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天皇について(38) 御誓文第五条、西洋文明の受容—鹿鳴館の場合(正) たけもとのぶひろ【第90回】– 月刊極北

天皇について(38)

たけもとのぶひろ[第90回]
2015年12月21日
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鹿鳴館

鹿鳴館

■御誓文第五条、西洋文明の受容——鹿鳴館の場合(正)
 「西洋文明の受容」を「皇基の振起」につなげていかなければならい、というのが御誓文第五条でした。その ”広告塔” としての「天皇」については見たところですが、引き続き「鹿鳴館」を例にあげて見てゆきたいと思います。

 「鹿鳴館」に関する教科書的知識を整理しておきます。
 •明治12(1879)年9月10日、参議兼工部卿から転じて外務卿に就任した井上馨は、直ちに条約改正(治外法権の撤廃)の方針を掲げます。 ②おそらくその時点で鹿鳴館的施設の建設構想はできていて、水面下ではすでに構想実現へ向けての動きが始まっていたものと思われます。翌明治13(1880)年には、英建築家ジョサイア・コンドルが設計し、かつ着工しているのですから。 ③鹿鳴館建設の目的意識を簡単に言えば、新しく洋式建築を建てて、外国の賓客を迎え・もてなすことによって、彼らに日本の文明開化の進展ぶりを “見てもらい” 、日本人の文化水準が西欧並みにレベルアップしたことを “認めてもらう” ことだったと思います。 ④別言すれば、日本人は西欧の行儀作法に精通し、西欧人との友好関係を深め、野蛮人から文明人に変身し、欧米人に追いついてきた、そのことを認めさせるということです。優位に立つ西欧文明の水準にまで追いついてきたのだから、「西欧人優越=日本人不信」の象徴とも言うべき「治外法権」は撤廃されて然るべきだ、というのが井上馨の言い分だったのでしょう。

 上記の目的に資するべく用意された舞台・鹿鳴館の総工費は18万円――外務省の建物一つが4万円で建てられた時代に、なんとその4倍半の金をかけたことになります。いわゆる欧化政策の “広告塔” である以上は、欧米の風俗・習慣・生活様式を採り入れて欧米人賓客の歓心を買うことが肝心であり、そのための施設――バーやビリアードや舞踏会場、それと宿泊施設なんか――にもお金をかける必要があったのでしょう。

 その舞台でくり広げられる芝居はどんな具合だったでしょうか。観客席があったとして、目に入ってくるのはどのような事物でしょうか。食事の場面では、フランス語のメニューがあり、西欧風の食事マナーがあり、です。舞踏会の場面では、ロンドンから取り寄せた紳士用夜会服があり、パリ仕立ての淑女用衣裳があり、陸海軍軍楽隊の演奏する最新のヨーロッパ・メロディーがあり、その旋律に合わせて踊るカドリール・ワルツ・ポルカ・マズルカ・ギャロップのダンス――当時の「踏舞」――があります。もちろん華麗なるダンス・マナー付きです。外国から派遣されて来日している使臣群、欧米の紳士淑女の皆さんは直ぐに目に入ってきますが、むしろ彼ら以上に目立つのは、歓迎する日本側の政府高官や華族たちの身なりや立居振舞だった、と伝えられています。

 鹿鳴館というのは、種も仕掛けもなくて、突然、天から降ってきたものでもありませんし、地から湧いて出たものでもありません。あらかじめ全体の仕組みを構想し、あれこれの策を講じることなしに、これほどの大がかりな国家的事業が着手・実行できるはずがありません。1882年3月憲法調査の目的で欧州へと派遣されていた伊藤博文は、翌1883年8月、遣欧憲法調査団の旅から帰国しています。伊藤の帰国を待っていたかのようにして鹿鳴館は落成し、同1883年11月28日、開館式とその祝典が開かれます。容れ物ができたからには、具体的な中身の心配をしなければなりません。さてどうするか、です。
(なお、この開館式祝典の日は、施主であり外務卿である井上馨の誕生日だそうです。これが偶然の一致であったのか、それを意識して狙ったものなのか――そもそもソレを疑われるのが、井上馨という政治家なのでしょう)。

