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天皇について(35) 御誓文第五条、西洋文明の受容(正) たけもとのぶひろ【第87回】– 月刊極北

天皇について(35)

たけもとのぶひろ[第87回]
2015年12月9日
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ドナルド・キーン(1922~)

ドナルド・キーン(1922~)

■御誓文第五条、西洋文明の受容(正)
 五箇条御誓文の第五条に「智識ヲ世界ニ求メ 大ニ皇基ヲ振起スへシ」とあります。前半に「世界」とあって、後半では「皇基」という言葉が出てきます。常識では前と後が問題なくつながることになっていますが、この文章はよくよく考えると解らなくなる、妙なところがあるような気がしませんか。

 解りにくいのは後半です。「皇基」とか「振起」と言われても、いまひとつぴんと来ません。そこでヘンな話ですが、D・キーンさんの英語訳を見てみることにしました。彼の解釈は以下の通りです。Knowledge shall be sought throughout the world so as to be strengthen the foundations of imperial rule.
 キーンさんの解釈によると、「皇基」とは the foundations of imperial rule ですから「天皇の統治基盤」ということでしょうか。「振起ス」は strengthen との解釈ですから、単に「強化する」でよいと思います。

 以上を踏まえると、キーン英訳の御誓文第五条はこうなります。そのまま直訳すると、「天皇の統治基盤を強化するように、知識を世界に求めるべきだと思う」となりますし、思い切って英語の流れのまま日本語にすると、「知識を世界に求め、よってもって天皇の統治基盤を強化すべきだと思う」となります。いいずれにしても、「世界の知識」が手段で、「天皇の統治基盤の強化」が目的です。この手段をもってすれば、この目的を達成することができる、当たり前ではないか、と誰もがそう信じていて、疑うことをしません。なぜか。無意識のうちに頭の中で補助線を引いているからです。  

 補助線とは、清末の思想家・魏源の大著『海国図志』(1843〜1852年、最終的に100巻)にある戦略命題です。命題に曰く、「夷の長技を師とし以て夷を制す」と。西欧の先進技術を学ぶことによって西欧の侵略を制圧・抑止することができるし、しなければならない、という考えです。ここで「夷の長技」というのは、狭義には軍事技術(戦艦・火器・養兵練兵)を指し、より広い意味では、富国強兵の技術一般(陸海軍事技術・殖産興業技術)を指すとされています。万国対峙・列強圧迫下の日本の幕末にあって志士たちの多くが、この魏源の『海国図志』に活路を見出したと言われています。名の知られた志士・思想家では、佐久間象山、吉田松陰、橋本左内、横井小楠などがあり、前二者は洋務派、後二者は変法派とされていますが、ここでは立ち入りません。
 とまれ、魏源の戦得略命題が補助線として時代の背景にあって、そこから当たり前のことのようにして、第五条が出てきているということではないでしょうか。

 魏源流に言うと、夷から学んだ夷の長技(世界の知識)でもって夷を制することによって、「皇基=天皇の統治基盤」を強化することができることになるわけですが、そんなふうにこちらの思惑通りにすんなり事が運ぶものでしょうか。
 この問いの答えは、明治以後のこの国の歴史を見れば、自ずから明らかだと思うのです。ですが、ぼくらの多くはそのことになかなか気がつきませんでした。というか、そのことは言っても詮無いこととして、ある意味で封印してきた、敢えて問わないこととしてきた——ということなのかもしれません。
 実は西洋文明の受容を決断して踏み出す、その最初の一歩を、我知らず踏み間違えていたのではないでしょうか。そのことにハッと気づかせてくれたのは、D・キーンさんの『明治天皇(一)』の次のくだりでした。

 「「智識」を広く世界に求めることを謳った最後の条文(=第五条)は、復古の基本概念と矛盾するのではないかとさえ思われる。復古とは本来、日本以外の国々を手本にすることではなくて、日本の往時を省みてそこに拠り所を求めることだったはずである。」
 御誓文および宸翰は、天皇が天神地祇を祀り、その神前で王政復古の誓いを述べ、天皇親政の理念を五項目にわたって宣言したものでした。王政復古の目的は「天皇親政の理念」の実現であり、そしてその実現は「天皇の統治基盤」の強化なくして考えることはできません。これが、御誓文全体の目的であり、個別的には第五条の目的でもあるわけです。
 御誓文の論理構造がこうだとすると、西欧文明(世界の知識)の受容は、あくまでも目的実現のための手段にとどまらねばなりません。

 ところが、ここで奇妙なことに、無意識のすり替え・あるいはソレと知ったうえでのすり替えが起ってしまいます。目的と手段とがすり替わるのです。すなわち、もともと手段であったものが自己目的化する——目的になり代わる。そして、もともと目的であったものが、その、いわば “新たに作為された” 目的のための手段になる、つまり、表向きの言い訳ないし名目として使われる。知識を世界に求めること自体が目的となるとき、求めるその知識が「皇基の振起」に資することができるか否か、にわかには判じ難いのではないでしょうか。

 本来の目的から離れて、手段が独走します。もともと手段でしかなかった “目的” は、何処へ向かって何処を走っているのか、わかりません。ほんとうは単なる手段に過ぎないのですから、わかるはずがありません。
 手段の自己目的化の実態は、明治以来、この国の近代史において、いつどこででも見ることができます。歴史の事実に即してみておきたいと思います。キーンさんの『明治天皇』(二)(三)の叙述からぼくなりに学んだところを引用して示します。

