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安倍流“民主主義”とリンカーン(3) たけもとのぶひろ【第103回】 – 月刊極北

安倍流“民主主義”とリンカーン(3)

たけもとのぶひろ[第103回]
2016年4月20日
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熊本城争戦の図

熊本城争戦の図

 前回の終わりに、安倍首相の、余りにも見苦しいアタマの軽さについて指摘しました。米国議会の会場で彼のスピーチを聴いた米国人は、アメリカ民主主義についての彼の理解をどんな思いで受けとめたでしょうか。
 なんという無知、なんという幼稚、と軽蔑したに違いありません。なんとならば、彼らの民主主義は、彼らの父祖がそれ相応の、血の代償を払って勝ちとった、何にも代え難い宝物であり、誇りなのですから。その、掛け替えのなさに対する日本の首相の無理解は、彼らにしてみれば、自分たちのアメリカそのものに対する軽侮とさえ思えたのかもしれず、ただ笑うしかなかったのではないでしょうか。(彼らは起ちあがって拍手喝采するstanding ovation を繰り返した、との報道がありましたが、ぼくは額面通りに受け取ることはできません。彼らはわが首相のことを嘲笑したのではないでしょうか。)

 しかし、残念なことに、この種の恥ずかしい話は、かの「式辞」の中で「民主的な国造り」などと心にもないことを口走って恥じない安倍首相に限ったことではないし、平成の今に始まったことでもないらしいのです。ここで取り上げるのは、明治新政府が始まったばかりの1871(明治4)年、岩倉具視欧米視察団に副使として随行した伊藤博文の演説です( 彼は幕末の頃からその英語能力を買われて通辞として重宝されていました)。

 視察団がサンフランシスコに上陸するや、当地のグランド・ホテルにおいて伊藤は、後に「日の丸演説」の名で知られるスピーチを行っています。視察団のそもそもの目的は不平等条約改正の予備交渉にありましたから、それなりの大義はあったし、多少の見栄やハッタリがあっても無理からんとは思うのですが、それにしてもここまで言うか、というようなことを彼は喋っています。以下に示します。

「数百年来強固に継続してきた封建制度は、一個の弾丸を放たず、一滴の血を流さないで、一年以内に廃棄させられました。このような驚くべき結果は、政府と国民との協調により成就させられましたが、今やそれぞれ一致して進歩に向った平和的道程を進みつつあります。中世において戦争を経ずして封建制度を打破した国がどこかにあったでしょうか。」

最低限の指摘をします。① 伊藤が演説したときの日本は、そのわずか4か月前に「廃藩置県」を断行したばかりで、国とか政府と言っても実際にはその体をなしていないというか、ほんの形ばかりの、それらしきものが見え隠れしている、実際にはその程度のものだったというのが実状でした。 ② また、国は王政復古・天皇親政を国是としてうたいあげており、存在していたのは臣民 subject であって、国民 nation ではありません。だから、「政府と国民との協調」などというものはありえませんでした。③ 加えて、幕末維新の日本について、まったく「戦争」がなかったわけでもないし、「封建制度を打破した」とまで言い切ってよいかどうかも怪しいところがあります。したがって、「戦争を経ずして封建制度を打破した国がどこかにあったか」との主張は、言葉が過ぎると思います。

 アメリカにしてみれば1871年というと、独立戦争からほとんど1世紀を数え、血みどろの内戦(南北戦争 1861~1865)に決着をつけてからだとほんの数年が経ったばかりです。彼らは文字通り命をかけて戦うことによって、自らの力で「国民」となり、「国民主権の国家」を立ち上げたのでした。それが、どれほどの難事業・大事業であったか-——若き通辞の伊藤博文には想像すらできなかったのではないでしょうか。

 歴史にifはない、と言いますが、if も内容のいかんによっては、歴史の通説ないしは常識を押しのけて、その背後に隠されている真実に迫ることができるのではないでしょうか。少なくともその手掛かりくらいは見つけることができるのではないでしょうか。――たとえ、そのifが荒唐無稽な空想と笑われるようなものであったとしても、です。

 ここで「もしも」と書いて考えたいのは、幕末維新の頃の日本人が、アメリカ人のように、命をかけて国民形成の道を戦いぬき、名だけでなく実をも伴う「国民国家」を立ち上げていたとしたら、伊藤博文のサンフランシスコ・スピーチはもちろん、欧米視察団の派遣それそのものも歴史上存在しなかったであろう、ということです。

