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『噂の眞相』ごっこが大好きな2ちゃんねらーたちの“学者”幻想 仲正昌樹【第36回】 – 月刊極北

『噂の眞相』ごっこが大好きな2ちゃんねらーたちの“学者”幻想


仲正昌樹[第36回]
2016年9月1日
[1]

著者近影、7月9日「文学の寺子屋」第一回(明月堂書店)

著者近影、7月9日「文学の寺子屋」第一回(明月堂書店)

 かつて『噂の眞相』という左翼系のゴシップ雑誌があった。政界・財界・ジャーナリズムの大物とか芸能人・大手芸能事務所の幹部に関する「黒い噂」をオブラートに包まずに掲載するのを売りにしていた。偶に、マスコミでも名前を知られている学者もやり玉に挙げられることがある。学者関係の記事でよくあるパターンは、「気鋭の学者として売り出している○○であるが、専門である△△学関係の評判は芳しくない。研究者のA氏曰く、『○○の業績なんて誰も認めていません。彼はコネだけでのし上がったようなものなのに、謙虚さがなく威張り散らしているので、鼻つまみ者ですよ』…」というように、匿名の研究者A氏、B氏を登場させ、研究者としての資質を疑うよう誘導するというものだ。
 無論、A氏やB氏が本当に書かれている通りの発言をしたのかどうか分からないし、その人たち自身が研究者としての職に就いてちゃんとした仕事をしているという保証はない。実在するかさえや怪しい。仮に一定の地位のある学者として実在していて、実際にその通りの発言をしたとしても、自分の名前を隠したまま、商業メディアを利用して、同業者を誹謗して憂さ晴らしするというのは、学者として極めて恥ずべき行為である。○○氏よりも自分の方が学者としてダメな奴だと自白しているようなものだ。学問的に批判したいのなら、論文など一定の形式を備えた文章で、自分の名前を表に出して指摘すべきだし、学問的にどうのこうのということではなく、○○氏の存在が気に入らないという話なら、無視するか、酒の席などでの悪口程度にとどめておくべきだろう。
 そんなことは、学者であれば当たり前の話だが、指導教官から評価されない院生とか、院生にさえなかなかなれないで悶々としている学生、学者一般に対して何等かの理由でルサンチマンを抱いている一般人などは、この種の記事を読むと、何だか溜飲が下がったような気になるようである。学者の世界のスターと、自分の間の距離が縮まったように思えて、考えようによっては、自分の方が上に思えて快感なのだろう。無論、心の中でそうした記事に共感したり、ごく親しい友人との口頭の会話でちょっと口にするだけなら基本的に問題ない。しかし、その記事の内容を鵜呑みにし、それをコピペした文章をネット上に――自分自身も匿名で――書き込んで拡散するようになると、問題である。ソースの分からない記事を鵜呑みにして他人を“批判”するような人間には、研究者を名乗る資格はない。本人がダメになっていくのは自業自得だが、○○氏や彼と一緒に仕事をする人にとっては、迷惑である。
 『噂の眞相』は十数年前から“休刊状態”になっているが、2ちゃんねるなどでは、同業者を装って、ある程度世間的に名前が知られている学者の悪評を流して喜んでいる輩をしばしば見受ける。それを真に受けてコピペする、出来の悪い“学者の卵”、“院生崩れ”、“学歴コンプレックス人間”もいる。私も時々被害を受ける。嫌儲板に七月三日に立った「金沢大の仲正教授「嫌儲民は反知性主義でネトウヨと同類」 嫌儲vs仲正 ラウンド3」というタイトルのスレッドで、ID:wOQb26SNdという人物が、以下のような書き込みをしている。

