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天皇について(31) 御誓文第三条、朕の統治 たけもとのぶひろ【第83回】– 月刊極北

天皇について(31)

たけもとのぶひろ[第83回]
2015年11月1日
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天皇の赤子として戦場へ

天皇の赤子として戦場へ

■御誓文第三条、朕の統治
 第三条「官武一途庶民ニ至ル迄 各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス」を考えます。このうち「官武一途庶民ニ至ル迄」については前回、第二条の「上下心ヲ一ニシテ」の部分を考察するときに、いっしょに考えました。朝廷と諸候——官武・公武――はもとより庶民に至るまでの「億兆」の一致団結、ということが前提ですよ、と福岡案が主張し、木戸がこれを良しとして採用したのでしょう。以上は前回の復習です。
 その前置きの後に続く本文部分が今回のテーマです。この部分についても、福岡案と木戸案は一致しています。ただ由利案のみは、両者と趣を異にします。まずこの点を見ておきましょう。

 由利案のこの条は、「庶民志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシムルヲ欲ス」となっており、由利公正はこの条文を五箇条のトップ、第一条に位置づけていたとされています。彼としては、この条文がいちばん主張したかった点だったに違いありません。
 ぼくなりの口語訳を示します。「庶民はおのれの理想を実現し志を遂げてほしいものだ、そしておのれの人生が嫌になったり飽き飽きしたり、そういうことのないようにしてほしいものだ」――こんな感じでよいのではないでしょうか。
 (念のために語句の解釈を記しておきます。もちろん「庶民」が主語です。「志」とは「庶民その人その人の志」です。「人心」とは「人の心」、ただし正確には「其の心」としたほうがベターだと思います。しかし、「庶民」に「志」とは似合わない、違和感を覚えます。「個人」なら「志」の有る無しを問うことができると思いますが。)

 由利公正は、ほかならぬ「五箇条の御誓文」の冒頭条文であるからこそ「治国の要道」を唱道したい――そう考えたのでしょう。このことは、由利自身の言葉で語られています。曰く、「庶民をして各志を遂げ人心をして倦まざらしむべしとは、治国の要道であって、古今東西の善政は悉くこの一言に帰着するのである。みよ、立憲政じゃというても、あるいは名君の仁政じゃといっても、要はこれに他ならぬのである」と(『英雄観』)。

 ところが、御誓文の条文は由利の統治論(=「治国の要道」論)を斥けました。主語を、「庶民」から「官武一途庶民ニ至ル迄」(=億兆)へと変えることで何が起ったか。「古今東西の善政」「名君の仁政」という統治の一般論が、明治新政府の天皇親政の議論へと一変したのでした。福岡が提案し、木戸が採用した、この主語の転換は、しかし、御誓文が新政府による統治理念の宣言であった点を考慮すると、避けることのできない必然だったのではないか、そんな気がしてなりません。

 では、福岡提案・木戸採用の第三条のうち冒頭を除いた本文、「各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス」の部分を考えることにしましょう。
 ここでは語句の意味をみることから始めます。まず、主語は庶民ではなくて、「官武一途庶民ニ至ル迄各(人)」です。官武(朝廷と諸候)から庶民に至る迄、ということになると、これは全国民のことです。当時の木戸たちの言葉では「億兆」を意味します。「各」は億兆の一人一人のことであり、「其志」とは「億兆の一人としての志」です。この時代「億兆の一人」と言えば、これはもう「天皇の赤子」以外のものではありません。となると、「其の志を遂げる」とは、「億兆の一人として天皇の赤子たらんとする志を遂げる」いうことになります。最後に、ここで「億兆」という次元で語っているということは「天下国家」の話をしているわけですから、「人心」とは、「人心をつかむ」「人心を失う」「人心が離れる」などと言うばあいの「人心」でなければなりません。すなわち、「民衆の心」「億兆の心」です。

 以上の語句解釈を前提にしたばあい、第三条全文の意味は、たとえば以下のようになるのではないでしょうか。
 「朝廷・諸候から庶民に至る迄、億兆を構成する各々は、億兆の一人として天皇の赤子たらんとする志を遂げる必要があると思います。また天皇としては、億兆の民衆に嫌気されて人心を失うなどということがないようにしなければならないと思います。」
 ただ、ぼくのように解釈するには、御誓文第三条の文章がほんとうは以下のように書かれている必要があるとは思うのですが。すなわち、「官武一途庶民ニ至ル迄(億兆ハ)各其志ヲ遂ケ(ル事ヲ要ス)(又朕ハ)人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス」と。

 しかし、御誓文はこのようには書いてくれていません。御誓文第三条本文は、これまでみてきたように、非常に曖昧です。意味不明で、表現の意図をはかりかねるところがあります。これはもう、御誓文の制作事情(三人の起草者による合作)が原因しているのであろう、と言うしかありません。「人心」を「人びとの心」「人びとの希望」などとする解釈が出てくるのをみると、御誓文は道徳の説教なのか、と言いたくなります。たとえば、よくあるのは「志を遂げ、人々の心を飽きさせない事が必要だ」という解釈です。

