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安倍流“民主主義”とリンカーン(7) たけもとのぶひろ【第107回】 – 月刊極北

安倍流“民主主義”とリンカーン(7)


たけもとのぶひろ[第107回]
2016年8月1日
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■「ゲティスバーグ演説」(3)——奴隷制とその現実

 「ゲティスバーグ演説」は米国内戦(南北戦争)のさなかの演説です。その事実からだけでも、よくよく考えれば、リンカーンが演説のなかで何を問うていたのか、察することができるのではないでしょうか。「白人による黒人に対する差別と支配」——これをやめさせるにはどうすればよいのか、ということ、それが演説のテーマであったと思います。
 そしてまた、それは遥か昔の歴史上の問題ではなくて、実に身近な、今現在の問題でもあります。

 つい最近のことです(2016年7月)。米国では、またしても警官による黒人男性の射殺事件が発生しました。黒人は一斉に抗議行動に起ちあがりましたが、それでは収まらず、さらなる報復行動(警察官射殺)に及んでいます。事件とその経過は以下の通りです。

 ①7月5日。ルイジアナ州バトンルージュで警察官が黒人男性を射殺した。同地では、事件直後から連日にわたる抗議デモ。
 ②7月7日。テキサス州ダラスでは黒人男性が警察官を狙撃して5人を殺害した。
 ③抗議デモは、やはり黒人男性が射殺されたことのあるミネソタ州やニューヨークなどにも波及し、週末の8〜10日だけでも300人以上が逮捕された。
 ④事の発端となったバトンルージュの10日のデモ行進では、ついに「ブラック・ライブズ・マター」(BLM)の声があがった。Black Lives Matter.(黒人の命が大切なのだ、問われているのは黒人の命だろう!)。BLMの運動は2013年、黒人少年を銃殺した白人男性に無罪判決が出たことに抗議して生まれたという。

差別と支配への無言の抗議(ネットより)

差別と支配への無言の抗議(ネットより)

 オバマ大統領はこれらについての所感のなかで、①黒人による警察官への狙撃は「人種差別への憎悪の行動」であり、②二つの銃殺事件に見られるのは「我々の民主主義の最も深い断層」の現われである、と述べています。アメリカという国は、その社会の最も深いところが――民主主義の価値観に反する――断層によって大きく引き裂かれており、その断層が時代の状況如何によって表面化する、そういう認識だと思われます。

 この種の悲劇の因って来たるそもそもの源は、建国以前の植民地時代にまで遡ります。有賀貞氏は、前掲書『アメリカ』(山川出版社)のなかで次のように述べています。
 「アメリカの歴史においては彼ら(ヨーロッパ人)と先住民インディアンとの関係は長いあいだ重要だったし、植民地時代の初期にアフリカ人を奴隷とする奴隷制度を導入したことはその後のアメリカの歴史に大きな影響を与えることになった。新世界において、一方で先住民族の存在を、他方ではアフリカ人奴隷の存在を意識することによって、(ヨーロッパ人)植民者とその子孫たちはアメリカ人になったというのは確かであろう」と。
 (なお、アメリカ人の自己形成史において決定的な要因となった、先住民インディアン諸部族とヨーロッパ白人入植者との歴史については立ち入りません。)

 ここで碓かめておきたいのはイギリス人入植の年代記です。そのあらましは次の通りです。
 1606年 国王ジェームズ1世、北米大陸の植民を目指す会社に勅許状を与える
 1607年 英国人、ヴァージニア上陸、入植地をジェームズタウンと命名(王名に因んで)
 1619年 ジェームズタウン__大地主プランテーションの確立、黒人奴隷20人の導入
 1620年 分離派の植民者、プリマス上陸・植民地建設開始
 1624年 セントキッツ島の植民事業開始
 1630年 マサチューセッツ湾の植民地建設開始
 1681年 ウィリアム・ペン、ペンシルヴェニア植民地を建設

 イギリス人入植者たちは、敬虔なキリスト者として新世界建設の理想に燃えて入植していったのでしたが、それはイギリス国王のよき理解に守られてのことでした。上記のヴァージニア植民地建設の場合(1607年)、国王は総督と評議会メンバーを任命・派遣しただけで、あとは住民の「自治」に委ねたのです。そこでは入植当初より、住民代表による議会政治――民主主義と立憲主義――が行われたと伝えられています。

 同じく上記の「ペンシルヴェニア植民地」も英国王チャールズ2世の勅許を得て建設されたものですが、その植民地は「神聖な実験」と呼ばれるくらい敬虔な宗教的営為と目されていたと言います。前掲書『63章』から当該部分を引用します。
 「ペンは植民地建設にあたり、神への奉仕とキリスト者としての高い道徳心の必要性を説いた。それ故「神聖な実験」とは、何よりもまず、神の愛に応えようとする有徳な人びとからなるコミュニティの建設をめざすものであり、信仰の自由、政治的自由、そして平和主義がこの植民地の基本理念とされた。(中略)1682年に起草された「ペンシルヴェニアの政治の形態」では、自由公民としての住民には自ら法律を作る権利、政治に参加する権利をはじめとするイギリス人としての権利を認め、選挙による二院制議会の設置を約束した。ただし選挙資格はキリスト教徒に限定された。この草案はペンが渡米した後に開かれた住民総会で採択され、植民地の最初の憲法となった。」(『63章』)

