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「知性」を、知識の暗記量か、レスバトルの戦闘力だと思い込んでいる幸せな人たち 仲正昌樹【第37回】 – 月刊極北

「知性」を、知識の暗記量か、レスバトルの戦闘力だと思い込んでいる幸せな人たち


仲正昌樹[第37回]
2016年10月2日
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仲正昌樹

著者近影、9月11日「文学の寺子屋」第2回(明月堂書店)

 これまで何回か言及してきたように、学者・知識人をバカにしたり、対抗して“知識”自慢したがる人たちは、どれだけマメ知識を暗記しているかが、その人の「知性」の水準だと思い込んでいるふしがある。そのため、「○○年に▽▽が□□した」といった年表的な知識とか、英単語や熟語、数学の解の公式、化学の反応式のようなものを正確に覚えているかどうかのクイズによって、どちらが頭が良いかを決めようとしたがる。いつまでも受験勉強の癖が抜けないのと、テレビのクイズ番組や、趣味の世界のトリビア知識の自慢をし合うオタク文化の影響で、そういう発想になってしまうのだろう。
 言うまでもなく、まともな学者・知識人であれば、暗記している知識の量が「知性」の水準などとは考えていない。解答に辿り着くまでの学問的に妥当な手順を心得ていることが、学者にとっての「知性」である。だから、哲学者がカントの有名なフレーズを正確に覚えていなくても、特に恥じる必要はない。そのフレーズが使われている箇所が大体わかっていればよい。無論、正確に暗記できていればそれに越したことはないが、カント研究をする学者の必須条件ではない。むしろ、そのフレーズがどういう意味で使われているのか、カントのテクスト全体の中での位置付けや、先行研究を踏まえて、確定するための文献学的手順を心得ていることの方が遥かに重要である。そうした「学問的に意味のある問題」で、きちんと手順を踏まえて、答えを出そうとすれば、それなりに時間がかかる。学会の通説になっているようなことでも、きちんと確認したうえで、答えようとすると、時間がかかる。小学校の算数のように、単純な答えにならないことの方が多い。だから、まっとうな学者は、クイズ・バトルのようなものは無意味だと分かっているので、クイズ・バトル的なことをしたがる、暗記バカなど相手にしたくない。クイズ脳の暗記バカにはそれが分からないので、「学者のくせに、こんなことも知らないなんて、やはり偽学者だ!」、と騒ぐ。
 これと密接に関連する問題として、ネット検索をどう利用するかということがある。嫌儲板など、2ちゃんねるの特定の板に常駐している人たちには、ネット検索で、その言葉やフレーズの意味が出てくれば、それで“分かった”ことになると思い込んでいる人が多い。この連載で何度か触れたように、著名人の生没年とか大事件のあった日時とかであれば、wikipedia情報で十分であるが、「ケインズ vs. ハイエク論争では何が焦点になったか?」とか、「ハーサニはどういう観点からロールズの原初状態論を批判したか?」、といった学問的な内容に関しては、(何語版であれ)wikipediaの記述をそのまま信用することはできない。ネット検索して、参照すべき原典や詳しい解説論文が見つかることもあるが、何がそれに当たるか見極めることができないといけない。ネットでは、孫引きの孫引きの孫引きくらいの情報しかないので、原典に当たらないといけない、と判明することもある。その場合、関連する原典がどれで、その正式タイトルが何で、それを所蔵しているのがどの図書館や文書館かを、探り当てないといけない。2ちゃんねらーなどには、そうした判別ができないので、googleやyahooの単純な検索で、自分の眼に入ってくるものが全てだと思ってしまう。関連する重要文献、あるいは、そういう文献の存在を示唆するヒントが検索で出てきても、関連性が理解できないので見過ごしてしまう。そういう人は、ネット検索をすればするほど世界が狭くなる。
 また、高校までの学校で単純化して習う知識も、自分が丸暗記したままの形で応用しようとすると、おかしなことになることが多々あるが、受験―クイズ脳人間はそれに気付かない。受験の時に習った生半可な知識に基づいて、学者の発言を批判しようとするイタイ奴がいる。日本でもベストセラーになったマイケル・サンデルの正義論の教科書の邦訳タイトルは、『これからの「正義」の話をしよう』であるが、原題は結構ニュアンスが違う。《JUSTICE:What’s the Right Thing to Do?》直訳すると、「正義:なすべき正しいことは何か?」となる。「これからの~」というのは、正義観の革命的変化のようなものを何となく暗示して、注目を集めるための付け足しである。そういうことをある所で書いたら、物知りぶったブロガーが、「英語のto不定詞には未来の意味がある。そのことは、大学受験で定評のある●●の参考書の◆◆頁に書いてある。仲正先生は、知性の正しいあり方について語りながら、高校受験レベルのミスをしている。恥ずかしい」、ということを恥ずかし気もなく書き込んだ。こういう中学レベルの国語力のなさと英会話の経験のなさが複合した勘違いをされると、どこから訂正してやっていいのか分からない。しかし、その後、同じようなことを言っている人間に他でも出くわして、うんざりしたので、半ば無駄だと承知しつつ、どうおかしいかできるだけ分かりやすく説明しておこう。
