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「アベ」をバカにするのが、「反・反知性主義」の実践だと思っている人たち 仲正昌樹【第26回】 – 月刊極北

「アベ」をバカにするのが、「反・反知性主義」の実践だと思っている人たち

仲正昌樹
[第26回]
2015年11月4日
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【新刊のご案内】
寛容と正義2015年11月10日発売 『寛容と正義』仲正昌樹
(本体価格1600円+税)

 イラク戦争で鮮明になった敵/味方二元論の限界と無力。かかる〝正義〟の独善性を衝いた『正義と不自由』から10年――。奇しくも本著は益々混迷を深めるその後の中東情勢と〝正義〟の行方を暗示する予言の書となった。『寛容と正義』は旧版『正義と不自由』に著者書き下し「歴史と正義」を新たに加えた新装改訂版である。

buyamazon [2]

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 安保法制をめぐる政治的闘争は一段落した感じだが、反安保派の中には、相変わらず、安倍政権を“反知性主義”と呼んで罵倒している連中がいる。本屋でも、依然として、「反知性主義」をタイトルやオビの文句にした本を見かける。安保法案に問題があると考える人が、政権の考え方を批判するのは当然だし、私も現政権を積極的に支持するつもりはない――この極北の連載で何度か言及したように、一部財界人や文科省の役人の適当な思い付きを政策として推進しようとしている現政権の安易さにはかなり腹が立っているが、政権を批判しているつもりの連中がそれ以上に愚かしいことを言うのが多いので、うんざりしている。政府を批判すること自体はいいのだが、何でもかんでも“反知性主義”というレッテルを貼って“批判”したつもりになるのは、自分の方こそバカだと証明しているようなものである。大学で政治思想史を教えている私としては、この手の安易な“批判”の蔓延は気になるところである。レッテル貼りによる罵倒を「批判」だと勘違いする学生が増えると、政治思想史の発展の意義をちゃんと教えることが難しくなる。反安保の“反・反知性主義”のどういうところがおかしいか、何点かにわけて指摘しておこう。
 第一に、「反知性主義」という概念の濫用ということがある。「反知性主義」という言葉を文字通りに取れば、「知性」に反対したり、危険視したりする思想・主義主張ということであろう。そういう立場を鮮明にした思想や運動の例は、歴史的に確かに存在する。アメリカの場合、知識が増すことによって救いから遠ざかる危険があることや、健全な人間は書物からの知識によって認識によってではなく、実地経験から形成されることを説いた説教師の活動がそれに当たるとされている。近年では、大学のアカデミズムにおける(リベラル系)教授たちの悪影響を糾弾するデイヴィッド・ホロウィッツ等の言説が、反知性主義の例と見なされているようである。もっと極端な形態として、文革時代の中国や、ポルポト政権時代のカンボジアでの知識人に対する迫害を挙げることができる。日本の現代史だと、国体明徴運動に呼応して、美濃部達吉や津田左右吉等の自由主義的な知識人に対する糾弾を主導した蓑田胸喜がその代表格と見なされている。
 過剰な知識や論理、(現行の)大学教育一般の有害性を説き、社会を“知性”から救うための“改革”運動を推進する人たちを、「反知性主義者」と呼ぶのであれば、妥当である。しかし、日本の著名の保守論客のほとんどは、左翼・リベラル系の知識人の大学・学校教育やメディアでの悪影響の拡大を糾弾しても、知識を身に付けること自体が有害だとは主張していない。彼らの多くも大学で学び、大学や研究機関、メディアで活動する知識人であり、そのことを自覚しているからである。彼らは、誤った知識を持っている左翼知識人がアカデミズムやメディアを牛耳っていることを問題視し、自分たちが左翼に代わって“正しい知識”を伝える地位を占めればいい、と思っている。その意味で、反知性主義ではない。大学の学位を持っていたり、メディアに専門家として登場する知識人一般を嫌悪するような発言するのは、下品なハンドルネームを使って、ブログやツイッター、2ちゃんねるなどの掲示板で罵詈雑言を書きつらねているような連中である。
