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天皇について(39) 御誓文第五条、西洋文明の受容(続)―鹿鳴館の場合(1) たけもとのぶひろ【第91回】– 月刊極北

天皇について(39)

たけもとのぶひろ[第91回]
2015年12月31日
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鹿鳴館に集う淑女(ビゴー画)

鹿鳴館に集う淑女(ビゴー画)

■御誓文第五条、西洋文明の受容(続)―鹿鳴館の場合(1)

 とまれ、鹿鳴館とその時代がスタートしたわけです。ここでもう一度、伊藤博文や井上馨なんかが鹿鳴館を発想したときの原点みたいなものを振り返っておきたいと思います。それは簡単に言えば、以下のようなことだったと思うのです。
 “海の彼方の西欧の都会で今現在建っているものと同じかそれ以上に豪華な洋館を建ててみせようではないか。西欧の人たちにそこへ来てもらって、食事をしたりダンスに興じたり、まるで母国にいるかのように楽しんでもらうことができるとしたらどうだろう。彼ら西欧人は、日本の文明開化が彼らの西欧文明と比肩しうる水準にまで達した、と認めてくれるのではないだろうか”というようなノリだったのでは。

 すでに触れたように、英国建築士ジョサイア・コンドルの設計による鹿鳴館が完成して、明治16年(1883)11月28日には、開館式の祝宴を催すことができました。国を挙げてのバックアップが効を奏したのでしょう、翌17年も半ばを過ぎる頃からは、毎週のように舞踏会や夜会が開かれるようになり、鹿鳴館は次第に高揚した熱気に包まれていきました。そして1887年1月22日、東京電燈会社はこの国最初の電燈を鹿鳴館に灯しました。文明開化の象徴と目されていた建物に、花を添える演出だったのでしょう。

 それからほんの3か月後の同年4月20日、総理官邸で仮装舞踏会が開かれました。呼びかけたのはもちろん、時の総理であり官邸の主であったところの伊藤博文以外ではありますまい。伊藤博文・梅子夫妻の主催です。ところが、世を憂う識者からはこれを強く指弾する声が上がります。たとえば、勝海舟は憂国の批判書「時弊21箇条の建白書」なるものを著します。するとどうでしょう、形勢不利と見たか、伊藤は言い逃れ試みます。アレは実は英国公使夫妻の主催だったのであり、自分はただ官邸を貸しただけだ、と。
 しかし、そんなことはどうでもよいのです。鹿鳴館の下品な風俗とその浮薄かつ淫猥な気分によって、一国の総理官邸が―一時的にせよ―占拠されたという、この事実は実に象徴的です。当時の日本という国の、文明とか文化というものがどの程度のものであったか、この事実以上に雄弁に物語っているものはないのではないでしょうか。

 以上の日本人の話はさておきます。肝心なのは西欧人の話です。西欧人は鹿鳴館を、そして鹿鳴館の日本及び日本人をどのように見たでしょうか。キーンさんの『明治天皇』(三)に名前があがっている二人、ジョルジュ・ビゴーとピエール・ロティについてみます。

 まず、フランス人風刺画家ジョルジュ・ビゴー(1860~1927)です。パリ・コミューン(1871年3月~5月)のときはまだ11歳の少年でしたが、その成立から崩壞までの一部始終をスケッチしたと伝えられています。絵の心得があったということです。18歳のときパリ万国博覧会で浮世絵に出会い、興味を抱いたのがきっかけで1881年、21歳のときに渡航を決意し、来日します。やがて日本は鹿鳴館時代に入りますが、彼は鹿鳴館的なものに対しては終始批判的でした。むしろ、中江兆民のところでフランス語の教鞭をとったり、居留フランス人向けの風刺漫画雑誌『トバエ』を創刊して表現活動に励むなど、日本に真面目に関わってくれたのでした(日本人の女性と結婚もしましたし)。