仲正は政治思想界隈では誰も相手しない糞本しか出してないから、読まないが吉
哲学畑での評価は知らん

 「誰も相手にしない」というのは、匿名のA氏、B氏がよく使うフレーズである。曖昧なので、何とでも取れる。wOQb26SNdのように根性の腐った輩なら、目いっぱい悪い方に取ろうとするだろう。wOQb26SNdがどこかの大学で教職・研究職に就いていないのであれば、私の評判に関してちゃんとした情報を入手できるとは考えられない。又聞きの又聞きの…又聞きにすぎないだろう。仮に自分の指導教官などから、「仲正の本など読む価値はない!」と言われたとしても、どうして読む価値がないのか尋ねたのだろうか? ちゃんと尋ねて何等かの具体的な答えを引き出したのなら、それらしいことを書いているだろう。また、実際、どこかでそうした発言を耳にしたとしても、自分で確かめようとせず、鵜呑みにしたのであれば、wOQb26SNdには研究者になる資格がない。もし仮に、wOQb26SNd自身が大学教員だったとしても、先に述べたように、彼自身が私以上にダメな学者であると自白しているようなものである。恐らく、wOQb26SNdは、大学院生にさえなれないダメ学生で、自分の願望を書き込んだだけだろう。
 wOQb26SNdの正体はさておいて、「誰も相手にしない」というフレーズをそれなりに真面目に受け取ると、他の学者が自分の著作・論文で仲正のことに言及しないとか、仲正と一緒に仕事をしようとしない、という意味に取れる。そう思うのであれば、実際そうなっているのか確かめるべきである――もし、wOQb26SNdが院生であれば、調べるのは簡単であろう。wOQb26SNdの言い分通り、「誰も相手にしていない」のが本当だとすると、注で私の本に言及していたり、私が寄稿している本の共著者などになっている政治思想史・政治哲学の研究者はみな相手にする必要のないクズということになるだろう。
 同じスレッドに、ID:X39DfVJQ0という人物が12回にわたってしつこく書き込んでいる。こちらの方はドイツ系の思想史の研究者を装っていて、ある程度具体的な中身らしきことを書いているが、専門的知識があやふやで、プロの眼でみれば、はったりであることがすぐばれる。この人物はどういう訳か、改行の後に10行分くらいのスペースを空けている――こいつの頭の中の空白を象徴しているようにも見える。そのままだとあまりにも読みにくいので、スペースを詰めて引用しておく。370番の書き込みで、以下のように述べている。

つか、こいつ自身哲学バカにしまくってるんだよなあ

シュミットとかベンヤミンとかドイツ現代思想の入門書と、モデルネの葛藤と、危機の詩学しか読んだことないけどさ

カントもヘーゲルもニーチェもアドルノもまともに読んでないしちゃんと読む気もないのが本当の本当に見え見えで、大学の先生がこんなんでいいのかと

 この言い方だけだと、適当に哲学者・思想家の名前を並べて、仲正が勉強不足だという印象を嫌儲板の住民に与えたい、というID:X39DfVJQ0の『噂の眞相』的な願望の現れとしか取れない。そういう主旨のことをスレッド上の他の人物に指摘されて、ID:X39DfVJQ0は388番で、以下のように述べている。