 芝居「鹿鳴館」の舞台は、原作も脚本も演出も、結局は伊藤博文と井上馨の二人でやったのでしょう。おそらくはメインが伊藤博文でサブが井上薫というコンビネーションだったのではないでしょうか。彼ら二人は「鹿鳴館」を面白い芝居にして盛り上げていく目的で、大きな仕掛けを二つ、ちょっとした道具立てみたいなものを一つ、思いつきます。もう舞台はできあがっているのですから、急がなければなりません。年が明けて明治17(1884)年になると矢継ぎ早です。 ①5月14日、東京倶楽部開設(鹿鳴館の一室を拠点に) ②7月7日、華族令公布(五爵制定) ③10月以降、踏舞練習会定例開催(毎週日曜夜)。順に見てゆきます。

 【東京倶楽部】は、会員制社交クラブの日本における草分けだそうです。会員は「立派な紳士であること」が条件だそうですから、具体的には旧華族や皇族のほかは政界・財界・官界の大物に限られたのでありましょう。日本のこの特権的身分の者どもが西欧の高位高官・紳士淑女を接待し、ともに遊興する必要がある、ということの、そもそもの言い出しっぺはだれなのか、という点からその概要を見ておきます。 
 •事の始まりは英国駐日大使ハリー・パークスだと言われています。パークスが時のビクトリア女王に宛てた書簡のなかで「日本は紳士が集う社交クラブもない野蛮国ですよ」といった意味のことを書いて送った。 ②明治天皇がこの「日本=野蛮国」情報をどこからか聞きつける。 ③天皇は内務卿伊藤博文に命じて英国の会員制社交クラブ関係の情報を集めさせる。 ④さらに天皇は、外務卿井上馨に命じて、英国類似のクラブ・東京倶楽部を設立させる。 ⑤井上馨は、設立した東京クラブの拠点を鹿鳴館の一室に置く。 ⑥東京倶楽部は明治天皇から数万円(皇室御内帑金)を受けとっている。(なお、設立当初の倶楽部会員数は75名です)。

 上記②③④はあまりに不自然です。書簡情報を入手して天皇に吹き込み、そのあとの実務は井上にあたらせる、という “絵を描いた” のは伊藤ではないでしょうか。あるいは、伊藤と井上の ”合作” かもしれません。合作を疑われる根拠は十分にあります。伊藤と井上は同じ旧長州藩士であるだけでなく、1863年から翌年にかけておよそ半年ほどですが、”長州五傑” のメンバーとして渡英・ロンドン留学をはたしており、二人は帰国後も長州に帰ってともに藩外国応接係の任に就いています。
 それだけではありません。明治6(1873)年、尾去澤銅山汚職事件の責任を問われ辞職した井上は、下野の後も伊藤の周旋でなにかと場面を作ってもらっていましたが、明治9年6月には妻子を連れて米・英・独・仏などを外遊。旅先のロンドンで伊藤から日本の政情不安の報せ(西南戦争・木戸の死・大久保暗殺など)を受け、明治11(1878)年急遽帰国。大久保暗殺直後から権力を握っていた伊藤のもとで参議兼工部卿に就任。翌12年外務卿に転任して、鹿鳴館に取り組むことになります。そういう流れです。
 「鹿鳴館」は言うに及ばず、のちの「明治14年の政変」においても、「内閣制度確立=第一次伊藤内閣組閣」においても、井上馨が伊藤博文の盟友として中心的な役割を果したことは誰しも認めるところです。

 であるとすれば、パークスの手紙は作り話かもしれません。いずれにせよ小さなエピソードにすぎません。仕込みも仕切りも伊藤=井上の仕事だと、ぼくは思います。
 迷惑なのは天皇です。これも伝聞ですが、天皇は西洋的なハイカラ趣味が大嫌いで、鹿鳴館など行きたくもなかったそうです(おそらく行幸はなかったと思います)。伊藤=井上としては、これでは困ります。鹿鳴館には当時としては天文学的な18万円を投じており、文字通り国家的事業なわけです。ワシは嫌いや、ということでは済まされません。騙してでも引きずり込まなければ。引きずり込むだけでなく、お墨付きももらわなければならないし。できたら天皇の金庫からカネも出させたいし。
 ということで、上記①②③④⑤の筋書きのもとに、東京倶楽部という日本初の社交クラブを誕生させます。東京クラブは、したがって、鹿鳴館を支える戦略拠点であり、またいわゆる欧化政策の推進母体だった、ということです。