 さて、そのビゴーの風刺画は、『ビゴーが見た日本人――諷刺画に描かれた明治』(清水勲著 講談社学術文庫出版)で見ることができます。「紳士と淑女が社交界にお目見え」「鹿鳴館での舞踏会のあいまの淑女の様子」「いくら装っても下はふんどし姿」などがあります。これらのスケッチに描かれている日本人は、男も女もみんな醜いし汚いです。これほどではないだろうと思うのですが、とにかく美しくない、好感の持ちようがない、嫌悪あるのみ、という描きっぷりです。これはしかし “鹿鳴館的日本人” の容姿であって、伝統的な日本人らしい日本人のそれではありません。彼が揶揄し批判したのは、当時の日本政府の皮相な欧化主義であって、日本古来の日本人らしい日本ならではの文化については尊敬と共感を感じてくれていたと言います。

 実際に描いた絵はどういう絵だったのか? 上記三作品のうち最初の作品「紳士と淑女が社交界にお目見え」についてだけ、少しみておきましょう。

紳士と淑女が社交界にお目見え(ビゴー画)

紳士と淑女が社交界にお目見え(ビゴー画)

 全身をうつす大形の鏡「姿見」の前に、男女のカップルが立っています。女性は、髪を増量して糊で固め高く盛りあげ、そこへ鳥の羽をアクセントに立てています。スカートの裾の広がりを、手にした一本の傘が強調しています。相手の男性は、出っ歯の口に八の字の口髭がクルンと舞っています。立派な上衣に、タイトなズボン、手には礼装用のシルクハットが描かれています。鏡の前でポーズをとっている男女は、いかにもカネのかかった立派な風采なのですが、見た目の印象は下品の一語に尽きます。
 それよりもなによりも驚くのは、鏡に映った二人です。鏡のなかの二人はまともに映っていません。映っているのは、首から上だけ、顔だけです。下は形さえ描いてなくて、斜線です。さらに驚いたことに、その顔というのも、人間男女の顔ではありません。猿の顔がふたつある、それだけです。

 この絵には、タイトルとは別に「なまいきな猿真似」というキャプションがあるそうです。これはキャプションですが、ビゴーは、絵の中にも「名磨行」という漢字を書いています(なお、鹿鳴館での舞踏会のあいまの淑女の様子を風刺したスケッチの中にも、同じ漢字が書き込まれています)。絵のなかの位置だけからすると、その文字は、ちょうど画家が絵を完成させたとき最後に捺す落款の位置と目されるところに書いてあるのです。その上漢字としては意味不明ですから、なんの気なしに見過してしまうかもしれません。
 しかし、「名磨行」は「生意気」の当て字に違いありません。ただ、ビゴーとしては、それをそのまま書いたのでは芸がないと思ってのことかどうか、悪戯心もあって、ほんとうの字を隠したのではないでしょうか。以上は、ぼくの勝手な推論というか謎解きみたいなものです。ですが、もしこれが当りだとすると、ビゴーは鹿鳴館的日本(日本の鹿鳴館政府)を「なまいき」と「猿真似」の二つの言葉で認識していたことになります。

 となると、この二つの言葉の正確な定義を見ておく必要があるでしょう。例によって『新明解国語辞典』で調べましょう。
 なまいき(生意気):「それだけの存在でもないのに、一人前の言動をして偉ぶること」
 猿真似:「(猿が人の動作の真似をする意)他人の言動についてその本質的意味をよく理解せず、むやみに真似をすること。無批判な、うわべだけの真似。」

 ビゴーの言わんとするところは、おおよそ次のようなことだったのではないでしょうか。すなわち―鹿鳴館的日本人は、人間以前の猿が人間の真似をして、これ見よがしに見せつけ、威張っているようなものだ。鹿鳴館はちょっと見には西欧文明に似ており、あたかも西欧文明であるかのようであるが、本質的なことは何も理解しておらず、また理解しようともしていない以上、単なる物真似の域を出ていない。にもかかわらず、西欧文明の水準をクリアしたかのように、いい気になっている。美しくない。日本人は日本人であることを忘れてしまったのではないか、等々。

 西欧人が鹿鳴館をどのように見たか、ビゴーとロティについて紹介するつもりでしたが、後者のロティについては、回を改めることにします。