少なくとも、モデルネの葛藤の結論には至らないだろうな

ってかあれ当時ドイツで持て囃されてたメニングハウスのほぼパクリだろ

もう内容忘れたけど

入門書では明白に古い哲学者やその読者と研究者をバカにして笑ってる記述が多々あるよ

まあ、講義をそのまま本にしたものだから本人としては授業を進める潤滑油ぐらいにしか考えてないんだろうけどそれでも見せちゃいけない好きだったという気がするな

 分かりやすいところからコメントしておこう。後半の[「明白に古い哲学者やその読者と研究者をバカにして笑ってる記述が多々あるよ」⇢「本人としては授業を進める潤滑油ぐらいにしか考えてないんだろうけどそれでも見せちゃいけない好きだったという気がするな」]というのは、何を言わんとしているのか? ある哲学者とその読者が、今となっては到底通用しないような古い考え方を金科玉条のように、何の疑問もなく信奉しているとしたら、それを皮肉って何が悪いのか? ID:X39DfVJQ0は、昔から権威ある哲学者を批判するのは、冒涜であり、許されないとでも思っているのか? 仮に、私がその哲学者の言説をよく理解しないで素人的な理解をしていたり、単に古いというだけで時代遅れ扱いしているのであれば、私の方が批判されてしかるべきだが、それは具体的に誰のどういう言説をどう皮肉っているのか具体的に指摘しないと無意味である。また、あるカントとかマルクス、ハイデガーなどが、あるところで今となっては取るにたりない素朴な議論をしていても、別の所では今から見ても極めて示唆的な議論をしているというのは、よくあることだ。まともな哲学・思想史研究者であれば、特定の哲学者を、安易に全否定したり全肯定したりしない。この書きっぷりからすると、ID:X39DfVJQ0はそういう基本的なことさえ分からないくらい幼稚な奴のように思える。
 拙著『モデルネの葛藤』(御茶の水書房)が、メニングハウスの著作(『無限の二重化』)のパクリだという件についてであるが、これは、自分で論文を書いたことのない人間による雑な断定であるとしか思えない。そもそも、「パクリ」とはどういうことか分かっているのか? 意味が分からないまま、学術論文に関して「パクリ」という言葉を使いたがる2ちゃんねらーが多いので、少し説明しておこう。一番悪い意味での「パクリ」は、小保方さんの博士論文をめぐって問題になったように、他人の著作・論文のほぼ全部または一部を、自分のオリジナルな文章であるかのようにコピペすることである。本文や注で該当箇所を、出典を明示したうえで引用しているのであれば、この意味での「パクリ」ではない。私はこの意味での「パクリ」は全くやっていない。学者の間では、一応引用という形を取っていても、その引用が異様に長かったり、ごく一部だけ引用しているような体裁を取りながら、実際にはその引用元を細部だけ変えてリライトしたものと見なされるのであれば、広い意味で「パクリ」という言い方をする時もある。しかし、メニングハウスと私ではテーマ設定が異なっているので、彼の本を全体的に「パクル」ということは不可能である。そんなことは、見る目がある専門家が、『モデルネの葛藤』と、法政大学出版局から邦訳が出ている『無限の二重化』の目次を見比べれば、それこそ一目瞭然だ。ID:X39DfVJQ0は、どちらも自分で読んだことがないのだろう。恐らく、どこかの嫉妬の塊のような独文学者が、「仲正さんの本なんてメニングハウスのぱくりじゃないか」、とでも言っていたのを真に受けたのだろう。
 もう少し専門的なことを言っておくと、メニングハウスの本も私の本も、その業界では誰でも知っている、有名なドイツの文芸批評家がかなり昔に呈示した議論を、現代思想の文脈でリニューアル・拡張することを起点としているので、肝心なところが似ているように見えるのは当然だ。その批評家の論文と、メニングハウスと私の本の三者を比較対照しない限り、パクったかオリジナルか、という議論は意味をなさない。ID:X39DfVJQ0はその肝心の所が全く分かっていないようである。
 そもそも、「もう内容忘れた」のに、どうして「パクリ」と断じることができるのか? 専門的知識がないという以前に、筋道立てた思考ができない人間のように思える。この点がおかしいのは、やはり他の人物から指摘されている。それで、ID:X39DfVJQ0は何を思ったのか、416番で以下のような、意味の分からない書き込みをしている。

>>399
忘れたのは仲正の本の最後の方

少なくともメニングハウスがカントをまともに読んでいないことは無限の二重化の時点ではほぼ確信したし指摘もされていたはず

その後は知らん

 「忘れたのは最後の方」というのはどういう意味だろう? 多分、最後の結論は忘れたが、それまでは「パク」っているのが明白だ、とでも言いたいのだろう。しかし、結論を覚えていなくて、どうして「パクリ」と言えるのか? また、メニングハウスがカントをまともに読んでいないことが『無限の二重化』が刊行された時点で指摘されていたなどというのは、バカの言い分をそれに輪をかけたバカが鵜呑みにしているとしか思えない愚論である。感情的で雑な学者が、「□□は△△を読んでいない」、と断言することがよくあるが、他人が何を読んでいるかなど分かりようがない。自分の知っているオーソドックスな解釈と違ったことを言っているので、相手が読んでないと決めつけているにすぎないことが圧倒的に多い。具体的な該当箇所に即して、「□□の△△の解釈は、方法論的に支持できない」と指摘するのでなければ、傲慢な人間が他人の悪口を言ったにすぎない。更に言えば、この書き込みから、ID:X39DfVJQ0は、『無限の二重化』が何を論じている本か知らないのではないかという疑問さえ出てくる。この本の議論全体の中で、カントに言及されている部分はごくわずかであり、それもあまり全体のテーマとは関係していない。読んでいる/読んでいない、を話題にしたいのなら、別の哲学者の名前を挙げるべきだろう。そもそもメニングハウスがカントをちゃんと読んでいないことが、私の本にどう関係するのだろうか?
 この点についても、別の人物に突っ込まれて、以下のように答えている。