 反安保運動に関わっている左派の中には、そうした一部の匿名のネットウヨクの――知識人に対するルサンチマンに満ちた――言動と、保守系論客のそれとが“似ている”という印象に基づいて、後者も「反知性主義」扱いしようとする人たちがいるが、これは不当な拡大解釈である。“似ている”のは、反リベラル・反サヨクの態度であって、「知性」それ自体への反感を共有しているわけではない。自らも知識人でありながら、反知性主義的な発言をしたがる保守論客もいるかもしれないが、それはごく少数だろう。自民党などの保守政治家や財界人の中に、東大を始めとする有名大学の文系学部における(彼らから見て)左翼な学者の言動をことあるごとに批判したがる人もいるが、彼らも、自分たちのお気に入りの学者の言動は支持するし、“金になりそうな”(主として理系の)学問は推進しようとする。「ウヨクのクズ思想や金儲けの学問にしか関心がないのは、反知性主義だ!」、と言いたい人もいるだろうが、それでは、「反知性主義」という概念を拡張しすぎである。自分のきらいな考え方や態度を、十羽ひとからげに「愚か」と決めつけ、それを支持もしくは容認することを「反知性主義」とレッテル貼りする態度こそ、「反知性的」だろう。少なくとも、「知性」の前提となる、開かれた討論の余地を認めていない。こういうことを言うと、「自分と違う意見の人と議論するつもりがないのはウヨクの方だ。おまえは中立性を装って、ウヨクの味方をしている!」、とサヨク――私がカタカナで「サヨク」と呼ぶのは、どこかで聞いたようなステレオタイプな反応しかできないのに、自分では知的だと思っているアホのことである――の人たちがお決まりの“反応”をしそうだが、それは論点ずらしである。ウヨクだろうとサヨクだろうと、自分の気に入らない考え方は愚かだと最初から決めつけ、“批判”と称して相手をただただ罵倒し続けるのは、「知性」を軽んずる態度である。
 今回の反安保運動では、憲法調査会での三人の著名な憲法学者(早大の現役教授二人と慶応の名誉教授)の違憲発言がクローズアップされた。朝日新聞や東京新聞が、安保法制に関する憲法学者アンケートを実施し、その結果、かなり多くの憲法学者が違憲だと思っていることが明らかになった。それに勢いづいた反安保派の一部は、憲法学の専門家たちの意見を無視する現政権は、反知性主義だと断じるようになった。これも、「反知性主義」という言葉の濫用だし、私に言わせると、安易にこのような発言ができるメンタリティこそ危険である。現政権が、憲法学者たちの見解に従おうとしなかったのは、彼らなりの考え方に基づいて、安保法制は憲法解釈上問題ないという結論を出しているからである。安保法案の骨格を作った与党の幹部には法律家が含まれていたし、関連する省庁のスタッフも法律の素人ではない。彼らが、憲法学者たちの批判に真正面から答えようとしなかったという批判であれば、私もその通りだと思うが、別に与党や中央省庁の官僚が、憲法学有害説のようなものを流布しようとしたわけではない――保守系の雑誌でそれらしいことを言っていた保守論客はいたが、それを現政権の代弁と見なすのは、安易な決めつけだろう。政権与党や保守派は、安保法制を支持する少数派の憲法学者の意見は尊重するのだから、憲法学無用説を掲げているわけではなかろう。
 東大・早稲田・慶応などの超有名教授や判例百選に執筆している司法試験でおなじみの学者たちが違憲だと言っているからといって、それに従うというのは、反・反知性主義ではなく、権威主義である。権威主義というのは、自分で考えないで、誰か偉い人の言葉に盲従することであるから、表面的には反知性主義と対立しているようで、実は相互補完関係にある。考えることは人格的にすぐれた権威に任せて、下々は余計なことは考えずに、その権威の言いつけを身をもって実践すればいい、というような形でコラボすることができる。言うまでもないが、内閣や国会の決定が違憲かどうかについて、法的効力のある決定を出す権限は、憲法学者にはない。
 権威主義ではなく、憲法学者たちの意見に賛成だから、引き合いに出しているというのであれば、学者たちがどういう“専門家ならではの緻密な論理”によって安保法制を違憲だと判断したのか、自分でちゃんと理解したうえで説明する必要がある。しかし、憲法学者アンケートを行ったマスコミも、その結果を金科玉条のように引き合いに出す“左派論客”たちも、彼らの考え方のどこに専門家ならではの緻密さがあるのか示そうとしない。「現在の自衛隊でも違憲か合憲かぎりぎりなのに、日本の領土の外での、米軍と合同での自衛権行使はアウトでしょ!」、という程度の判断であれば、わざわざ専門家の意見を聴くまでもない。その程度の発言をするのに、いちいち専門家にご託宣に頼らなければならない人間は、かなり知的レベルが低いと言わざるを得ない。今回の安保法制以前の法制でも、日本の領土の外で自衛権が行使される可能性はあったし、日米安保条約の存在自体が集団的自衛権の行使と見ることもできる。アンケートで違憲と答えた憲法学者の多くは、自衛隊の存在自体が違憲と考えているようだが、反対派のマスコミや“左派論客”たちは、そのことをどう評価したうえで、安保法案は違憲だという彼らの見解を参照していたのか? 立憲主義を無視した安保法制は、安倍政権によるクーデターだと主張する憲法学者もいたが、彼を持ち上げていた人たちは、「クーデター」という言葉の意味をちゃんと理解しているのだろうか?
