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今上天皇の祈り(1) たけもとのぶひろ【第95回】– 月刊極北

今上天皇の祈り(1)

たけもとのぶひろ[第95回]
2016年1月27日
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歌会始(2016年1月14日)

歌会始(2016年1月14日)

 このところずっと「明治天皇とその時代」について考えてきたのでした。ご覧のように、議論は未だ道半ばなのですが、今回はその流れをちょっと中断して、「今上天皇の祈り」について考えてみようと思います(もちろん中断は続行の別名ですよね)。

 思い立ったきっかけは、両陛下の「パラオ 慰霊の旅」を記録したテレビ映像です。おふたりは、海に向かって拝礼し、鎮魂の祈りを捧げておられました。その後ろ姿は、測り知れない思いを伝えていて忘れることができません。

 パラオへと「慰霊の旅」に出かけられたのは平成27年の4月でしたが、年が明けての平成28年、慣例の「歌会始」が催され、「人」を「お題」として詠まれた歌の数々が新聞に発表されました。今上天皇がお読みなった歌(これを「御製」と呼ぶのだそうです)は、

「戦いにあまたの人の失せしとふ島緑にて海に横たふ」

というものでした。和歌の素養などまったくないぼくの感じたことは、まるで見当違いのことかもしれず不安ですが、あえて明かしますと次のようなことでした。

 「激戦地となって多くの戦死者を出したというその島は、草木が生い茂って美しい緑となり、目の前の海に静かに横たわっている。その、島の緑を横たえる海の青い静けさが、そこで命を絶たれた人々の何十年もの歳月を思わせる。それを思って深く拝礼する。自分ができることは、ただそれだけなのだ。」
 記憶のなかにしっかりと刻み込まれているおふたりの拝礼のお姿を想いつつ、この歌を詠むと胸に沁みるものがあります。

 ぼくはいま、パラオの海に向かって立つ天皇の思いを書きました。「自分ができることは、ただそれだけなのだ」と。しかし反面、「ただそれだけ」の、そのことというのは、天皇である「自分にしかできない」ことでもあると思うのです。この点について、いま少し立ち入って考えてみましょう。

 天皇は、何十年も前から「慰霊の旅」を続けるなかで、自らに問うてこられたと思うのです。余人をもって代えがたい、天皇という存在である自分、その自分にしかできないこと、それはどういう行為なのか、と。ご自身に向かって発した、その問いには、ご自身が答えるしかありません。
 天皇が深く深く拝礼する「すべての国民と同じ地平に立って拝礼する」、祈る「すべての国民とともに祈る」という、そのことこそが「天皇である自分にしかできない」ことなのではないか――天皇はそう答えておられるのではないでしょうか。

 少し時間が前後しますが、平成27年の12月23日、82歳の誕生日を迎えた天皇の記者会見について考えたいと思います。何よりも驚くのは、この記者会見が早朝の5時に開かれたことです。年末の冬の朝の5時です。厳しい寒さだったと思います。陛下の年齢を考えると、この厳寒早朝の記者会見の設定それ自体が尋常ならざる事態への推移を告げているかに感じられてなりません。今上天皇の発言でとりわけ強い印象をもって受け止めたことが二つあります。一つは、天皇の危機意識についてです。いま一つは、戦争における民間人の犠牲についてです。

 第二次安倍政権以降、安倍内閣は解釈改憲を断行し、前のめりの戦時体制づくりに着手しています。今上天皇は、この国の平和が危機にさらされていることを実感しています。天皇は昨年の年頭、「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」と述べています。
 そして上記誕生日の記者会見においても、まったく同趣旨のことを述べられたのでした。「この1年を振り返ると、様々な面で先の戦争のことを考えて過ごした1年だったように思います。年々戦争を知らない世代が増加していきますが、先の戦争のことを十分に知り、考えを深めていくことが日本の将来にとって極めて大切なことと思います」と。
 年の始めと終わりに同じことを訴えています。「戦争の歴史を十分に学び」「戦争のことを十分に知り、考えを深めていく」ことが大切なんだ、と。機会をとらえては同じことを訴えてきたにもかかわらず、この1年、国民は戦争について、学ばなかったし、知ろうとしなかったし、考えを深めなかった――天皇の目に映っているのはそのような国民の有り様だ、ということです。

 天皇のみならず皇太子も同様の危機感を抱いておられることは、昨年2月23日、55歳の誕生日における記者会見の発言から窺い知ることができます。発言の一部を紹介します。
 「我が国は、戦争の惨禍を経て、戦後、日本国憲法を基礎として築き上げられ、平和と繁栄を享受しています。戦後70年を迎える本年が、日本の発展の礎を築いた人々の労苦に深く思いを致し、平和の尊さを心に刻み、平和への思いを新たにする機会になれば、と思っています。」
 新年の挨拶で天皇陛下も戦争の悲惨さや憲法の大切さを強調していましたが、まさにその通りだと私も思います。安倍政権になってから特に「戦争を繰り返してはいけない」という言葉を言い続けていますが、それだけ天皇家から見ても安倍政権の動きは異常なのでしょう。

 82歳の誕生日の記者会見において天皇が訴えられたことの、いま一つは、戦争における民間人の犠牲についてです。差し迫った危機感からでしょうか、戦争になれば犠牲になるのは兵隊だけではない、民間人も犠牲になる、決して他人事ではない、過去の歴史に学んで、自分のこととして考えなければいけない、と諭しておられるかに聞こえます。
 具体的な実例として天皇は、「戦没殉職船員慰霊碑」(神奈川県横須賀市)について語られたのでした。犠牲になった船員は6万人を越え、その3割が20歳未満の少年だったといいます。彼らは軍に徴用され、民間船でもって物資の輸送や監視業務にあたったが、「制空権がなく、輸送船を守るべき軍艦などもない状況下でも輸送業務に携わらなければならなかった船員の気持ちを本当に痛ましく思います」と述べる、その最後のくだりになったとき、天皇は溢れる思いに声を震わせられた――と、報道はそのように伝えています。

 「戦没殉職船員慰霊碑」が建立され、その前で追悼式が行われたのは、1971年の5月のことだそうですから、半世紀ほども昔の話です。今上天皇・皇后は、皇太子・皇太子妃だった頃から、この慰霊碑に詣で、目の前の海を、あるいはじっと見つめ、あるいは彼方まで見渡し、「永遠の海の平和を祈念して」こられたそうです。まるで「歴史を掘り起こすかのように」続けられてきた、おふたりの慰霊碑参詣は、7回とも8回とも。上述の誕生日記者会見でも、「6月に、亡くなった船員のことを思い供花した」と語っておられます。

 両陛下のこれら慰霊の行為は、国民と同じ地平に立って、すべての国民とともに、との願いから発して行われています。そうしないではおれないものが、両陛下をつき動かしているのでありましょう。
 天皇に即位されてからの天皇は、戦後50年の沖縄・長崎・広島、60年のサイパン、70年のパラオと、節目をとらえて国の内外に「慰霊の旅」を続けて来られました。

パラオ訪問(15年4月9日)

パラオ訪問(15年4月9日)

 しかし近年は、節目はもちろんですが、その前後でも「慰霊の旅」に出かけておられます。昨年のパラオ訪問の前年には沖縄・広島・長崎を訪ね、節目を越えた今年はフィリピンへと向かわれました。
今上天皇の話をするということは、日本の今現在を考えることです。これで終わりというわけにいきません。今上天皇の危機意識について、もう少し続けて考えてみたいと思います。