになるものだな、と省みて思ったことでした。
 あえて「素人」と書きました。学者でも有識者でもない、ということです。
 天皇ないし天皇制について考えるばあい、あらかじめそれに関する知識、概念、理論といったものの備えが必要だと思います。たとえば、この国の生い立ちに関わる神話、その後の日本史とりわけ近現代史、神道をはじめとする宗教、帝国憲法および日本国憲法などについては、知っていないと不味いでしょう。学者とか有識者というのは、これらのいくつかの分野について詳しい人、あるいはこれらの分野全般について明るい人です。そうした理論ないし学問を前提にして、その立場から、彼らは発言しているということです。

 ところが、ぼくなんかの素人のばあいは、一から知識を習得し、理論を学ぶところからスタートします。概念ではなくて普通の言葉と辞書が武器です。答えらしきものを探し求めて、ゴールを目指します。目指すと言っても、ゴールへ至るコースなど分かっていません。それどころか、ゴールがあるかないかも定かではないのです。
 それが実状ですから、時として見当外れの道を行って引き返したり、迷路みたいなところに迷い込んでなかなか出て来れなかったりします。結局は、間違いに気がついて再挑戦することになるのですが、それはいったん思いこんだことを自分自ら捨てる作業です。ゆえに、はっきり言って、なかなか思うようには進むことができません。難しい道です。アホやなぁ、と自分を笑うしかありません。なんとかこの、自分を笑う気分にまで行ってしまえば、もう丈夫、再出発できるのですが。

 このように素人には、素人であるがために強いられる難儀や苦戦というものがあって、それを避けることはできません。しかし、その反面、素人ならではの利点もあります。その気になれば、前後左右へのおもんばかりはご免こうむって、何はばかることなく、おおっぴらに言いたいことを言い、罷り通らせてもらうことだって出来なくはない、その鉄面皮も素人の分際であればやってやれないことではない、というのがその利点です。

 学者とか専門家がこういう振る舞いに及ぶとしたら、只では済まされないと思います。 “触らぬ神に祟りなし” と言うくらいですから、触ると酷い目に会うタブーみたいなものがあるに違いありません。たとえば、これから考えようとしている「天皇についての制度」ですが、世間に公然と知られている「顕教としての天皇制」と、それとは別に、秘かな隠し事みたいにして生き延びてきた「密教としての天皇制」と、二つの天皇制があって、後者についてはこっそり触るくらいにしておいたほうが無難なようです。つまり、これはタブーだ、ということです。

 後者について、日頃から疑問に思ってきたことをもう少し書きますね。8月8日の「お言葉」でもそうですが、陛下は「国民の安寧と幸せを祈る」「国民を思い国民のために祈る」とおっしやっており、そのための行動を起こしておられます。しかし、ぼくらふつうの日本国民は、そのことをまったく知りません。天皇がいつ・どこで・どのように祈ってくださっているのか、何も知らないに等しいのではないでしょうか。
 祈ってもらっている当の国民のほうは、天皇のその事実についてほとんど何も知らされていないし、事実知らないのです。それってヘンだと思いませんか。どうして、こういうことになるのでしょうか。

 「天皇が祈る」とか「祈り」ということを言葉で言うだけなら、実はいくら大っぴらに言おうと、なにも差し支えがありません。しかし言葉であるに止まらず、それが「祈り」の行為そのものを意味することを承知の上で、あれこれ言うとしたら問題が生じます。どうして?  何を言っているのか? と。

 この種の、明確さを欠く誤魔化に対して、ぼくは強い違和感を抱きます。違和感ということについて、少し脱線して言いたいことがります。たとえば「譲位」と「退位」の言葉の違い方についても、同様の感想をもちます。仄聞するところ、陛下ご自身は当初、「譲位」という言葉を使って話をされたそうです。この言葉であれば陛下が主語ですし、言わんとするところは、今上天皇が天皇という地位を次の代に譲るということですから、ごくごく自然に聞くことができます。ところが、報道はすべて一斉に「退位」で統一されています。その地位から「退く」ことは許されるが、地位を「譲る」という言い方は許されません。なぜか。その表現だと、そこにいささかなりとも陛下の主体性が入ってしまうがゆえに、政治的関与の誹りを免れないからではないか、と察せられます。よって、「譲位」ではなくて「退位」でなければならない、そういうリクツではないでしょうか。

 それどころか、現行制度だと、退くにしても、死なない限り退くことができないわけですね。「天皇の崩御=天皇の終焉=天皇退位」ということらしいのです。これだと、天皇本人の地位について、いっさい本人の関与は認めない、本人を排除して決定する、それが当然の正しいやり方だ、ということになってしまいます。
 きわめて理不尽なやり口だと思われませんか。ぼくは陛下の表現の通りにするのが筋だと思います。これっぽっちの主体性も認めない、個人なり私なりの思いは関係ない。そのような振る舞いを、まともな国なり国民がするでしょうか。ところが、事実はまったく逆です。新聞もテレビも、学者も有識者も、「お言葉」を伝え始めたその時から、一斉に一貫して一つの例外もなく「退位」でもって統一し、統一されています。気味の悪い話ではあります。彼らの辞書には、「譲位」という言葉がない、と言うしかありません。

