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天皇について(30) 御誓文第二条、新政府の「経綸」 たけもとのぶひろ【第82回】– 月刊極北

天皇について(30)

たけもとのぶひろ[第82回]

殖産興業を目指して富岡製糸場は1872年創業を開始した

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■御誓文第二条、新政府の「経綸」
 「上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フへシ」を考えます。ちなみに、由利案は「士民心ヲ一ニシ盛ニ経綸ヲ行フヲ要ス」です。福岡案は木戸決定稿と同じです。第二条を二つに分け、最初に後半の「盛ニ経綸ヲ行フへシ」から検討します。まず、国語の意味として「経綸」とは何か、ということです。狭くは「経済」「財政」の意味で使われてもいたそうですが、ここではもうすこし広く「国家の基本政策」ないしは「国家目標」というふうに理解したほうが、起草者たちの気持ちに沿っているのではないかと思われます。
 自分から進んで「国家の基本政策ないしは国家目標」の実現に向かって大いに奮闘したいと思います――と、天皇は神々に誓ったということ、後半部分を字義通りに解釈すると、こういうことになると思います。

 この場合、しかし、「経綸」(国策・国家目的)と言っただけで、それが何を意味するか、伝わったのでしょうか。天皇が「経綸」と言えば、その内容は言わずと知れたことだったと思います。ペリーの黒船以来この国は、尊王攘夷か佐幕開国かの大騒動の渦中にあったし、今もって内戦のさなかにあるのですから。
 では、何のことか。万国対峙の下で列強に追いつき、条約改正によって列強と伍し、国家の保全を期すること、一言にして言えば「富国強兵」これあるのみ。この答え以外には考えられないと思います。

 御誓文第二条後半の意味するところは、同じ天皇(木戸孝允草案)の言葉で「宸翰」に記されています。
 「(朕)親(みずか)ら四方を経営し 汝億兆を安撫(あんぶ)し 遂には万里の波濤(はとう)を開拓し 国威を四方に宣布し 天下を富岳の安きに置かんことを欲す 云々」。
 これを今の言葉で言うと、こうです。「わしはこの国の経済を成功的に運営し、おまえら国民を安心させ慈しみ、最終的には万里の波濤を越えて海外を切り開き 日本国の威信を世界に向かって宣布し わが天下国家に富士山のように盤石な安定をもたらそうと思う。」
 ここに明治天皇親政の基本政策が示してあります。第1は四方経営・億兆安撫(富国策)です。第2は海外進出・国威宣布(強兵策)です。両者を併せた、いわゆる「富国強兵」策によって、富岳天下の安定平和を実現する――第二条後半のメッセージを「宸翰」によって読み解くと、このようになると思います。

 天皇親政(明治新政府)の国家目標が上記の通り、富国強兵策にあるとした場合、どのようにしてその国策の実現を図るかの問題は残ります。その方法論は、しかし、考えるまでもありません。富国にせよ強兵にせよ、国民を動員する以外に手はないのですから。それを言っているのが、前半の「上下心ヲ一ニシテ」の部分です。

 国語的な意味は、上の者と下の者が団結し一体となって、ということでよいのでしょうが、「宸翰」に「君臣相親しみて上下相愛し」「億兆の君」「汝億兆」などの表現があるところから考えると、どうもそういう一般的な話ではないようです。「上」「下」という場合、それの意味するところは、もっと明示的に特定されていると思われます。
 すなわち、「上」とは「君」であり、一人しかいません。「一」の存在、それが天皇です。「下」とは「臣」であり、「君=一」以外の臣下全員、「億兆」とも「万民」とも言います。億兆は単なる数量ですから “その他大勢” であり、そのうちの一人の在り方はone of themでしかないということです。 人は「億兆の君」たる天皇があってこその臣下であり、「億兆の父母」たる天皇があってこその「赤子」であるとさえ言われます。一人前の人間として扱ってもらっていない、ということです。赤子(あかご)なのですからね。

 そういう君臣関係のもとで「上下心ヲ一ニ」するとなれば、下は上の心(魂)をわが心(魂)としてありがたく拝領して、そのもとへと一体化するしかありません。上(君)が下(臣)の内面の中に入ってきて支配する、ということです。単純に言えば、「君臣ともに一致団結して」と誓っているだけのことなのですが、こういう言葉の端々にも天皇親政の立場が貫徹しているということです。

