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安倍流“民主主義”とリンカーン(5) たけもとのぶひろ【第105回】 – 月刊極北

安倍流“民主主義”とリンカーン(5)


たけもとのぶひろ[第105回]
2016年6月14日
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「レキシントンの戦い」1775年

「レキシントンの戦い」1775年

■「ゲティスバーグ演説」―リンカーンのテーマ①「Nation」
 リンカーンの「ゲティスバーグ演説」は、なんの気なしに読んでいる分にはわかった気がしていたのでしたが、 “あれっ、これは何や?” とわからなくなったのは、5月のはじめのある日のことでした。疑問に思ったのは、「独立宣言」を総括した冒頭の文章でリンカーンが「a new nation」と述べている部分です。
 「宣言」の原文を見ても、出てくるのはもっぱらStatesであって、Nationは一度も出て来ませんし(注)、 ”だいいちアメリカにnationは似合わへんぞ、おかしいのと違うか”
というふうな違和を感じました。それが最初でした。
(注)「宣言」のなかでnationという単語を見たのは、英国王ジョージ三世について述べた次の文章だけです。He is totally unworthy of the Head of a civilized nation.(He = the present King of Great Britain.)

 すでに言及はしているのですが、いま一度、考えてみたいのです。リンカーン演説の導入部分を改めて示します。
 原文——Four score and seven years ago, our fathers brought forth on this continent, a new nation, conceived in Liberty, and dedicated to the proposition that all men are created equal.
 思い切った説明的邦訳——80と7年前(one score=20, 1776年 合衆国独立宣言)、我らの父祖たちはこの新大陸の大地の上に、初めて国家nationというもの考え方を芽生えさせたのでした。この国家というのは、その出自を尋ねると、Libertyという名の女神(ラテン語のlibertasは女性名詞)の胎内に孕まれており、産まれたあとは造物主の、「人間はすべて平等である」とする、その理念を奉じて献身しなければならない、ということだったのです。

 ただ、この宣言は13のColoniesが「大陸会議」のもとに結集して発したものです。つまり、この13 Coloniesを一つのまとまりにする力——政治的情熱と言ってもいいと思います__が、彼ら植民地人民の心の奥深いところで働いていないかぎり、こういう展開にはならなかったと思います。そしていったん、このように「一つのまとまりにする」力が生まれて、時代の流れとなると、この力自体がその政治的表現を求めるのは、自然の勢いというものではないでしょうか。

 そう考えると、「Nationへの道」は、「独立宣言」のなかの文言としては謳ってなくとも、13 ColoniesのStatesへの「独立」をめぐる戦いそれ自体のなかに潜められていた、という言い方ができるのではないでしょうか。潜められていたからこそ、頭をもたげて、大地から芽を出すことにもなる——そういうことではないかと思うのです。

 そうした事の成り行きがあって、その延長線上に今日のUnited States of Americaという名の「国家」Nationがあるのだと思います。しかし、それにしても、どうして、「国家への道」というようなことが言えるのでしょうか。リンカーンの「ゲティスバーグ演説」を “導きの糸” と頼って、進めていきたいと思います。

 こんなふうに書き始めてはみたけれど、ほんとうにこのように言えるのかどうか、単純化が過ぎるかもしれません。歴史の事実はどうだったのか、米国史の入門書(注)に学んだところを以下に要約して示します。その歴史のなかに、彼らのNationならではの、他に類を見ない特徴をみることができますし、独立戦争に勝利した国がどうしてさらなる内戦を戦わざるをえなかったか、その原因の一端を覗くことができるような気もするのです。とりあえず年代記を、「独立戦争」前夜から始めます。
(注)①有賀貞『ヒストリカル・ガイド アメリカ』(山川出版社 2012)、②富田虎雄・鵜月祐典・佐藤円 編著『アメリカの歴史を知るための63章』(明石書店 第3版 2015)

 「独立戦争」は、1775年の「レキシントン・コンコードの戦い」と呼ばれる会戦から始まり、翌1776年の「独立宣言」をもって公式に宣戦を布告し、1783年のパリ条約でもって終結します。
 その独立戦争の “遠因” というか、歴史をさかのぼってその “導火線” の元へとたどっていくと「フレンチ・インディアン戦争」(1754~1763)に行き着く、とされています。
 新大陸における英仏間の植民地争奪戦です。結果、英国が勝利して、カナダ、フロリダ、ミシシッピ川以東の全域を帝国領とします。
 しかし、問題はその後です。戦費調達のため大量の国債を発行したイギリス本国政府は、
その借金の重みに耐えかねているところに加えて、新たに拡大した帝国領の防衛と統治のための費用をも捻出しなければなりません。

