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天皇について(33) 御誓文第四条、儀式の思想 たけもとのぶひろ【第85回】– 月刊極北

天皇について(33)

たけもとのぶひろ[第85回]
2015年11月18日
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天照大神

天照大神

■御誓文第四条、儀式の思想
 「御誓文発布」や「即位の礼」などの「儀式」では、そもそも、どういうことが行なわれたのでしょうか。なによりもまず、神様を祀るための、さぞかし立派な祭壇が設けられたことでしょう。お供物もそなえられたでしょうし、楽曲も奏でられたりして、会場全体が厳かな雰囲気に包まれたことでしょう。神々が現前する、その霊的空間に、この国の主だった人びとが寄り集まってきます。少年天皇に率いられる形をとっているのは、この儀式の主人公が天皇だったからです。
 あらかじめ決められた段取りにしたがい、式は進行してゆきます。参集した人びとは、物腰も慎み深く、畏まり、恐れ入り、ただひたすら神霊に対する尊崇と畏怖の念を一身に現し、天皇とこの国の未来のために、あるいは誓言し、あるいは祈念し、ただひたすらご加護をお願いする、といった風だったのではないでしょうか。

 神々を祀る儀式は、その時その場においてしか成立しない、一回限りの集まりです。その一回限りの、一時的な集まりを、あえて “ひとときの儀式共同体” と名づけるとしましょう。その共同体の成員たちについて見るに、彼らはその場に馴染むにつれて、何の次に何がきて、何をどうすればどうなるか、といった物事の筋道というか、事の次第というか、事情というか、そういったことが自ずとわかってくるみたいです。そして神々を祀る儀式共同体の人びとの間には、共通の理解めいたものが生まれ、儀式全体がいかにもそれらしい恰好となり、そこここになにかしら秩序というか、一つのまとまりというか、そういうものさえ感じられてきます。

 神々の儀式を執り行う、その儀式に参加し、その儀式を共有する——そのことの内容が、具体的には以上のことを含意するとしたら、神々を祀る、その “神的儀式共同体” とでもいうべき関係は、互いのあいだに共同性・一体性・相互性の意識をも産み出さずにはおかないということでしょう。
 そしてこの “神的儀式共同体” の中心ないし頂点に「天下万民の天皇」を据えること——それこそが「御誓文第四条」にいう「天地の公道ニ基クへシ」の言わんとするところではないでしょうか。

 こうした儀式についてどう考えればよいのか、その大筋のところは—-天照大神の昔から、あるいは卑弥呼の時代から、今日に至るまで、歴代の天皇によって終始変わることなく受け継がれてきた、そう考えられているのではないでしょうか。天皇家のいちばん大事な儀式について述べたくだりがD・キーンの前掲書にありますので、次に示します。
 「天皇が行なう最も重要な儀式は神道の儀式であり、新年は常に「四方拝」で始まった。元旦寅の刻(午前4時前後)、天皇は属星(ぞくしょう、自分の運命を支配する星)と天地四方の神々、父母の山稜に向かって遥拝し、五穀の豊饒、宝祚(天皇の位、皇位)の長久、国家国民の安寧を祈った。いわばこれは此の世での恩恵を祈願したもので、神道の現世的な世界観に則ったものである。」

 キーンの叙述によると、天皇にとって最重要の儀式は、新年元旦寅の刻に始まる「四方拝」の儀式であり、その儀式における天皇の礼拝祈願の内容は二点あると言います。ひとつは、天地四方の山稜を遥かに遠望し、父母列聖の神霊に向かって新年の礼拝を捧げることです。
 いまひとつは、彼ら神霊の霊力を恃んで、天下億兆の平和と繁栄、億兆赤子の安寧と幸福のための御加護を祈願することです。したがって天皇の元旦四方拝の儀式とは、国家共同体の現世利益のためを思っての、皇室先祖の神々への御加護祈願であるわけです。ただ、この場合、天皇先祖の神々のなかの神、皇室の祖神は天照大神ですから、天皇が遥拝する究極の神様は天照大神だということになります。