 イギリス出身の白人・キリスト教徒入植者たちは、ヨーロッパ社会の歴史的しがらみを振り切り、「民主主義」「立憲主義」による「自治」社会の構築にむけて邁進したのでありましょう。しかし、その、新天地における自由の国の建設事業に参加することができたのは、「白人=イギリス人=キリスト教徒」に限られていました。新しいコミュニティへの参加資格は、彼ら「自由公民」にのみ限られており、先住民インディアンおよび黒人奴隷は、新しく建設するコミュニティのメンバーからあらかじめ排除されていたのです。インディアンを皆殺しにし、黒人を差別・酷使・弾圧することなくしては、彼ら白人による「植民地建設」はありえなかった、ということです。

 「黒人奴隷なくして植民地なし」の歴史的事実を知るには、上述の年代記があれば十分です。イギリス人がヴァージニアに上陸し、入植地をジェームズタウンと命名したあと、直ぐに着手し集中的に取り組んだであろうことは、土地の地理的条件の調査、治安警察体制・軍隊組織の確立、社会の法的制度的な基盤づくり、生存のための経済の見通し、等々だったと思います。ここまでに十年余。そうして最終的に方針を決定します。「黒人奴隷制プランテーションによる植民地経営」というのがそれです。
 方針を決定した1619年、ただちにイギリス人入植者たちは奴隷20人を購入します。すなわち、英国人による植民地の建設と奴隷の輸入とは、ほとんど同時に始まっているということです。

 その「黒人奴隷制プランテーション経済」はどのように発展していったのでしょうか。発展の足跡は、奴隷人口の推移に反映されているはずです。言うまでもなく、奴隷人口は飛躍的に増加し続けました。その一端を知るために、前掲書『63章』から幾つかの数字を拾い出して見ておきたいと思います。
 ①イギリス王立アフリカ会社の奴隷貿易独占時代の数字(1680〜1688年)。運行奴隷船のべ249隻、西アフリカからの積み荷奴隷数6万1000人、アメリカ陸揚げ奴隷数4万6000人、海中投棄奴隷数1万5000人
(他方、17世紀末の英領植民地白人推定人口は25万人)。
 ②奴隷貿易自由化(1689年)による奴隷輸入の急増(18世紀)。年平均奴隷輸入数――1715〜50年2500人から、1753〜73年7450人へと上昇(他方、独立戦争開始時1775年の白人推定人口、前世紀の約10倍 250万人)。
 ③合衆国第1回国勢調査の結果(1790年)。奴隷人口総数70万人、その90%以上が南部に集中、南部人口の40%が黒人奴隷。
 ④奴隷輸入禁止法発効(1808年)、にもかかわらず自然増による奴隷人口の増加。
 ⑤全米ではなくて15奴隷州のみの人口構成(1860年 リンカーン大統領当選の年)。南部15奴隷州総人口1220万人、うち白人800万人、黒人420万人。

 以上のように、17世紀末から、18世紀いっぱい、そして19世紀に入ってもなお、黒人奴隷の人口は増加し続けました。奴隷は、法律の上では「動産(私有財産)である」というのが規定ですから、所有の対象であり売買の対象でした。人間であるにもかかわらず、人間とみなさない、人間扱いをしない。もちろん人格など認めない、ということです。人間でない者と人間との性的関係は成立しませんから、混血はタブー、犯罪です。
 白人と黒人のあいだは、関係自体を断ち切らなければなりません。白人は支配する人種として純化されなければならず、黒人は支配されて当然の劣等人種として運命づけられる、ということです。人種主義です。ごくごく当たり前の人間感情からして認めがたい、この理不尽な奴隷制度を正当化して、その上に白人支配の社会を築くために、彼ら白人は、この人種差別のイデオロギーのもとに結束してきたのでした。

 すでに触れたように、ウィリアム・ペンの「ペンシルヴェニアの政治の形態」における「自由公民」の植民地自治にしても、「白人イギリス人のキリスト教徒」のみに限られた世界の話であって、黒人奴隷の存在などまったく眼中になく、いったいどこが「神聖な実験」なのか、どこに “キリスト者としての高い道徳心” があるのか、片腹痛い思いがします。

 ところが、およそ1世紀の時間を経て、18世紀末の「独立戦争」(1775〜1783)前後の時代となると、白人社会と黒人奴隷社会は、まるで無関係な、次元を異にする断絶の間柄とまでは言い切れない、複雑な様相を呈してきます。その複雑さの中身を仕分けして、以下に示したいと思います。