 もうひとつだけ書いておきます。陛下は、天皇の「本質」について問いを発するの挙に出られたのでした。しかし、学者・有識者たちの多くはその問いをもっぱら「制度」の問題として受けとめたのではないでしょうか。この点に、ぼくは強い違和感を抱きます。しかも、彼らはそんな問題があるのかいな、と言わんばかりの顔をしています。まるで肩すかしを喰らわすがごとき扱いです。違和感を感じます。
 どうしてこういうことになるのか、こういうことにしかならないのはどうしてなのか、はっきりさせる努力をしなければいけないと思います。

 「天皇を読む」シリーズの初回をしめくくるにあたって、いまぼくがおぼろげながらイメージしていることを、あらまし書いておきたいと思います。天皇および天皇制について、何を、どういうふうに順序立てて書けばよいのか、そのことは、まだわかっていません。しかし、どういうことについて考えようとしているのか、そのイメージはあります。イメージを構成する骨組みというか柱というか枠組みというか、そう いうものがようやくぼんやりと見えてきた、そんな感じなのです。その感じを以下に書きます。

 天皇には三つの在り方とそれにともなう三つの務めがあるらしい、というのが直観です。ということは、すなわち、対するpeopleのほうにも、それに即する形で三つの位相があるのであろう。そういうつながりになります。こういうふうなことを前に置いたうえで、シリーズを始めたいと思うのです。

 まず、今上天皇として存在する天皇は、天皇制の安定と皇室の継承に資するのが務めです。なによりもまず「日本社会という共同体を構成する人々」にとっての天皇でなければなりません。フツーの日本人がジョーシキ的にイメージする天皇の姿がこれです。共同体社会日本の「人々」が「天皇」との間にくり広げる世界です。

 次に、天皇とは「天皇という地位」に在ることを意味しており、日本国および日本国民統合の象徴であることがその務めです。この地位と務めは「主権者たる国民の総意」に基づくものである――と、日本国憲法が明記しています。
 主権者たる国民が、その総意に基づいて、国民統合の象徴として「天皇」を頂いている、ということです。このことを逆の方向から見ると、天皇にとって国民とは何か、天皇から見た国民というのはどういう存在なのか、ということです。それは、なによりもまず、「主権者としての国民」だということです。ここで言いたいのは、天皇の地位が実は国民に依存しているのだ、というこの一点です。

 最後に、天皇というのは、皇室祭祀を主宰する祭司(巫祝・神官)でもあるということ、そういう存在だということです。ですから、天照大神をはじめ皇祖皇宗の神霊を前にして拝み、国民(氏子)の安寧と幸福を祈るのが、その務めです。今上天皇は、誠心誠意この務めをはたしてこられたと聞いています。しかし、かつてのGHQの「神道指令」は、したがって日本国憲法も、国家政府そのものの神道活動への関与を禁じました。それ以来、「天皇が国民の為に祈る」皇室祭祀は、国家の公の行事としてはとり行なうことができなくなっています。
 そういう事態に追い込まれたとき苦し紛れに出てきた “苦肉の策” が、皇室祭祀を「天皇家の私的行事」として行なう。秘かに、つまり一般には認められない隠し事として、とり行なう――という、ある種の “禁じ手” でした。

 しかし、もともと天皇が国民の為に祈る祭祀であったものについて、国家権力――時の政府が、天皇家の「私的行事」としてのみ「許す=黙認する」という、この構図は、いったい何を意味しているのでしょうか。いろんな言い方ができるでしょうが、つまりは、祭司でもあるし・そうあらねばならない天皇に対する軽視あるいは無視、天皇の祭祀(祈り)からの国民の排除、象徴天皇による国民「統合」よりも実は国家権力による国民「統治」の重視、などということだと思います。そのようなほんとうのことは、公然と語ることのできないタブーです。だとしたら、先述の「密教としての天皇制」ということにならざるをえないのではないでしょうか。

 今回は、テーマの入口の前まで来たつもりです。この国では、天皇および天皇制に限ったことではなく一事が万事ですが、自他に対して嘘をつく、自他を騙す、そのことのいったいどこが悪いのか、みたいな絶望的なやり口が罷り通って来ました。今現在もそうです。二枚舌でも三枚舌でも、その時その場をしのぐことができさえすれば、それでよいではないか、みたいなことのなかで、すべてが有耶無耶になってしまう。そのことを、ぼくは本当に情けなく思います。

 次回は、「天皇および天皇制」問題の入口の戸を開けて、中に入っていきます。2016年8月8日の「お言葉」をテキストとして、そこから学びつつ進むつもりです。