 アメリカ人は、10年近くにわたって対英独立戦争(植民地解放闘争)を戦いました。それからおよそ1世紀近く後になって、またしても英国の利権がからむ内戦を戦いました。南北戦争(保護貿易・独自経済圏を主張する北部合衆国軍vs英国自由貿易圏への帰属・北部からの南部独立を主張する南部連合国軍)の名で知られるその戦争は、文字通り壮絶そのものの総力戦・死闘で知られています。
 18世紀・19世紀のアメリカの人たちは、大英帝国に支配される「アメリカ州」という名の属州の地位を否定して、「アメリカ合衆国」という名の「国民国家=主権国家」を建設するために、命をかけたのでした。

 幕末維新当時の日本人は、どうしてアメリカ人のように、戦わなかったのでしょうか。戦うことができなかったのでしょうか。この問いに対する正解は、『山川日本近代史』にある通り、「欧米列強からの外圧」「植民地化に対する危機意識」ということなのでしょう。それはそうなのでしょうが、歴史上の事実の経過は、いったいどういう具合だったのか――そのことを、上掲書の引用ないし整理でもって示します。

 「(幕末維新の)改革の強行はしばしば対立と混乱を生み、流血の動乱を招いた。(中略)
 しかし、それらの内乱(=戊辰戦争・西南戦争)は泥沼の長期戦化することも、外国勢力に介入されることもほとんどなく、比較的すみやかに収拾された。
 そして、その後の政府と自由民権派の対立も、大規模な武力弾圧や革命的騒乱に発展することはなく、さしたる流血なしに双方の妥協と協力により(〜事態は収拾され)立憲政治が実現するにいたった。これは(中略)政府と自由民権派の間の基本的な国家目標の共有によるところが大きかったゆえであろう。」

 たしかに対立と混乱はあったし、流血の動乱もありました。しかし、それらはいずれも、国の全体を巻きこみ、あらゆる階級・階層の人々を呑みこんで、天地を揺るがすまでには至りませんでした。ぼくらの国は、内戦の名に値する内戦をいまだ体験していないのかもしれません。アメリカやフランスの内戦の場合、どれだけの犠牲者を出してきたか、その一端を見ただけでも、ぼくらの国の幕末維新について、ある種の疑問を抱かざるをえません。幕末維新のあの時代は、旧来の秩序などものともしない百鬼夜行の無政府状態が支配するというか、死の恐怖と隣り合わせみたいな感じが何年も続くというか、そういう情勢ではなかったのかもしれない、と。

 やはり『山川日本近代史』から、上記引用文のすぐ後の文章を引用します。アメリカおよびフランスにおける内戦とその犠牲者数を、日本との比較で知ることができます。曰く。
 「ちなみに、日本の明治維新とほぼ同時代に欧米先進国でおこった事例をみれば、アメリカの南北戦争(1861~1865)では、死者約62万人に達し、フランスのパリ・コミューンの内乱(1871, 日本の廃藩置県の年)では、1週間から10日間のパリの市街戦で、ほぼ3万人に及ぶ死者を出したといわれる。日本の場合、ペリー来航から西南戦争(1853~77)
 まで、ほぼ4分の1世紀にわたる幕末・維新の動乱の全過程の死者の総数は、パリ・コミューンの10日間の死者数を上まわることはなかったと思われる。」(注 戊辰戦争の死者数は新政府軍・旧幕府軍あわせて8200余名、西南戦争のそれは西郷軍・明治政府軍あわせて約1万3000名)。

 死者の数だけでも解るでしょう。桁が違います。米仏の内戦からみると、日本のそれは子どもの喧嘩くらいなものだったのかもしれません。しかし、先に見たように、伊藤博文は大見栄を切ります。「一個の弾丸を放たず、一滴の血を流さないで」「封建制度を打破しえた国がどこかにあったでしょうか」と。最小限度の犠牲でもって最大の成果――国民国家の形成――をあげたとする、この種の自画自賛は、伊藤(1871年)に止まらず、今日に至るまで、疑う余地のない歴史評価として支持されています。

 しかし、そのような評価について確信をもって肯定できる人は、いったいどれくらいいるのでしょうか。どうも違うのかもしれない、と心のどこかで疑っているのは、ぼくだけではないような気がするのです。そのことに触れておきたいと思います。