 1776年の「独立宣言」は、その冒頭部分において all Men are created equal と謳いあげていますが、このall Men は黒人奴隷を含む概念として宣言されたのでしょうか。そうだとすれば、Creatorは黒人に対しても、白人と同様の、生存権・自由権・幸福追求権など、他者に譲り渡すことのできない権利を授けていなければならないはずですが、歴史の 事実はそうではありませんでした。起草者のトーマス・ジェファーソンは、黒人のことなどもともと眼中になく、いわゆる自然権思想の適用範囲を白人のみに限定して考えていたのだと思います。もっと言えば、イギリス本国のイギリス人も植民地のイギリス人も、同じイギリス人であり、同じ白人キリスト教徒であり、両者は平等でなければならない。したがって、本国のイギリス人が植民地のイギリス人を支配することは許されない。要するに、独立の宣言とは、そういう主張だったのかもしれません。

 そうだとすると、これは入植以来のイギリス人の信念にそのまま重なるわけで、起草者はなにも格別のことを書いたつもりはなかったのかもしれません。しかし、上述のように、18世紀も後半に入ると、黒人奴隷の輸入は飛躍的に増加します。その大量化自体が存在の本質をあらわにして、無言のうちに白人に迫ります。黒人は奴隷であり財産であり所有物である、とする白人の人種差別イデオロギーに、重大な嫌疑がかけられる――そういう状況が広がり、もはや無視できないレベルにまで達します。

 こうした状況のなかで、北部の白人イギリス人は、実際の植民地「自治」を黒人差別の白人至上主義でやりながら、理論的には自然権思想を奉じる、というアンビバレンツな――もっと言えば “偽善” と評されても抗弁しようのない――危うい立場に立って、なんとかしのいでいたのではないでしょうか。
しかし、南部の白人キリスト教徒としては、理論と実際とを切り離して使い分けるというような器用なことはできません。南部社会は、上部構造も下部構造もすべてが奴隷制プランテーションの上に乗っかっているわけで、人種主義イデオロギーと分かち難く一体化していたのですから。

 南北の対立は、この段階ですでに “水と油” ほどにも違います。にもかかわらず彼らは、なんとか折り合いをつけて、Free and Independent ! の狼煙を上げ、戦争へと突入していったのでした。よくぞそこまで頑張れたものよ、と驚いてしまいます。
 冷静な歴史の解釈としては、次のように言うのがよいのかもしれません。① 本国と植民地との対立がいかほどのものか、それを知るために、植民地内南北対立と比べてみます。当時としては、前者のほうが遥かに重大かつ深刻だった、ということでしょう。② むしろ、宗主国イギリスとの関係を、独立した主権国家同士の関係として確立し、ある意味で片付けてしまわないと、「一国の統治」に関わる問題――より具体的には「奴隷の問題」――に立ち向かうことができなかったのではないでしょうか。

 それはさておき、白人と黒人奴隷との関係についてですが、両者の関係は独立戦争がきっかけとなって、変化の兆しが見え始めました。
 奴隷制プランテーションのもとではあれ、それ以前も、黒人奴隷が白人の単なる財産にとどまっていなかったことはもちろんです。不服従やサボタージュの行動、個別逃亡から集団脱走まで、さらに稀には白人民兵との武装闘争など――黒人は、不条理な白人支配に対して戦ってきたことが記録されています。ただ、これらの戦いのばあい、動かしがたい大前提としてあったのは、白人の人種主義的黒人支配という鉄壁の体制であって、黒人奴隷はその前提の絶対性に対して戦いを挑み続けてきたのだ――そう言えると思うのです。

 ところが、独立戦争(アメリカ独立革命)のドンパチが始まると、イギリス本国軍も植民地軍もともに、背に腹は替えられぬと言わんばかりに、黒人奴隷を兵士として募集し、戦争へと動員したと言います。引用します(『63章』)。
 「黒人奴隷は戦争中イギリス(本国)側からも愛国派(植民地)側からも、従軍すれば解放するとの約束で、味方につくよう呼びかけられた。これに応じて奴隷主の許から逃走してイギリス側についた奴隷の数約5000人、愛国派についた奴隷も約5000人いた。なかには実際に約束通りに自由を得た者もいたが、約束を反古にされた者が大半を占めた。」

 両軍がともに、黒人奴隷に向かって、従軍という条件を提示し、その条件を満たせば奴隷身分から解放すると約束したことの意義は、その約束が履行されたか反古にされたかの如何に関わらず、実に大きいし重いものがあると思います。
 白人イギリス人たちの従軍要請は、奴隷が奴隷主の許から逃亡し、自分で従軍の決断をくだすことを前提しています。である以上、奴隷は鉄砲や弾丸のようなモノではなくて、意志決定の主体として一個の人間であることを認めなければなりません。ということは、すなわち、奴隷制支配が決して “絶対的な永遠の運命” なんかではないことを自ら認めることを意味します。

 奴隷制度は、植民地が宗主国に勝利して合衆国という「一つの主権国家」を立ち上げた18世紀の末あたりから19世紀にかけて大きく揺らぎはじめ、「世界最初の “総力戦” 」とのキャッチコピーで知られる「内戦(1861〜1865年)」へと突入します。そうして、ようやく廃止という決着にたどり着くのでした。
 次回は、歴史の時間軸で言うと、内戦前夜、リンカーンの登場、内戦突入、そのあたりのことを考えたいと思います。「ゲティスバーグ演説」に届くまでに、まだもう少し時間がかかりそうです。申し訳ありません。