 では、天照大神が皇室(天皇)の祖神であるとは、いったいどういうことを意味しているのでしょうか。それを知るには、太陽神の存在についての知識が前提になります。
 話は神話の世界です。そこでは超自然的な呪力・マナの存在が信じられています。地上最大のマナを有しているのが太陽です。太陽は、自然における超自然的力・マナの象徴として、神として崇められています。その太陽神を地上遥か彼方から拝み、巫女として仕え、そうして太陽神の最大のマナを授かっているのが天照大神だとされています。
 その天照大神を遥拝し、立てて祀って巫女として仕えることにより、太陽神伝授の最大のマナをもらい受けるのが天皇だということです。もらい受けたそのマナを、国家共同体の現世利益——平和・繁栄・安寧・幸福——のために、どうか役立たせてください、と祖神に御加護を祈念するのが天皇だということです。

 となると、天皇は地上最大のマナを体現する存在ですから、人間にして人間に非ざる半ば神的存在ということになります(現人神であるとかないとか、の前のリクツの上の話としてですが)。もちろんこれらは神話の話です。古代天皇制を立ち上げた人びとは、自分たちの立ち上げた天皇による支配体制を秩序として安定たらしめるために、神話を必要としました。が、同時に、神話の現実へ転換装置をも用意しなければ、画竜点睛を欠くの誹りを免れなかったのではないでしょうか。転換装置という「睛」を欠いた「竜」は、神話の世界から人間の現実世界へと降りてくることができないのですから。
 その “竜の睛” に当たる「転換装置」、それが「儀式」です。天皇を主体とする「儀式」は、不断に「神的儀式共同体」を形成し、支配の体制に秩序の安定をもたらすことができるであろう——倒幕維新の活動家たちは、そう信じていたのではないでしょうか。彼らが「王政復古」を唱えて創ろうとしていた「天皇の国」とは、そういう「神的儀式共同体」国家のことだったのではないでしょうか。

 「神的儀式共同体」国家について、その共同性・同一性・相互性を考えるときは、あわせて「祖先崇拝」の伝統ということにも目を向けておく必要があるのかもしれません。最後に、ちょっとそのことをつけ加えておきます。
 「祖先崇拝」とは、「家族・同族・民族などの祖先の霊を信仰対象として崇拝すること」と辞書にあります。天皇家でも億兆万民でも、その点に違いはありません。と、いったんは書きましたが、本当は天皇家の先祖と億兆万民の先祖とでは、まるで違います。まったく別物のようです。
 しかし、億兆万民は自分たちの先祖を見るように、重ねて、天皇家の先祖を見ているかのようです。
 億兆万民のなかには、万世一系絶えることのない天皇家の系譜に思いをいたし、それにひきかえて自分たちの先祖をかえりみるとき、天皇家の血のつながりは人間業ではないと、畏敬の念を抱くむきもあるやに聞きます。加えて、天皇が「祖神天照大神に仕える天皇」であることについても、身近な感情を抱いているのかもしれません。天皇が天照大神に仕えるように、億兆人民も天皇を神と仰いで仕えるのだ、とまでは思っていないでしょうが。

 以上、要するに、御誓文第四条で「天地ノ公道ニ基クへシ」と誓言したばあいの、「基(もとい)」をなすものは、天皇による「神的儀式共同体」の秩序形成であるとともに、億兆万民の祖先崇拝の伝統でもある、と言ってよいのではないでしょうか。
 したがってまた、同じことを繰り返すことになりますが、「天地の公道に基づく」とは、「祭政一致=天皇親政」の時代へと回帰すること、王政復古の事業を成し遂げること、「億兆の君」と「天皇の赤子」とのあるべき関係をとりもどすこと、を意味するのだと思います。