 同じ無理解でも、それが「明治神宮」の解釈となると、ぼくですら、なんたる体たらくと歎かざるをえません。該当部分を以下に紹介します。
 「文官や武官はいうまでもなく一般の国民も、それぞれ自分の職責を果たし、各自の志すところを達成できるように、人々の希望を失わせないことが肝要です。」
 再論はしません。ただ、「職責」とはなぁ、とちょっと情けない気がします。外国人のドナルド・キーンでさえ、まだしも「其志ヲ遂ケ」の含意をよくとらえている、と思いました。
 もちろん彼の解釈は、全体としては外れているのですが。彼の解釈はこうです。
 The common people, no less than the civic and military officials, shall each be
 allowed to pursue his own calling so that there may be no discontent.
(ぼくが注目したのは「calling=神のお召し」の一点です)。

 以上、要するに、起草者たち――少なくとも福岡と木戸――は、天皇親政の本質を唱道したのであって、御誓文第三条をできるだけやわらげて民主的に解釈しようとする今日の流れは “為にするもの” だと思います。
 このように、天皇親政か民主的天皇か、を問題とするばあい、前述の「宸翰」(草案作成者=木戸)における「天下億兆一人も其所を得ざるときは、皆朕が罪なれば」の部分が参考になると思います。つまり、「其所」とはどの所なのか、ということです。

 この部分を民主的に善解する人は、おおよそ次のように解していると思います。すなわち、「億兆・全国民のなかで一人でも、自分にふさわしい然るべき所(位置・境遇)を得ることができない人がいるとしたら、それはすべて自分(朕)の罪であるのだから」といったふうに。しかしここに言う「所」とは、果して、その人その人に固有の・その人「個人」の占めるべき「所」を意味しているのでしょうか。「個人」という思想を、彼らが自らのものにしていたなんて、ぼくには想像することさえできかねます。
 そうではなくて「所」とは、早い話、億兆の一人として占めるべき所、「億兆の赤子としての位置」のことを言っているのではないですか。

 ここで、上記文章をその前後を含むひとかたまりの文章の中に置いて読んでみます。「宸翰」の次のくだりです。
 「斯かる形勢にて何を以て天下に君臨せんや。今般朝政一新の時にあたりて天下億兆一人も其所を得ざるときは、皆朕が罪なれば、今日の事朕躬ら身骨を労し、(中略)治績を勤めてこそ、始めて天職を奉じて億兆の君たる所に背かざるべし。」
 とくに、上記引用文の冒頭部分に注目したいと思います。「このような形勢にあるとき、どのようにして天下に臨み、どのようにして億兆の統治をしていけばよいのであろうか、今まさに朝政一新の時を迎えているのだが」とある、このくだりです。ここで「このような形勢」と言っているのは、何の・どのような形勢のことでしょうか。

 言うまでもありません。天皇・朝廷と億兆との間柄がどうなっているか、その形勢、のことを言っているのです。天皇——ということは木戸草案ということですが——の見るところは、上記引用文のすぐ前の文章に示されています。下に示します。
 「窃(ひそか)に考えるに 中葉朝政衰てより武家権を専らにし 表は朝廷を推尊して 実は敬して是を遠け【億兆の父母として絶て赤子の情を知ること能はざるやふ計りなし 遂に億兆の君たるも唯名のみに成り果て其が為に今日(中略)朝威は倍(ます)ます衰へ 上下相離るること霄壌(しょうじょう、天と地)の如し】」とあって、このあと先の引用文「かかる形勢にて何を以て天下に君臨せんや(うんぬん)」と続くのです。

 とくに注目してほしいのは【】の部分です。これを読めば、天皇(木戸)が、天皇・朝廷と億兆民衆の「形勢」をどのように考えていたか、だれの目にも明らかでしょう。彼らのこの現状認識を前提したうえで、「宸翰」の言いたい事をぼくなりにまとめてみます。
 ――天皇と億兆は、ともに本来あるべき其の所を得ていない。その関係はただ名ばかりの関係になってしまっている。ならば、天皇も億兆も、本来あるべき其の所に立ち帰るべきだと思う。天皇の立ち帰るべき其の所とは「億兆の父母」という位置であり、億兆の立ち帰るべき其の所とは「天皇の赤子」という位置である。この二つにして一つの其の所を互いに自身のものにすることができたとき、朕は「億兆の君」という本来あるべき位置にふさわしい、本当の天皇になることができるのだと思う。

 これ以上書くと、屋上屋を架することになりかねません。簡単にまとめて終わりにします。①「御誓文」と「宸翰」はほとんど同時に発表されており、ともに木戸孝允の思想に拠るものと考えてよい。②「其志」(御誓文)と「其所」(宸翰)とは、互いに通底し重なりあう概念である。③両概念はともに、個々に独立した「個人」の志ないし所を認めるものでなく、「天皇の赤子」としての志ないし所をまっとうすることを求めるものと考えるべきである。④したがって、「御誓文」第三条・「宸翰」を根拠に民主的な天皇像を主張する試みは、それらが「本来唱道している天皇親政の思想」を隠蔽するものである。

 自分たちの利益を図って歴史を書き直す――その種の恥ずべき行為は許されません。


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2015年10月21日
天皇について(30) 御誓文第二条、新政府の「経綸」 [2]