 因みに、現在民法改正が論議されているし、何年か前に商法が大幅に改正されたが、マスコミがその分野の法学者アンアンケートを行ったという話は聞いたことがない。臓器移植法とか、民法の家族法の部分など、各人の生き方に関わる法律に関しても、その手のアンケートが行われ、その結果が大々的に取り上げられることはなかった。PKO法案が審議された時も、憲法学者のアンケートなどなかった。どうして今回に限って、憲法学者のアンケートに特別な意味が付与されたのか? そういう肝心なことを曖昧にしたまま、アンケートの結果だけ強調するのは、何も考えていない証拠だろう。
 そもそも、「その道の専門家の圧倒的多数がダメだというのだから、ダメな法案に決まっている!」、というような物言いは、反安保・反権力・プロ民主主義――この場合の「プロ」はラテン語に由来する〈pro-〉という意味なので、無教養で慌て者のサヨク・ウヨクは早とちりしないように――の人たちの基本的スタンスと整合性があるのか? 東大・京大・一橋・早稲田の経済学の教授の大多数が、マルクス主義やネグリの帝国論のようなものは研究する価値がないとか、グローバルな再配分的正義など幻想だとか、規制緩和を更に進めるべきだ、日本の場合消費税は北欧より高い税率にする必要がある、老人福祉の予算は削減すべきだ…というような見解で一致したら、受け入れるのか? 教育心理学や教育社会学の研究者の間で、学力別クラス編成を推進すべきだ、というような意見が主流になったら、ごもっともです、と納得するのだろうか? その領域の学者の多数が賛成すれば、絶対に正しい法案・政策であるというお墨付きを得たことになるというのであれば、あらゆる政党や運動団体はできるだけ多くの学者を取り込み、自分たちの息のかかった学者を学界的に出世させるべく様々な工作を展開するようになるだろう。そういう競争が本格化すれば、学問は政治の道具になり下がり、有力者の支持を得て、有名大学の教授ポストを取ったものが、学問における勝利者であるというような、おぞましいことになるだろう。 
 そうした権威主義の危険についてどう思うか改めて尋ねたら、安保反対派の中の比較的冷静な人は恐らく、「学者の見解の動向は付随的なことでしかない。肝心なのは、憲法に関わる重要な問題で、国民の多数が納得していない法案を強引に成立させるのは、民主主義に反しているということだ」、と答えるだろう。しかし、そう確信しているのなら、どういう専門知的な意義があるのかよく分からないのに、安易に憲法学者のアンケートの話など持ち出すべきではなかろう。無論、世論の多数が「今国会での成立に反対」だからといって、政府のやり取り方は反民主主義的だと断じることはできない。代議制民主主義の原則に即して考えれば、一度政権を獲得した与党は、次の選挙までの間、国民の代表として国の基本的な政策を決定する権限を与えられている。その決定が、彼らを選んだ国民のもともとの意志とあまりにもかい離していたら、次の選挙で敗北し、決定は覆される。与党もそのリスクは織り込み済みで行動しているはずである。民主主義を軽視しているとは言い切れない――この点は、「反知性主義」とは直接関係ないので、これ以上深入りしないでおこう。
 反安保派の“反知性主義批判”の言説で最も稚拙だったのは、安倍首相を始めとする政権幹部が無知であり、憲法についても安保についてもちゃんと理解しているはずはないと決めつけ、彼らの発言や振る舞いをいちいちバカにするパターンのものである。安保法案と関係のない過去の言動とか経歴をバカにするものがかなり目立った。安保法案に本気で反対しているのであれば、安倍首相個人の教養とか学歴とか英語の発音とかは関係ないだろう。そういうことに妙に拘るサヨクを見ていると、こいつらは、権力者をバカにして憂さを晴らしたいだけではないのかと思えてくる。仮に安倍首相の頭がかなり悪くて、教科書的な基本知識を欠いているとしても、それと反知性主義は関係ないだろう。
 民主党のクイズ議員は、安倍首相に、芦部、高橋、佐藤などの(メジャーな憲法学者の)名前を知っているかと質問し、「ぞんじあげません」、という答えを引き出して得意になっていたが、彼や彼にのっかって騒いでいた連中は、こんな受験のための暗記クイズのようなものが楽しいのだろうか? 首相よりも自分たちの方が賢いという優越感に浸りたいだけではないのか? 政治家は憲法についてよく勉強するにこしたことはないが、法学者ではないので、個々の憲法学者の学説や、教科書の書き方まで知っておく必要はない。芦部、高橋、佐藤の三人は戦後の代表的な憲法学者なので、法学部の学生なら授業で聞いて名前ぐらい知っている可能性は高いが、学者か法律家志望のまじめな学生でない限り、三人の学説の特徴まできちんと把握していないだろう。