 一歩踏込んだ言い方をします。幕末維新の内戦についてこの国は当初より、最小の損失で最大の成果をあげたかのような印象を与えたいと思ったのでしょうが、実は、得たものよりも失ったもののほうが大きかったのではないでしょうか。大きい小さいという量の問題ではなくて、本当は失ってはいけない決定的なもの、自身の存在の根拠とも言うべきものを、ぼくらはあの時代にすでに失っていたのかもしれない、そんな気がしてなりません。

 旧幕府時代の封建的身分制度を粉砕して、自らを新しい時代の主人たるべき「国民」として形成する。「国民」が名実ともに主人公となって、自分たちの力で「国家」を立ち上げる。それには、何はともあれ「国民」という名の主体・主人公が登場して来なければなりません。「国家」を創るのは「国民」の仕事でなければならない――これが原理原則であって、これ以外に “旨い策” があるわけではありません。

 このように幕末維新というのは、何が何でも封建制を粉砕して国民国家を形成しなければならない、そういう時代でした。それが歴史的課題の解決ということの意味でしたが、ただ、ここで「歴史的課題の解決」とは、それが置かれている国際情勢(国際政治の条件)のもとでの解決を意味したのでした。
 当時の日本は、周知のように「万国対峙」の国際情勢のもと、列強の植民地支配の危機に曝されていました。したがって、ぼくらの課題は、この「外圧」という条件のもとで、上記の歴史的課題を解決しなければならない――そういうことだったと思います。

 「国民」も「国家」も時代のテーマであったけれど、何よりもまず、「外圧」に屈してはならない、列強の植民地になってはならない――いきおいそういう論調が主流となりました。しかし、「外圧」回避が最大最強の大義、「国家」「国民」は二の次――というふうな安直な考えでいくと、つまりは、どういうことになるか、です。
 植民地化の危機を回避するため、という名分――盾・建て前――を持ち出しさえすれば、どんなことでも思惑の通りに実現できる――そういうことになりかねないし、事の成り行きは事実その通りに推移したのでした。

 彼ら、幕末維新の藩閥政治家や後の有司専制勢力など、諸党派・諸勢力にとって、「外圧」は、国内民衆の不満や騒動を押さえ込む際の “殺し文句” として最強でしたし、また、自分たち権力内部の闘争においてもそれは、妥協と協力、時局収拾のための、使い勝手のよい “口実” として利用されてきたのでした。

 以上のように、明治の権力者たちにとって「外圧」は、政治的に “旨味” がありました。だからこそ、一度「外圧の政治利用」の味を知った者はその旨味を忘れることができません。あたかも病魔に取り憑かれでもしたかのように、「外圧」利用へと傾斜します。ただ、こうなると、もはや外圧を利用しているつもりが、逆に外圧に依存しているに過ぎない事態に陥ってしまいます。

 どういうことか。そもそも「外圧」を政治的に利用する主体であったはずの者が、常套手段として「外圧」利用を繰り返すうちに、利用しないではいられない依存状況に陥り、その逆立ちした状況のなかで政治の主体たるべき者の立場を喪失していく――砕いて言うと、そういうことだと思うのですが。

 とまれ、「国民形成=国家建設」は、幕末維新期の日本にとって真っ正面から立ち向かわなければならない最大の目標でした。しかし、それを達成するだけの気概を示すことができませんでした。一見したところ、いかにも「国民」が登場し、「国家」が形成されたかに見えたのですが、それは形だけのことで、中身はアンシャンレジームのままでした。
 にもかかわらず、「国民形成=国家建設」に成功したかのように強弁し、自他を欺いてきました。それは、国家的規模の欺瞞です。明治の劈頭よりこの方、この嘘で押し通してきたのです。

 ぼくら日本人には、明治以来の来し方を振り返って、認識を新たにしなければならないことがあります。失ってはならない大切なものを失い、それを取り返すことができないまま今日まできて、しかもそのことに気づかなかった、という事実認識がそれです。
 早い話、その事実を認めて、歴史に対して正直に立ち向かうところから始めないと、そもそも「国民」にしたって「国家」にしたって、単なる言葉以上のものにはならない、なりようがないと思うのです。

 安倍首相が戦没者追悼記念式典の「式辞」において述べた、「自由で民主的な国造り」などという言葉に、いったいどれだけの中身があるのでしょうか。
 「自由」にせよ「民主」にせよ――歴史はこれらの言葉に、測り知れないほど深い意味をもたせてきたのでしたが、その意味を実現するために人類は、どれだけ重い犠牲を払ってきたことでしょうか。それらのことに思いをめぐらしながら、次回は、安倍首相が褒め称えたアメリカ民主主義の原点をめぐって考えたいと思います。