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天皇について(29) 御誓文第一条、「宸翰」のなかの木戸孝允 たけもとのぶひろ【第81回】– 月刊極北

天皇について(29)

たけもとのぶひろ[第81回]

ドナルド・キーン『明治天皇』(2001年、新潮社)

ドナルド・キーン『明治天皇』
(2001年、新潮社)

■御誓文第一条、「宸翰」のなかの木戸孝允

 唐突ですが、ドナルド・キーン『明治天皇』から、御誓文とその第一条「広ク会議ヲ興シ万事公論ニ決スへシ」に関する評価の部分を以下に示します。
 「五箇条御誓文が、近い将来に議会制民主主義を打ち立てようとする政府首脳の意向を示すものであるとする推測は明らかに間違いだろう。しかし、いずれにせよ御誓文の内容はまさに革新的と言うべきで、その発想は日本で前例がないどころか、事実、中国文化圏に属する他のいかなる国においても前例のないものだった。「万機(あらゆる重要な政治課題)」を「公論(公共の議論)」によって決定することは断じて伝統的方法ではなかったし」云々。

 御誓文とくにその第一条に対するぼくらの好感のよってきたるところがどこにあるのか、一米国人によって、端無くも教えられたかの感があります。御誓文は、議会制民主主義とまではいかないけれど、革新的と言うべきで、断じて日本の伝統的方法ではない、と。御誓文は、いまだ緒に着いたばかりとはいえ、方向としては、アンシャン・レジームのやり方を脱して、民主主義の方向に向かっている、と。要するに、革新的・民主的・進歩的だ、と。であるからこそ、「公論(公共の議論)」という表現が出てくるのでありましょう。

 しかし、言うところの「公論(公共の議論)」は、いったいどこから出てくるのでしょうか。
 どこで議論するのでしょうか。御誓文はいずれの場合も主語は天皇です。天皇が広く会議を興し、その会議で重要な政治問題について “公共の” 議論をし、その議論において物事を決定するなんて、ありうるでしょうか。何かの勘違いでなければ、思い込みの類いではないでしょうか。他人事ではありません、ぼく自身が御誓文第一条を自由民権運動の源流であるかのようにイメージし理解していたのですから。

 疑いをもったのは、「五箇条の御誓文」とほぼ同時にセットで出されたとされる「宸翰」(天皇の書簡)の存在です。この書簡の草案作成に尽力したのが木戸孝允だと、松尾正人は前掲書において指摘しています。待てよ! と思い、原文に当たってみました。御誓文第一条の “民主的” 解釈はまったくの的外れであることを思い知らされました。

 「宸翰」の結語部分は、こう語りかけています。
 「汝億兆能々朕が志を体認し 相率いて私見を去り公儀を採り朕が業を助けて神州を保全し列祖の神霊を慰し奉らしめば生前の幸甚ならん」と。
 ここに「公儀」とあるのは、すでに指摘したように、「公議」「公義」「公論」と同じ使い方をされていて、文章にあるように「私見」ではなくて「公の正しい考え」という、単純にそれだけの意味です。当時、木戸たち、新政府の指導者たちにとって、「公共」とか「公共の社会」とかの概念は、西洋の翻訳本を読んで知識としては知ってはいても、実感としてはわかっていなかったと思います。したがって、「公論」(御誓文)「公儀」(宸翰)は「公共の議論」ではないということです。「公論」「公儀」の「公」は「朕」、「公=朕」ということではないでしょうか。

 だとすると、「宸翰」結語の当該部分はどうなるか、天皇は億兆に向かってなんと言っているでしょうか。
 ——汝億兆は私見のもとにある。朕は公論・公儀を有している(公は朕のもとにある)。汝億兆は私見(自分の考え)を捨てて、公儀(公の・朕の正義正論)の言う通りにし、朕の志を身に体し、朕の事業を助けよ。
 天皇親政とは、朕と汝億兆の世界です。両者の関係を上記のようにあらしめなければならない、そう考えたのが明治の新政府だったのではないでしょうか。

 では、「御誓文」第一条の当該部分(万機公論ニ決スへシ)の方は、どうなるのでしょうか。
 ——政治的に重要な問題はすべて天皇の正義正論において決定しようと思います。
 天皇はこのように天神地祇の前で誓約したということです。しかも、その際、天皇(実際には三条実美)は、数多の公卿・諸候を率いてこの文言を奉唱しており、その場に伺候していた全員に同じ誓約をさせた形になっています。入念なことに、その後で全員に署名までさせています。天皇の公論において物事を決するのに、異存はない、と。

 要するに、第一条の後半部分は、「政治上の重要案件について、天皇がその公論において決裁する」ということであり、その「公論」は上記の通り天皇のもとにあるわけですから、これを一言にして言えば、「天皇親政」ということです。天皇親(みずか)らが政治をする、公論に基づいて政治(統治)をするということです。イギリス王室の「君臨すれども統治せず」ではなくて、明治新政府の天皇は君臨し、かつ統治する、ということです。ただし、その統治は、公論において決裁するというやり方だ、と述べているのだと思います。