 まず、“I want to ~”とか“I am going to ~”といった用法に見られるように、to不定詞が未来の意味を帯びていることは少なくないが、絶対に未来を指しているわけではない。”To err is human, to forgive divine.”のような格言の場合は、明らかに時制を帯びていない。“What’s the Right Thing to Do?”は、何かの究極の選択を迫られている緊迫した状況で語られるのであれば、未来の意味を帯びてくるが、副タイトルの文からだけでは、そこまでは読み取れない。本の中で、トロッコ問題など緊迫した状況での「正しい判断」について問いかける例題も出てくるので、そうした意味合いが込められていると深読みできなくもないが、「これからの『正義』~」という日本語は、明らかにそれとは違うことを暗示している。従来通用していた正義論、正義観が覆され、サンデル等の提唱する新しい「正義」が、未来社会をリードする、というようなニュアンスが読み取れる。“What’s the Right Thing to Do?”に、そうした未来社会とか、革命的転換というような意味合いでの「未来」を読み込むのは無理である。本文を読んでも、サンデルは、自分が支持するコミュニタリアン的正義観が、そういう革命的なものだと示唆するような、大それたことは言っていない。
 私は、そういうことを簡潔に指摘しただけである。こういう細かい説明をしなくても、受験以外の場で多少なりとも英語を読み書きした経験と、まっとうな国語力があれば、“What’s the Right Thing to Do?”という文自体に、未来の正義を示唆するような大げさな意味合いがないことはすぐ分かるはずである。最近の中高の授業や参考書では、to不定詞と動名詞の使い方の違いを説明する際に、「to不定詞は未来の意味を持つ」と断定的に教えているようなので、勘違いしている連中は、それを無批判に受け止め、to不定法が使われる全ての場合に「未来」が含まれていると――どういう意味での「未来」なのかも考えず――思い込んでしまったのだろう。これは、単純暗記が危ないことを示す端的な例であるが、大学で授業をしていると、時折これと似たような勘違いをしている学生に出くわす。指摘されて、自分の認識を修正するのならいいが、先のブロガーのように、偉大な受験プロから伝授された神聖な知識を冒涜されたように感じて、大騒ぎする輩もいるので、気が滅入る。
 あと、曲解に基づく私への誹謗中傷に対して、私がその間違いを指摘する文章をこの連載で書くと、嫌儲民、なんJ民、reddit民等の中に、「仲正はレスバトルしないので卑怯だ!」、と頓珍漢なことを叫ぶ輩が出てくる。私はそもそも匿名で他人を誹謗中傷するような輩を、まともに反論すべき相手とは見なしていない。不愉快な間違い、悪口がネット上でそのまま流布するのが嫌なのと、バカのサンプルとして手頃だということが相まって、言及しているだけである。従って、そういう連中とバトルして“勝負”を決める必要など端からないのだが、彼らは、どれだけ速く反応できるか、どれだけ共感レスを集められるかが、“知性”の尺度だと思っているのだろうか? まるでRPGかテレビのクイズ番組の発想である。
 先に述べたように、そんなのは学者にとっての「知性」とは全く関係ないし、反応の速さを競うような“バトル”をすれば、仕事も勉強もしていない暇人が圧倒的に有利になる。また、掲示板であれ個人のブログであれ、自由に書き込みできる場であれば、何も分かっていない人間が、その都度の気分や、個人的な思い入れや反感などから、デタラメな暴言を書きこんでくる。学者にとっては、何も分かっていない人間が敵になったり、味方になったりするのは、全く無意味なことである。そんなことのために、無駄なエネルギーを使いたくない。私は常に複数の本や論文の執筆に取り組んでいる――この連載は論文ではないので、それほど時間はかからないし、たまにこういうのを書くと、気晴らしになる。
 暗記量とレスの速さで頭の良さが決まると思い込んで、延々とレスバトルを続けることのできる人は、ある意味、幸福なのだろう。