>>429
無批判に理論を導入していたら誤解もそっくりそのままと思うのが普通だと思うが

海外の研究動向まで追ってないので定説かどうかは知らん

 つまり私がメニングハウスをパクっているので、彼のカント誤解をそのまま継承したと言いたいようなのだが、先に述べたように、『無限の二重化』はカントとはあまり関係していないし、私の本のカント関係の記述では、『無限の二重化』は全く参照していない。別のカント研究者とかカント批判者の議論を参照している。読んでいない証拠である。もし、ID:X39DfVJQ0が、あまりできのよくない独文学者かドイツ思想史研究者がどこかで口にしていた片言隻句をうろ覚えで鵜呑みにしてこんなことを言い出したのであれば、あるカント用語が、『無限の二重化』でカントのオリジナルとは違う意味で使われている、というベタな話であろう。しかし、それはメニングハウスや私の問題ではなく、分析の対象になっているロマン派の批評家・哲学者の問題である。そのロマン派の論客たちは、当然、カントがどういう意味でその用語を使っているか分かったうえで、わざと拡大解釈しているし、私や他のロマン派研究者はそれを充分承知のうえで引用している。カントの用語や表現を、意図的にカント自身とは違う視点から解釈することが許されないのであれば、哲学史の発展はありえない。フィヒテもシェリングもヘーゲルもアドルノも、カントをちゃんと読まなかったバカになってしまう。
 そもそもID:X39DfVJQ0は、偉そうに正しいカント解釈について語っているが、恐らく彼にはカントについての常識的な知識もないだろう。『純粋理性批判』のA版とB版ではどこが大きく異なっているか、『純粋理性批判』と『実践理性批判』では「理性」の役割がどう異なっているか、「判断力」と「共通感覚」はどういう関係にあるか、といった別にカント研究の専門家でなくても知っていてしかるべき問いに答えることもできないだろう。
 もしID:X39DfVJQ0が、メニングハウスのカント理解がおかしくて、『無限の二重化』全体が無茶苦茶になっていると思うのなら、彼にメールで問い合わせて、その真偽を確かめたらいいだろう。彼の勤務先のメルアドは、多少ともドイツ語ができる人間がネット検索すればすぐ見つかる。「海外の研究動向まで追ってないので定説かどうかは知らん」、としゃあしゃあと言ってのけられるID:X39DfVJQ0のことだから、自分でドイツ語のメールを出すことなどはなっから無理かもしれないが。
 少し脇にそれるが、八月に嫌儲板に立った「金沢大教授「Amazonは悪口レビューを削除しない拝金主義。あと嫌儲のアホもいずれ論破する」 嫌儲vs仲正ラウンド4」でのID:CYhFlrwB0による妄想に対して一言述べておく。ことの経緯については、前回の『極北』を読んでほしいが、この人物は、私がアマゾン・ジャパンのJasper Chen社長宛ての抗議メールを日本語で書いたことに関して、「こいつ大学教授なのに英語も書けねえの /マジかよ」(145番)とたわけた書き込みをしている。こういうバカに付ける薬はない。日本語のアマゾンのサイトにおかしな日本語で中傷レビューを書いた奴がいて、それに対して私が削除の申し入れをしたところ、アマゾンのスタッフがおざなりの日本語のテンプレート文章を返してきたので、その経緯をはっきり伝えるため日本語でメールしたのである。無理に英語にしても、細かいニュアンスは伝わらないし、英語にしたところで、社長自身は読まない可能性が高そうなので、無駄な翻訳努力をしなかったまでである。私は必要があれば、英語でもフランス語でもドイツ語でも、海外の学者やお役所とメールや手紙でやりとりしている。これまでデリダ、ローティ、ドゥウォーキン、ドゥルシラ・コーネル、ナンシー・フレイザーなどの著名人のやりとりしたことがある――こういう名前を出しても、2ちゃんねらーにはちんぷんかんぶんだろうが。英語とドイツ語なら、来日した学者の通訳を何回もやっているし、フランス語でも学問的なやりとりができなくない。読むだけ、あるいは多少の会話だけでよければ、あと何か国語かできる。思想史をやっている学者にはそんなのは大して自慢するほどのことではないので、普段いちいち強調していないだけである。ID:CYhFlrwB0のような英語コンプレックスの塊で、大学教員は英語ができないと決めつけたがるバカがあちこちで増殖しているおかげで、文科省とか金沢大の学長とかが、日本の文化や法律・社会制度に関する授業も英語でやれ、英語化の数値目標を掲げよ、などという狂った政策を打ち出すことになるのである。
 学者のふりをして流言飛語を飛ばす輩に話を戻そう。先ほどの「金沢大の仲正教授「嫌儲民は反知性主義でネトウヨと同類」 嫌儲vs仲正 ラウンド3」の続きの、「金沢大の仲正教授「嫌儲民は反知性主義でネトウヨと同類」 嫌儲vs仲正 ラウンド3 ★2」というスレッドに、理系の研究者のふりをした「ID:vt1d5y0H0」という人物が、見当外れの書き込みをしている。嫌儲板の住人が、どんなことが話題になっているかに関わらず、やたらと「三行で説明しろ! 三行で説明できないのは、内容がない証拠だ! はい論破!」、などと叫ぶことに関して、前々回(三十四回) [2]の『極北』で私がその発想のおかしさを指摘したところ、それに対する反論のつもりで、以下のように述べている。