 「智識ヲ世界ニ求メ」西洋文明から学ぶためには、それだけの学力を持った人材を育てなければなりません。どのような学校を作って、どのように教育すればよいのか——教育に関する制度設計が必要です。明治新政府は明治5年、教育に関する布告を出し「学制」を定めます。「学制」立ち上げの衝に当たった起草委員は、「すでにフランスの教育制度について研究書を書くか、フランスの教育制度そのものを翻訳していた」人たちだったそうです。つまり、フランス語ができてフランスの教育制度についてなにがしかのことを知っている学者・研究者にすぎない人間たちに、制度づくりが任されたわけです。任せた方も任せた方ですし、その任を引き受けた方も引き受けた方です。フランス学者たちにやれること、そして事実やったことは、フランスの教育制度をそのまま日本に持ってきて当てはめること、これ以上でも以下でもありませんでした。

 キーンさんは「注釈」をつけて、この「学制」計画の骨格を紹介しています。「計画によれば、全国を8つの大学区に分け、各大学区を32の中学区に分け、各中学区を210の小学区に分けた。計5万3760の小学区が全国に設置される計画で、人口600に対して小学校が1校の割合だった」と。
 フランスはフランスの流儀でやればよいでしょう。しかし、ここは日本です。中央集権的・画一的な組織をつくり均一的な教育を全国展開するという、このやり方が明治の日本で通用するでしょうか。いまだ近代の「キ」の字も始まっていない明治5年の時点で、近代的組織づくりを全国展開しようなんて。できるわけがありません。だいいち、均一的教育と言ったって、いったい何を教えるのでしょうか。
 フランス専門の学者先生は、そこまではわからないと言ったかどうか、実際の「教科の中身は、ギド・フルベッキ等の米国人の影響下でアメリカの教科を模範とした」そうです。場当たり的というか、継ぎ接ぎ細工というか。

 とまれ、フランスはダメだとなったのでしょう。と政府は、フランスがダメでも、アメリカがあるさ、と言わんばかりに、教育事情視察目的で文部官僚をアメリカに派遣し、その帰国報告を受けて、直ちにフランス式からアメリカ式の地方分権的教育制度へと転換しています。その間、日本の事情に即してこの国の教育のあるべき姿を議論した形跡など、まるでありません。日本の教育制度を構築するというのに、肝心のこの国の教育の来し方・行く末はおろか、今現在どういう教育がおこなわれているかその現実さえ、一顧だにされていません。いわんや、「皇基の振起」など、そんな話があったのか、聞いたこともない、みたいな有り様です。

 天皇は地方巡幸の先々で自ら進んで学校を訪問し、「米国式教育」なるものの実状を視察しています。その名のもとにどういうことが行われていたか、それを身をもって体験した天皇はどんな思いであったか——そういうことを詳細にレポートしたキーンさんの文章があるので、それを以下に示します。
 (なお、引用文中の「弘前東奥義塾」は、前身が旧弘前藩の藩校・稽古館で、明治5年11月、弘前漢英学校として開学(のちに弘前東奥義塾と改名)します。外国人教師を雇い、アメリカの教科書を使用し、塾出身者をアメリカに留学させるなど、「米国式教育」でその名を知られていたようです)。

 「過去の学問を重んじる天皇の信念にも拘らず、新しい教育は西洋志向になりがちだった。
 例えば明治9年(1876)7月15日、天皇は青森の小学校を訪問した。弘前東奥義塾の英語学生徒10名が英語で文章を綴り、それを演説した。次に挙げるのは、その時の英語の文章ないしは演説の題目の一部である。
  「演説 ハンニバル士卒ヲ励スノ弁」
  「文題 青森へ御着輦ヲ祝スル文」頌歌
  「演説 アンドル、ジャクソン氏合衆国上院ニテノ演説」
  「文題 開化進歩」頌歌
  「演説 シセロ、カテリンヲ詰ル(攻める)弁」
  「文題 教育」頌歌
 予定されていた課業がすべて終わらぬ内に、天皇の退出の刻限が来た。退出の際、生徒たちは英語で頌歌を唱えた。天皇は生徒一人一人に金5円を与えた。ウェブスター中辞典を買う代金としてだった。しかし天皇は、極端に西洋を重視する傾向を喜ばなかった。それは、生徒たちの演説の主題の選び方にも表れていた。
 (中略)日本人である生徒が、日本の伝統に無知なままハンニバルやアンドリュー・ジャクソンについて器用に英語で演説するのを聞き、天皇は明らかに不機嫌になっていた。」

 智識を世界に求めるとは、実際にはこういうことだったのでしょう。しかし、こんな安直なやり方で、世界の知識を求めることなど、できるわけがありません。世界からほんとうに学びたいのなら、最初に「世界の知識」ありき、という姿勢から正してかからなければならないではない、ということのはずです。自分がどこにいるかを知ろうともしない人間が、どうやって世界から学ぶことができるでしょうか。
 第五条の読み方として言うならば、「皇基」を考えるところから「世界の智識」に向かうのが筋道なのでしょう。