 いま一つの仕掛けは【華族令公布】(明治17年7月7日)です。
 華族には二つあります。明治2(1869)年の版籍奉還によって、旧大名(諸候)はもはや大名ではなくなるのですから、身分的地位を失います。そこで、明治新政府は知恵を使います。まず、皇族よりも下位で・士族よりも上位に新しい地位を設け、その地位の族名を華族とします。次に、この華族という新しい身分の中に旧大名を位置づけるとともに、かつての公家もこの範畴の中に入れてしまいます。つまり、明治初期の特権身分は、皇族と華族のみでした。鹿鳴館がない時代はこれでよかったのでしょう。

 しかし、外国人紳士淑女を迎える鹿鳴館ができ、その運営戦略を構築する東京倶楽部ができて、賓客を接待する日本側主人の立場からものを考えなければならないとなると、上記の皇族と華族のみではとてもとても接待などできるものではありません。日本人迎賓スタッフも用意しなければならないでしょうし、日本人のお客さんにしてからが開発してかからなければなりません。早い話、日本初の社交クラブを支える人口――いわば鹿鳴館人口とでも言うべき人たちを作ってゆかねばならない。そういうことでしょう。
 そこで考えたのが、特権的身分の階層とその所属人数を増加させるための「華族令」の発令でした。従来は一つだった華族身分を、五つの段階――爵位という――に分けて考えます。すなわち、族名としては華族なのですが、手っ取り早く言えば、華族という名の一つの身分に代わって、五つの身分ができるようなものです。公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵、という5段階の爵位を設けるということは、特権をともなう社会的身分を五つ増やすことを意味します。特権的身分の人間たちはどこからもってくるのでしょうか。補給源は、維新の功臣あり、実業家あり、です。
 つまり、東京倶楽部に次ぐ二番目の仕掛けは、いわゆる鹿鳴館人口の増加策としての華族令の公布だった、ということです。

 最後に、鹿鳴館を成功させるための「ちょっとした道具立て」みたいなものについて一言します。先に触れたように、明治17(1884)年10月以降の毎週日曜日夜、鹿鳴館において踏舞――ダンスのこと――練習会が開催されました。上流階級たる者、踏舞の技術は社交上必要な嗜みであると喧伝されるものですから、貴顕の夫人令嬢は鹿鳴館の踏舞練習会に通わずにはおれないのでした。踏舞を教えたのは、東京在住の外国人だったと言います。

 余談を少し。鹿鳴館という容れ物は1940年に解体されてしまいますが、その中の一室に拠点のあった東京倶楽部は、いまなお一般社団法人として東京の一等地に巨大な不動産ビルを所有し、健在です。平成26(2014)年に創立130年を迎えたという、そのホームページをみて気になった点を挙げておきます。 ①戦後復興期の倶楽部メンバーとして、吉田茂、芦田均、白洲次郎、向井忠晴、グル駐日米国大使の名があります。 ②「当倶楽部は歴代の名誉総裁に宮殿下を戴き、現在の名誉総裁は常陸宮正仁親王殿下です。会員定数は600名です。」 ③最後に倶楽部の活動です。ぼくが注目したのは、国際日祝賀会(天皇誕生日祝賀会、英国女王誕生日祝賀会、米国独立記念日祝賀会)と、最高級外国クラブとの提携・相互利用協定(ロンドン、パリ、ニューヨーク、香港、シドニーなど世界15カ国26外国クラブ)、との二つです。
 権力者・上流階級は彼らのみの「排他的な」社交グループを組織し、ワールドワイドな組織活動を展開しているのだなという、当たり前の事実を改めて思い知らされたのでした。