どんなに本文が長かろうと、さっと目を通して主旨が把握できるような
アブストラクト(3行じゃないにしてもさ)を書く訓練は普通するけどね
出版される論文のアブストラクトとは別に、投稿時の編集向け主旨説明は本当に3行ぐらいだったりするし、
学会への応募とか学会の記録記事とかあらゆるフォーマットに対応させられる

まー、文系は大御所のおじいちゃんに子守唄うたってれば、エラい誰々さんの弟子ですとか覚えがめでたいとか
なんとか学派ですとかってので出世できるからそういう訓練はしないのかな?

 こいつは何を勘違いしているのか。その分野の研究者同士のやりとりであれば、三行どころか、場合によってはワンセンテンスで通じるのは当たり前である。自分で研究やって論文を書いているのであれば、それを他の専門家向けに要約できるのは当たり前である。訓練などというほどの大層なことではない。もし文学を研究している人とか、文系出身の文科省のお役人、大学に通ったこともない人に、数行で分子生物学とか量子力学の研究の意義を分からせる、魔法のような技術があるとすれば、話は別である。アブストラクトを書くのにいちいち訓練が必要ということは、ID:vt1d5y0H0は少なくとも一人前の理系の研究者ではないのだろう。
 あと、「文系は大御所のおじいちゃんに子守唄うたってれば、エラい誰々さんの弟子ですとか覚えがめでたいとか /なんとか学派ですとかってので出世できるから」、と断言するからには、何か具体的な証拠があるのだろうか? 「子守唄をうたう」というのは、どういう行為だろうか? そんなすごいマインド・コントロールの術があるのなら、是非教えて欲しいものである。有力大学の著名な教授が若い学者を評価する時に、バイアスがかかる、というのは文系・理系を問わずあらゆる分野でありうることである。だからどこの大学・学部・学科でも、教員採用に際しては身贔屓でないことを証明するために、教授会などでかなり細かく選考経過を説明するのが当たり前になっている。
 そもそも、偉い先生におべっかを言って取り入るにしても、その先生がボケていない限りで、「先生すごいです。尊敬します!」と声高に叫ぶだけで、機嫌がよくなるはずがない。その人のこれまでの研究の蓄積と自分のやっていることをうまく関連付けて説明できない限り、胡散臭い奴として門前払いされるだけである。最低限、それだけの「要約能力」は必要である。ID:vt1d5y0H0は、自分で一人前の研究者らしい活動をしたことがないので、そうした当たり前のことさえ想像できないのだろう。
 これまで繰り返し述べてきたように、嫌儲板などで理系を装って文系叩きをしたがる人間は、文系の学者が書いた論文が難しくて理解できないと、自分の頭が悪いせいだとは思わず、「内容がないから理解できないんだ」、とヒステリックに決めつける。高校・大学の入学試験と同じように、数字とか参考書に出て来る基本単語のような形で、「答え」がはっきり決まるのでない学問は、無価値だと思い込んでいる。この連載の三十三回 [3]で、大学では、高校までで大ざっぱに習ったことを基礎から学び直す、それは文系でも理系でも同じはずだ、という主旨のことを述べた。哲学とか文学の例だけだと我田引水っぽいので、ちょっとした理系関連の例を出しておいた。すると、「仲正は理系コンプレックスがすごい。やばい」、などとバカな反応をする。私が、2ちゃんねらー相手に知識自慢をしているとでも思っているのだろうか? どうしてそういう発想になるのか? こういう連中は、文系理系という以前に、知識とは暗記だと思い込んでしまって、そこから抜け出せないのだろう。


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