 彼らは決断します。植民地政策を根本から見直すしかない、と。新税をもうけて税収をあげる、通商規制を強化する、抵抗に対しては弾圧をもって臨む、ということです。
年表に拠って具体的に示すと、「砂糖法」(1764)、「印紙法」(1764)、「宣言法」(1766)、「タウンゼンド諸法」(1767)、「茶税法」(1773)、「強圧諸法」(1774、前年「ボストン茶会事件」に対する報復)等々です。しかし、本国政府のこれらの植民地政策——立法および行政上の措置——は、植民地人といえども元はといえば英国人であった人びとですから、思いも寄らぬ仕打ちと受けとめられました。なぜか。幾つかの点を指摘します。

 •それまでの13 Coloniesは、英領植民地ではあっても、支配らしい支配はほとんどなく、実際には本国人と変わらぬ自由を享受していました。王派遣の総督や役人の権力は制限され、民政はそのほとんどが植民地議会——植民地に議会があったのですって! ——に任されていたし、治安や防衛についても王の軍隊は駐屯させずに、植民地住民自身の民兵組織——民兵も組織されていたとは! ——に任されていたと言います。

 •従来の植民地人は、このように実質的な自由を享受してきただけに、王室への忠誠心も強く、英領植民地の一員であることを誇りにしてきたところ、にもかかわらず本国政府は上記諸法案に見るように、植民地に対する一方的な抑圧政策に転換したのでした。
 植民地の人間としては、英国臣民としての権利を主張するしかありません。 “本国議会の法律による課税は、植民地が本国議会に代表を送っていない以上、 ”英国臣民としての” 憲法上の権利を侵害するものであって、無効である。英国憲法は「代表なくして課税なし」と謳っているのだから” と。

 •このように植民地の人びとは、同じ英国臣民であることを根拠にして本国イギリスに抵抗しているところからしても、当初は、本国からの「独立」など毛の先ほども思っていなかったに違いありません。また、たとえば上記の「印紙法」の場合、植民地人の反対運動に追いつめられた本国政府が同法撤廃の余儀なきに至ったとき、植民地の人たちは同法撤廃の決断に “感謝” して、あろうことかジョージ三世の銅像を建立したと伝えられています。「印紙法」撤廃は、国王大権の至上性を宣言した「宣言法」と抱き合わせになっていて、植民地の人びとはしっかり報復されるわけですが。
 • それどころか植民地の人びとは、「独立宣言」の文章のなかでさえも、たとえばジョージ三世に対してpetitions(嘆願)などという単語を使い、またイギリス本国人に対してもour British brethren(わが英国人同胞)と呼び、the ties of our common kindred(同じ血族としての絆を共有している)と述べ、その民族として精神をtheir native justice and magnanimity(生まれつき公明正大で度量が大きい)と称えています。
 それほどまでに英国国王・イギリス本国に対する帰属意識が強かった、ということではないでしょうか。植民地人といえ彼らは、新大陸に入植してからも正真正銘のイギリス人だと信じていたということです。こんな調子だと喧嘩できないというか、喧嘩にならないのではないでしょうか。

 ところが、事態は一変します。植民地側はまるで堪忍袋の緒が切れたかのように、本国に向かって暴力沙汰の喧嘩をしかけたのでした。1773年12月の「ボストン茶会事件」がそれです。事の発端は、同年の本国議会における「茶法」制定でした。同法の狙いは、紅茶の過剰在庫を抱える東インド会社に対して、植民地における無関税の紅茶の独占販売権を賦与する点にありました。これに対してボストンの反対派が怒るのは当然です。彼らは停泊中の三隻の紅茶運搬船を襲い、積み荷の全部を海中に投棄しました。本国政府は港を閉鎖し、軍隊を派遣し、翌74年には「強圧諸法」を制定して “ボストンの圧殺” にかかります。本国政府のこのマサチューセッツ懲罰政策が、Colonies13邦の同情を買い、彼らを団結させ、かえって危機意識に目覚めさせたのは、ごくごく自然の成り行きでした。