 ここで、由利案「士民心ヲ一ニシ盛ニ経綸ヲ行フヲ要ス」の前半部分に触れておきます。「士民」とは、これまた、いかにもアンシャン・レジーム風です。それの意味するところが、武士と庶民であるにせよ、士族と平民であるにせよ、王政復古・天皇親政をうたいあげている御誓文の理念に似合いません。新政府の「経綸」「国策」の実現にかかわるのは、天皇とその臣民なのですから。やはり「上下」が正解なのでしょう。

 いまひとつ、第二条の枠からは出てしまうのですが、御誓文第三条の冒頭「官武一途庶民ニ至ル迄」についても同様のことが言えるので、ここで指摘しておきたいと思います。
 なお、由利案ではこの文言は存在せず、ただ「庶民」となっていたところ、福岡孝弟が上記「官武一途」を持ち込み、木戸が最終稿においてこの福岡案を採ったということです。

 福岡は旧土佐藩の藩士だというぼくの先入観の為せる業でしょうか、藩論であった「公武合体論」の影響を感じてしまいます。官武とは、朝廷と諸候、つまりは公武のことですから。彼が言いたかったのは、「朝廷も諸候も一体、庶民も一緒になって」ということなのでしょう。これだと、時間が幕末の政局まで遡ってしまいます。
 しかし、第三条の木戸は、一目にして時代錯誤とされかねないこの表現を採用して、(後に触れますが)それよりもまだしも当を得ていると思われる由利案の方をあえて斥けました。なぜか。御誓文の起草者にしていまだ公武合体論の域を出ない福岡孝弟のような論者が多数存在したということ、その事実こそがこの問いに対する答えではないでしょうか。

 「親征の詔」が下されたのは慶応4年2月3日です。「五箇条の御誓文」の発布はそれからおよそ1か月後の3月14日です。そして、戊辰戦争の帰趨が決したとされる江戸城の無血開城は、さらにそれから1か月後の4月11日でした。御誓文の時点は、親慶喜・佐幕派の諸候とか、いまだ旗幟を鮮明にせず様子を見ている諸候などもおり、彼らを制圧する戦争のさなかにあったわけですから、新政府・天皇親政の権力基盤はまだまだ盤石たりえず、諸候の存在には一定程度気を遣う必要があったのでしょう。そのあたりの力関係から、木戸は「官武一途」なる表現を採用したのではないか、と思います。

 以上をふまえて「御誓文」第二条の言わんとするところとは、意味だけを再述すると、次の通りです。曰く。われらは国を挙げて「国家目標=富国強兵」策の実現に向かって努力奮闘する所存です——と。

<万機親裁之布告>永井和
補論 近代天皇制の三層構造__再読の必要あり

慶応4年4月22日 天皇自らが裁決を下す(自=親)
国家意思決定システム=万機親裁体制 天皇に裁可を仰ぐ輔弼者 裁可=国家意思の決定
天皇は輔弼者からの奉請(上奏書)を受け取り、これを裁可する(決裁を下す)ことによって、国家意思の最終的確定する。当初、天皇は、その任にたえる独立した主体たりえていなかったが。
天皇臨御のもとでの御前会議

→木戸孝允「 ”漸次“ 立憲政体樹立」という構想の根底にある。民衆の政治的未成熟。
松尾正人『木戸孝允』p160,184

佐幕・中立・倒幕、三派共同の「国是」確定事業が可能だったのはなぜか?
 •開明派としての共通認識・最大公約数〜幕末流行の公議政体論(立て前として)
 •新政府外交方針「開国和親」のもとでの団結・共同__国家的要請
 •ペリー来航以来の危機意識の共有__公武合体論
 •幕末維新のドサクサの真っ只中のアナーキーな政治状況がプラスに働き、
ある種の自由の風が吹いていたのかも?
 •暗中模索・何でもありの状況が幸いし、いい意味での妥協の成立する余地が生まれたの
かもしれない。
 •あるいは、単純に「なぁなぁ」ということだったのか? ソレが通用したのかも?

新政府の樹立宣言=統治理念の宣言=国是の宣布
■57第一条、「会議と公論」の思想
■58第一条、宸翰のなかの木戸孝允
■59第二条、新政府の「経綸」
■60第二条、「一」の思想
■61第三条、朕の統治
■62第三条、庶民の志
■63第四条五条、万国対峙下の日本の将来