名前だけ知っていてもほとんど意味はない――自分は名前しか知らないくせに、得意になって安倍首相をバカにしていた幼稚な輩が結構いた。そもそも安保法制が違憲かどうか論じるのに、芦部、高橋、佐藤の三人の学説を知ることが不可欠なのだろうか? もし不可欠だとすると、大学で憲法の授業を取ったことのない国民の大多数は、安保法制と憲法の関係について論じる資格はないことになる。法案を提出している主体である首相や閣僚、与党議員は、自分たちの提案していることの理論的・歴史的背景をちゃんと把握すべく努力する必要はあるが、自衛隊や日米安保条約と憲法の関係についてのこれまでの国会での論議と関連する主要な判決について大筋で理解し、それらに対する自分なりの見方を示すことができれば十分だろう。芦部・高橋の憲法の教科書を熟読しないと、首相として法案を提出する資格がないとは考えられない。本気でそう思っている人がいるとしたら、どうしてそういうことになるのか、ちゃんと論証すべきである。
 更に言えば、「アベの譬えによる説明は下手すぎて理解できない。自分でも理解できていない出鱈目な理屈を語っているからに違いない」、というようなことをツブヤイている連中が結構いたが、そういう連中に限って、安保法案で改正されるのはどの法律のどの部分か、集団的自衛権はその内のどれに関係するのか、存立危機事態と重要影響事態はどういう関係にあるのか、集団的自衛権という概念は歴史的にどのように成立し発展してきたのか、ホルムズ海峡で想定される武力行使というのはどういうことか、個別的自衛権で自衛隊はどこまでの行動が可能か……といった基本的なことについて理解していない。そういう肝心なことを知らないまま、「集団的自衛権行使容認は立憲主義の破壊だ。憲法学者の多くがそう断言している」という世間で流布している言説を真に受け、「安倍の反知性主義によって九条が骨抜きにされ、日本は戦争する国になりつつある!」、と叫んでいた連中があまりにも多い。法案について基本的なことを知らない、知ろうともしない人間に対して、理解できるように説明することは、どんな説明の名人でも不可能である。大学で教えていると、自分から学ぼうとせず、授業中は別のことを考えたり、ぼうっとしたりしているくせに、「俺が理解できないのは、仲正がダメだからだ」、などとツブヤキたがる、ふてぶてしい“学生”に出くわし、腹が立つことがしばしばあるが、反安保の連中の「俺たちに安保法案の趣旨が分からないのはアベのせい」という態度には、それと同じものを感じる。
 もう一つ、少しばかり教師らしいことを言っておこう。「アベはバカだから、国会で質問されてもまともに答えられない」と言って溜飲を下げている連中は、そういう台詞を口にする前に、自分がその「アベ」と同じことができるかどうか確かめるべきである。安倍首相は少なくとも、国会審議の中継やテレビ番組に出演した際の受け答えを見る限り、多少不正確な言い回しがあったとしても、一応様になる答弁をしていた。官僚などからレクチャーを受け、暗記して、役割を演じているだけかもしれないが、少なくとも数時間は持ち堪えることができるようだ。教師や研究者として人前で話しをすることが多い私の経験からすると、あれだけの時間、安保法制のような複雑な問題に関して与えられた役割を演じ続けるのは、それほど簡単なことではない。「アベはバカだ」、と叫んでいる人たちで、それと同じ程度の暗記力・演技力を発揮できる人はあまりいないのではないかと思う。安保法案の中身についてちゃんと理解して、覚えるつもりがなければ、できるわけがない。こういうことを言うと、サヨク連中は恐らく、「アベや役人の幼稚な理屈など覚える必要がない」、と怒るだろうが、それに対しては、「そういうことは、その幼稚な理屈をちゃんと学習してから言え! おまえたちはそれを批判しているんだろう。幼稚な理屈なら簡単にコピーできるはずだろ!」、と言っておきたい。そんな態度だと、マルクス主義を知らないままマルクス主義を“批判”し、ロールズの名前さえ聞いたことさえないくせに、アメリカのリベラリルな政治哲学には中身がない、などと戯言を言っているバカなウヨクを笑う資格はない。自分にとって気に食わない奴の思想は、きちんと理解する価値などなく、適当に罵倒しておけばいい、というような安易な姿勢こそ、「知性」にとって最も有害である。
 よく意味が分からないまま、「反知性主義が日本を席巻している!」「反知性主義の罠が広がっている!」「反知性主義のアベを打倒せよ!」といった呪文を唱える人たちが集結して大合唱する様は、さながら、平成サヨク合戦である。


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