 その流れのなかでColonies13邦は、共同行動への第一歩を踏み出します。1774年9月の「第1回大陸会議」の開催です。会議は、Colonies各邦が結束して本国政府に抵抗することを申し合わせます。例えば、本国議会の植民地弾圧法の撤廃、英国商品の不買運動、本国との輸出入の管理強化、などで団結していこう、と。
そうはいっても、彼らとしては、本国からの「独立」など夢にも想っていなかったでしょう。植民地といえども、本国と対等の連邦として・共通のイギリス国王のもとで・同じ一つの帝国を構成しているのだ——というのが、彼らの実感だったのですから。

 またしても、ところがです。現実の戦いが政治に行動を迫ります。
 1775年4月、ボストン駐屯のイギリス本国軍が革命派の武器庫を襲撃します。革命派民兵がこれを迎え撃ちます。その地名をとって「レキシントン・コンコードの会戦」と呼ばれる、この衝突が発端となって、新大陸の13の植民地はイギリス本国からの「独立戦争」に突入していきます。こうなると「大陸会議」は、革命政府として肚を据えてかからなければなりません。

 同年9月の第2回大陸会議は、以下の点を決定します。すなわち——① Colonies13邦全体で軍事上の連帯を決意する。② 各植民地「民兵」のほかに「正規軍=大陸軍」を創設する。③「大陸軍」総司令官にジョージ・ワシントンを任命する。④ 大陸軍および各植民地民兵からなる革命軍の目標は、「王国からの独立」=「連邦共和国の建設」である。⑤ 以後「大陸会議」は、連邦共和国政府の建設を目指して二つの「国づくり」を開始する。これら5点の決断が、すべての始まりでした。

 「二つの国づくり」とはどういうことでしょうか。一つは、13植民地Coloniesのそれぞれがイギリス王国から独立し、それぞれの憲法を有する「共和国・邦=States」として再生する、そういう「国づくり」です。いま一つは、これらのStatesを一つにまとめて、連合とか連邦というふうな連合体をつくるという、もう一つ別の次元の「国づくり」です。二つの「国づくり」を重ねて同時に進めるという、この作業は前代未聞の大事業です。

 前者についてはすでに触れた限りでよいと思います。問題は後者です。これについては、やはり大陸会議のもとで同時併行して進められたという二つの文書——「独立宣言」(トーマス・ジェファーソン起草)および「連合規約」(ジョン・ディキンソン起草)——を検討する必要があるようです。ただ、「独立宣言」については以前に少しみてきたので、再述しません。あとの「連合規約」というのは、「独立宣言」の内容を裏書きするとでも言いましょうか——独立するぞ! と言い放った、その「独立」の基本的立場を示すというか、そういう性格の文書だったと思われます。

 ぼくは「独立宣言」という文書の存在だけは知っていましたが、その内容についてつぶさに承知していたわけではありませんでした。ましてや「連合規約」については、その存在すら知りませんでした。このたび米国史の入門書を読んでみて、「連合規約」だけをとりあげても、米国の独立闘争史——英領植民地ColoniesがStatesとして独立し、さらにそれらStatesを連合して国民国家「アメリカ合衆国」として独立し直すというか、二重の独立を果たすというか、そういう前代未聞の戦いが、どれだけ難儀をきわめたたことか、実際の万分の一にも及ばないにしても、想い描くことくらいはできたような気がします。

 「連合規約」は「独立宣言」とほぼ同時に起草作業に入ったそうですが、13 States全体の承認を得るまでが大変でした。プロセスを見ておきましょう。「独立宣言」(1776.7.4)の直後、起草原案が議会に提出されます。実際の審議入りは翌77年4月です。その後にあれこれの加筆修正があって、同年11月、最終的に承認されました。その規約最終案が13 Statesのもとに持ち帰られ、各邦議会の批准を得て、ようやく「連合規約」発効の運びとなります。それが1781年3月のこと。起草着手から数えて、驚くなかれ5年近い歳月が費やされているのです。(規約発効の遅れの原因は、西部の領土権およびインディアン問題の処理をめぐるステーツ間の利害対立にあったとされますが、立ち入りません)。