 では、その公論はいったいどのようにして天皇のものとなるのでしょうか。端的に言って、どこから来るのでしょうか。その答えは、御誓文第一条の前半「広ク会議ヲ興シ」の部分にあります。「公論」は「会議」から来るのですね。ただし、その会議は「公共の」会議ではなくて、天皇親(みずか)らが興す会議なのだと思います。億兆がそのなかから会議を立ち上げるのではありません。会議自体、あくまでも朕のものでなければなりません。
 広ク興ス会議がそもそも天皇のものですから、そこで得られる公論も天皇のものであり、天皇はその公論において万機の決裁を行うことができるのでありましょう。

 御誓文第一条の「広ク会議ヲ興シ」は、同じく木戸を草案起草者とする「宸翰」では、どのように書かれているでしょうか。当該部分を以下に示します。
 「(承前)故に朕ここに百官諸候と広く相誓ひ、列祖の御偉業を継述し、一身の艱難辛苦を問わず、親ら四方を経営し、汝億兆を安撫し、遂には万里の波濤を開拓し、国威を四方に宣布し、天下を富岳の安きに置かんことを欲す、云々」
 この文章は、冒頭部分「朕ここに百官諸候と広く相誓ひ」が、御誓文第一条の前半部分に当たると思います。続く「列祖うんぬん・一身うんぬん」の部分は、皇祖皇祖の天皇家の歴史のなかに自身を位置づけたものだと思います。そして「親(みずか)ら四方を経営し」以下は、「天皇親政」の中身を述べているのだと思います。

 上記の「宸翰」における冒頭部分についてですが、これは、たとえば次のように解釈ができるのではないでしょうか。「いろんな問題について広く百官諸候に会って互いに話をし、決意をともにしたうえで、親(みずか)らの政治を実行していく所存である」というふうに。この解釈だと、御誓文第一条の「広ク会議ヲ興シ」の部分は、「百官諸候と広く会議を持って」ということですから、両者の言わんとするところはほとんど重なると思うのです。
 したがって、「会議」と言い「公論」と言っても、「公共の場で議論をする」ということはまったく意図されていなかったと察せられます。木戸たちが考えていたのはまったくそういうことではなくて、有り体に言えば、天皇は天皇を取り巻く輔弼者たち——議定や参与など——と会って、互いに話をし、政治上の懸案を決裁していくという、ただそれだけのことだったのではないでしょうか。

 御誓文第一条は、その表現がいかにも大仰で、恰好よく聞こえるのですが、本当はいま述べたように、側近と会って話をして決める、というくらいのことなのだろうと、見当がついたころ、たまたまキーン氏の前掲書『明治天皇』に、「万機親裁の布告」とあるのを見つけました。布告の日付は、慶応4年閏4月22日——「政体書」発表の翌日——です。原文とその口語訳がありますが、次に口語訳のみを孫引きして示します(なお、キーン氏も遠山茂樹篇『天皇と華族』から引用しています)。
 「主上は若年のため、これまで後宮に住まわれていたが、先般の御誓文の趣旨からも、また、主上のかねてからの思し召しもあって、このたび表御殿に移り、毎日、御学問所へ出御されている。政務のすべてを掌握し、輔相から奏聞を受け、時には自ら八景之間へ臨御されることもある。政務の暇には文武の道を研究され、申の刻(午后4時前後)には表御殿に入御されることになっている。」

 ここでは「政務のすべてを掌握し、輔相から奏聞を受け」とあるだけですが、キーン氏はもう少し、その情景が目に浮かぶようにとの配慮が働いたのかどうか、横井小楠(新政府参与)の書簡の内容をかいつまんで紹介しています。
 「小楠によれば、天皇は八畳の間中央に畳二枚を重ねた玉座に座り、早朝より接見をこなし、政務に没頭した。座右には煙草盆だけが置かれた。近習二、三人が間を隔ててそばに控え、他の近臣たちは敷居のこちら側に控えた。議定、参与は場合によっては列参、或いは単独で御前に出頭した。小楠は「斯くの如き盛事は実に千余年来絶無に属す」と記している。」

 議定や参与などの輔弼者は、万機について天皇に奏上し、その裁可を仰ぐために出頭してきます。天皇は彼らの奏請を受けて、決裁を下します。ここに国家の意思が最終的に確定します。これがすなわち、「広ク会議ヲ興シ 万機公論ニ決スへシ」ということです。会議も公論も、天皇とその輔弼者・側近とのやりとりで完結しています。その場こそが天皇親政の舞台である、と言ってよいのではないでしょうか。

 御誓文第一条は、結論、天皇親政の宣言を意図したものだ、という理解でよいと思います。
 なにしろ「王政復古の大号令」を発しているのですから。「宸翰」にも「往昔列祖 万機を親らし」とありますし。その点で、小楠が「千余年来絶無」の「斯くの如き盛事」と言いたい気持ちもわかるのです。
 ですが、天皇とその輔弼者・側近とのやりとり——ややもすると私的な関係に傾きかねない関係——について、「会議」とか「公論」とか言い立てるのはどうかな、過ぎるのではないか、なんて思ったりもするのです。

 やはり、西欧先進国の目を意識していて、民主主義とか近代国家とかの物差しで測られたとき、進んでいる、開かれている、と見てもらいたい、そういうような気持ちがあったのではないでしょうか。このあたりのことに、ぼくはけっこうこだわっていて、これからも続けて考えていきたいと思っています。