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安倍首相の8月15日―「全国戦没者追悼式・式辞」(2) たけもとのぶひろ【第99回】– 月刊極北

安倍首相の8月15日―「全国戦没者追悼式・式辞」(2)

たけもとのぶひろ[第99回]
2016年3月1日
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全国戦没者追悼式(武道館)

全国戦没者追悼式(武道館)

 前回に続いて安倍首相の「式辞」です。第3節ですが、論点は二つあると思います。今回の論点を表題として示し、第3節の全文を引用します。

 第3節 安倍首相の「国家・国民」観
 「皆様の子、孫たちは、皆様の祖国を、自由で民主的な国に造り上げ、平和と繁栄を享受しています。それは、皆様の尊い犠牲の上に、その上にのみ、あり得たものだということを、わたくしたちは、片時も忘れません。」

 「全国戦没者追悼式」は国民がこぞって戦没者を追悼する儀式です。儀式の主催者は政府であっても、追悼する主体は国民でなければなりません。ところが、安倍首相の式辞においては、この儀式の主体である「国民」という概念が一回も出て来ないのです。なぜか。

 天皇陛下の「おことば」の場合だと、むしろ「国民」は基本概念――あるいはテーマ――として繰り返し提起されています。短い文章の中で4回です。
 「戦争による荒廃から復興、発展に払われた【国民】のたゆみない努力」
 「平和の存続を切望する【国民】の意識」
 「戦後という、この長い期間における【国民】の尊い歩み」
 「全【国民】と共に〜心からなる追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」

 いずれも「国民」に対する敬意とでも言うべき気持ちをにじませた表現になっています。 「おことば」のなかにこのように「国民」という言葉がくりかえし出てくるのは、陛下が憲法前文の精神――主権は国民に存する、国政の権威は国民に由来する、これは人類普遍の原理である――を本当にご自身のものにしておられるからではないでしょうか。

 他方、安倍首相は「国民」の代わりに何と言っているでしょうか。上記引用文に、「皆様の子、孫たち」「わたくしたち」とあり、後出の第6節では「今を生きる世代・明日を生きる世代」とあります。世代とは、親の代・子の代・孫の代というふうに使って、「それぞれの代」を意味します。これらは、つまり、安倍首相が国民を、あたかも家族共同体の構成メンバーであるかのように見ていることを意味します。国民はいわば「擬制家族」の一員だということです。

 だからこそ、「皆様の子、孫たちの国」=「皆様の祖国」という等式が、なんのためらいもなく、すんなりと出てくるのではないでしょうか。
 人は生まれてくるに際して、親を選ぶことができないように、国を選ぶことはできません。その意味で、国への帰属は親(家)同様、運命的です。先祖代々から受け継がれてきた地縁・血縁のつながり、そのつながりがあってこその自分、というふうに受けとめるとき、祖国とか、(国家ではなくて)国とか、その種の言葉が出てくるのだと思います。

 だとすると、こう言わざるをえません。安倍首相の言う「祖国」や「国」は、日本国憲法に言う「国家」概念とはまったく別のものである、と。同じく、安倍首相お気に入りの「皆様の子、孫たち」「わたくしたち」「今を生きる世代・明日を生きる世代」なんかは、憲法の「国民」概念とはなんの関係もない、と。
 安倍首相はもともと「国家」「国民」という言葉自体が苦手というか、概念として理解できないために、忌避したい気持ちが強いのではないでしょうか。

 我が憲法が前提としている「日本国」「国家」とは、人類史の近代において、旧い共同体の縛りを断ち切って登場する「国民国家」のはずです。そういう歴史を背負った国家のことだとされています。
 また、「日本国民」「国民」とは、一個の独立した人格・個人(*)として自らを立ち上げ、市民として社会を組織し運営する――少なくとも理念としては、そういう「社会的存在」でなければならないと思います。(*注:我が憲法第13条は「すべて国民は、個人として尊重される」と規定しています。自民党草案は同条を「全て国民は、人として尊重される」と改訂しています。「個人」を否定して「人」です。)

 少々脱線気味ですが、安倍「国家・国民」観の理解に役立ててもらうために、ここで自民党の「憲法改正草案」の前文を紹介したいと思います。
我が日本国憲法は、冒頭を「日本国民は」で始めており、ただこのことだけで、国民が憲法の主題であることを宣言しています。自民党改正草案は、冒頭を「日本国は」で始めることによって、この国が最初に国家ありきの国であること、国家あっての国民であることを自ら明かしています。