 規約の何たるかについては、最初の3条にすべてがあります。いわく。
 第1条、国名を「ユナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカ」とする。第2条、13 Statesは各邦Stateが「主権・自由・独立」を保持する。第3条、合衆国は13 Statesの「強固な友好連盟(リーグ)」「永遠の連合体(ユニオン)」である。
 第1条はNationの規定、第2条はStatesの主権、第3条はNationとStatesの関係を宣言したものですが、「連合規約」のわずか三つの条項を見ただけで、そこから感じざるをえない強烈な印象は、依然として強いStatesの分権志向であり、あえて「強固なリーグ」だとか「永遠のユニオン」だとか、明記せずにはおれないほどの、Nationの “影の薄さ” ではないでしょうか。

 規約の発効をもって「大陸会議」は「連合会議」へと改称されたと言います。しかし、これでは、大陸Colonies(植民地) が大陸States(連邦国家)に変身を遂げたとは言えても、それらStates(邦国家)が一つになってNation(国民国家=ネーション・ステート)を立ち上げたとは言えそうにありません。「連合規約」第1条の規定にある「ユナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカ」というのは、実際には、彼らが夢にまで見た “英連邦” の米国版—— “米連邦”—— だったのではないでしょうか。

 そうは言っても、現実が——つまり政治(立法・行政)・経済(国内市場・税金・貿易)・治安(警察・軍隊)などの現実が、個別邦国家Statesの領域を越えて広がるにつれ、それらの要請に応えて問題の解決を図らざるをえません。具体的には、中央集権的な政府、国内市場の統一、軍事力・警察力など危機対応能力の強化、などの対応が求められたことでありましょう。かくなる上は「単一主権国家=国民国家Nation State」を樹立するしかない——それが、米国史の回答だったのではないでしょうか。

 答案の標題は「合衆国憲法」です。その中身は分けて言うと、次の通りです。① 個別邦国家Statesを解体し、州行政区Statesとして再編する。② したがって、その当然の帰結として、「邦国家連合体=連邦国家United States」(連合規約第1条のUnited States of America)は解体する。③ 代わりに、上記の州行政区Statesを統合する「単一主権国家=国民国家Nation State」を構築する。④「連合規約」のUnited States は各邦Statesが各々「主権・自由・独立」を有する複数主体でしたが、新しい「主権国家=国民国家」のUnited Statesは単一主権であるがゆえに単数として、「一国」として扱う。以上です。

 新しいUnited Statesの、Nationとしての規定がみられるのは、1788年に発効した「合衆国憲法・前文」においてです。リンカーンのかの「演説」によると、
 ①「独立宣言」におけるNationは、大地から頭をもたげて芽を出そうとしている、そういう、いわば考えの段階でした。
 ② そして、「独立宣言」(1776年)ではいまだ芽にすぎなかったNationが、大地に根を張り枝葉を伸ばし “一本の樹” になるんだ、と決意を表明しました。それが、10余年後の「合衆国憲法」(1788年発効)だったのではないでしょうか。③ もしそうだとすると、その樹 that Nationが末永くもち堪えて大きく成長し繁茂してゆくのか、それとも切り倒され潰えてしまうのか——それを問い、厳しく試しているのが、今まさに戦っている「内戦=南北戦争」だということになるのではないでしょうか。Now we are engaged in a great civil war, testing whether that nation can long endure. と述べているのですから。

 さらに結語部分でリンカーンは、this nation, under God, shall have a new birth of freedom. と述べています。ぼく流の理解を次に示します。
 「この内戦においてわが北軍が、おびただしい数の戦死者を出しつつもなんとか勝利したとせんか、この国this nationは、神のもとで、新しい自由freedomの生命を得て必ずや蘇生する(よみがえる)であろう。一本の樹の命が慈雨を得て、その緑を蘇らせるように。」
 この一文は、短いながらthis nation の未来を予言するものだと思います。

 では、この短い文章の肝とも言うべき a new birth of freedom は、いったい何を意味しているのでしょうか。この文章のすぐ後にある government of the people, by the people, for the people の部分が、その答えだとぼくは思っています。

 ぼくとしては、「ゲティスバーグ演説」のテーマがNation にあったのだ、と言いたいがために、ここまで書いてきたのでしたが、ここまで来ると、いまひとつ別のテーマになってしまいます。このことは次回に考えたいと思います。