 この一事をもってするだけで、両者の違いがいかに決定的か、相容れないか、自ずから明らかです。ですが、このことを自民党改正草案「前文」の実際の文章に即して、確かめておきたいと思うのです。彼らの「前文」は五つの段落によって構成されていますが、ここでは最初と三番目と最後の、三つの段落を引用し、最低限のコメントを加えます。

 第1段落「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。」
 • 日本国を「長い歴史」「固有の文化」「象徴天皇」でもって定義しています。
 •「国民主権」「三権分立」は、あたかも統治の付帯条件のごとき扱いです。
 •「日本国は統治される」と言うに止まり、誰が統治するのか、その統治「主体」については明言を避けています。

 第3段落「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。」
 •日本国民は(「国と郷土」「和」「家族や社会全体」などの概念によって表象される)「共同体国家」としての日本を防衛する。守るべきは「国民国家」日本ではありません。
 •「基本的人権を尊重するとともに」は、どこかから持ってきてここに差し入れた挿入句みたいな印象です。論より証拠、この部分を削除した方が文意は通りやすいと思います。
 •ここでもやはり、国家形成の「主体」があいまいです。「日本国民」なのか、「家族や社会全体」なのか。あるいは、「日本国民=家族=社会全体」という等式が、あらかじめ前提されているという、そういうことなのでしょうか。

 最終段落「日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。」
 ①「良き伝統」とは、第1段落の「長い歴史と固有の文化」(=日本国の定義の一部)の言い換えですから、「良き伝統と我々の国家」とは、要するに「日本国」のことです。
 ②したがって、憲法制定の目的ということで言えば、「日本国民が日本国を末永く子孫に継承するため」ということに尽きます。
 ③日本国の、子々孫々に至るまでの継承、国の存続、それ自体が、国民の目的でなければならない、と言っているのです。安倍たちの自民党は、日本国憲法を真っ向から粉砕しようとしています。

 表題として、安倍首相の「国家・国民」観、と掲げましたが、以上において見てきたところから言うと、彼は、「国家」とか「国民」などという、人類がその歴史のなかで産み出してきた高度な概念については、理解できないみたいです。彼のアタマのなかにあるのは、「国民」ではなくて「国の民」なのでしょう。国に従属する臣民、という意味です。
 また「国家」についても、彼のアタマでは無理なのでしょう。無理だから、「国」とか「国と郷土」とかいろいろ言って、ごまかしているのではないでしょうか。

 安倍首相の言わんとすることは、要するに、こういうことです。曰く。日本国の民は、国と郷土を守り、和を尊び、家族や社会の全体で、互いに助け合って、国を形成していく。この良き伝統を守って「わたくしたち」は、この国を末永く子孫に、「親の代」から「子の代」「孫の代」へ、「今を生きる世代」から「明日を生きる世代」へと継承していく、と。

 さきの大戦における戦没者を追悼するという、国家的・国民的儀式において、この程度のことしか言えないなんて、一国の首相の言葉として軽きに過ぎるのではないでしょうか。
 不格好なことに、その軽さは「式辞」の結語においてもむき出しになっているのではないかと、国民の一人として恥ずかしさを感じないわけにいきません。心も理念もなにもない、形だけのことを口先で述べて、終わっているのですから。

 安倍首相の結語(第7節)は以下の通りです。
 「終わりにいま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様には、末永いご健勝をお祈りし、式辞といたします。」
 これでは安倍さんは世界中の笑い者になりますよ。一国の首相たる者が “身内” のことしかアタマにないのか、世界のなかの日本だろうが、と。
 数年前の総選挙の際、安倍さんは我が日本国憲法のことを「みっともない憲法ですよ」と嘲笑したそうですが、そっくりそのままご本人にお返ししたいですよね。「みっともないですよ、あなたは」。

 救いがあるとしたら、今上天皇です。「おことば」の最後を示します。
 「〜全国民と共に、戦陣散り戦禍に倒れた人々に対し、心からなる追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」
 結語の字数について言えば、首相と陛下との間にさほどの違いがありません。しかし、内容は雲泥の差です。首相は無内容ですが、陛下のそれには、そこになくてはならない言葉のすべてが入っています。「全国民」「戦没者」「追悼の意」「世界の平和」「我が国の発展」が、それです。「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である」ご自身の存在の重さを感じさせる「おことば」の終わり方になっているのではないでしょうか。