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誤読狂人の初期症状 仲正昌樹【第25回】 – 月刊極北

誤読狂人の初期症状

仲正昌樹
[第25回]
2015年10月3日
[1]

 私の勤めている金沢大学では、一年生向けに、レポートの書き方とかゼミでの報告の仕方、討論の仕方などを教える「初学者ゼミ」という授業をやっている。私も、これまで数回担当した。特にレポートについての指導をしていると、こちらが、高校でもある程度教育を受けているはずなので、これくらいはいくら何でも常識だろうと思っていることが、そうではなかったと分かって、唖然とすることがしばしばある。誰からも間違いを指摘されないまま、あるいは指摘されてもその意味を理解しないまま、大きくなったら、どうなるのだろうか、と感じる。私がこの『極北』で随時紹介している、誤読狂人たちの典型的な勘違いの原型のように見えるものが少なくない。無論、高校や大学で基本的なリテラシーを身に着けることのできなかった人の多くは、身の程をわきまえて大人しくしているのだろうが、自分が間違っているとは思わず、自分に納得できないことがあるのは相手が間違っているからだと思い込むことによって“処理”する癖のある、ふてぶてしい連中が、ネット上の誤読狂人になってしまうのだろう。
 一年生になったばかりの学生がやりがちのミスのいくつを挙げておこう。最初のレポート課題を出す前に、いくつか注意すべきことを言っておく。第一に、引用する時は、必ず引用元を明らかにすること、引用元を明らかにせず、ネット情報などを無断でコピペするのは剽窃であること。第二に、wikipediaのような出所の明らかでないサイトの情報をそのまま信用するのではなく、元情報に当たること。この二点は最も重要なこととして強調する。
 無論、実際提出されたレポートを見ると、いいつけを守っていないのが一目瞭然のものがある。文章を読まないでも、見た目だけコピペだと分かってしまうような、間抜けなことをしている奴もいる――どうして読まないでも分かってしまうかは敢えて書かないが、かなり幼稚なミスである。また、第一のポイントは理解しても、第二のポイントは頭から抜け落ちたのか、wikipediaを引用元として表記する学生もいる。ひょっとすると、wikipediaから引用したと書くと、情報の出所を明らかにしたことになる、と思ってしまうのかもしれないが、だとすると、「出所を明らかにする」ということの意味を理解していなかったことになる。
 そういう勘違いをしないよう、wikipediaからの(直接)引用がダメな理由を学生たち自身に考えさせたうえで、誰が書いたのか分からない文章は信ぴょう性が低いので、そういうものをソースにしないよう指示することもある。そうすると、参考文献欄に、Takebunというハンドル・ネームと、その人物のHPアドレスを表記するような子が出て来る。「Takebunとは誰か?」、と聞くと、「分かりません。HPにそう出ていました」、と大真面目の返事が返って来る。非常に疲れる。それで、今年から、HPの情報で参考文献として信用していいのは、官公庁のHPに載っている公式の文章か、論文として学術的な媒体で公表されている専門分野の学者の(雑文とかブログ上の私的な文章ではなく)正式の論文、新聞の報道記事等に限る。運動団体の声明文のようなものも、当事者の見解として引用する場合には許容される。はてなキーワードなどは、ある出来事や概念の通俗的な理解を例示するために参照するのはいいが、学術的文献と同列に扱ってはいけない、などと具体的に指示することにした。そこまで言うと、流石におかしな引用・参照はかなり減ったが、それでも、当該官公庁のHPから孫引きしている別のHPを参照元にしてしまったり、W大学のS学部の学生のネット上に公表されるゼミ報告のレジュメを参考文献として表記するといった、初歩的なミスをする子がいた。疲れる。因みに、そのW大生のレジュメで、参考文献として、wikipediaが挙げられていたのには、笑ってしまった。
 念のために言っておくと、私は別に学会誌や紀要に載った学者の論文、官公庁情報を盲信しているわけではない。学者も役人も間違えることはある。だが、一応その領域の専門家として社会的にオーソライズされているし、間違ったら間違ったで、誰あるいはどの部署によるどういうミスであったか、他の専門家が検証することがある程度可能である。匿名のネット情報については、そういう検証がほぼ不可能であり、ひどいデマであっても、誰も責任を取らない。学生が自分で検証するのは困難だが、自分で検証できるようになるまでは、社会的に権威付けられたものをとりあえず信用するという姿勢で行くしかないだろう。これは文系理系に関係なく、大学の教養(共通教育)課程で身に付けておくべき、最低限のリテラシーだろう。
 いい年したおじさんやおばさんが社会派ぶって、ネット上で偉そうなことを言う時は、これぐらいのことは弁えておくべきだが、周知のように、そうでない人間が恐ろしく多い。安保法制などをめぐってネット上がお祭り状態になっている時に、ツイッターで回って来るデマ情報を、ソースも確かめずそのままRTして、情報ツーぶっている連中は、その最たる例だろう。自分の気に入らない発言をする論者に関する、何の根拠があるのか分からないネガティヴ情報ばかり集めてきて、「これが○○の正体だ!ネットの集合知によって、○○の欺瞞が明らかになった!」、と吠えるような輩は、負のリテラシーの権化である。
 wikipediaについて補足的に説明しておくと、私は別にwikipediaを見るな、とは言っていない。ある有名人が何年にどこで生まれたとか、有名な事件が辿った経過の概要とか、一般常識になっている内容を確認するのには便利なので、そうした用途で積極的に活用すればいい。問題なのは、その事件の真相について(陰謀論的なものではなく)専門的な見地からの争いがあるケースや、学術的な内容に関する記述を鵜呑みにすることである。後者の場合には、ちゃんとした専門的な文献を読んでその記述の真偽を確認し、必要に応じで、どういう文献に当たったか参照や引用の形で示しておかねばならない。私は初ゼミでは必ずその旨を伝えることにしている。しかし、一年生だと、その区別が付かないことがあるようである。かなり怪しい――その分野についてちょっとかじっただけの素人によると思われる――“学説”を一般常識として真に受ける一方で、有名な事件が何年にどこで起こった、というようなことについていちいち、「wikipedia参照」と断りを入れたりする。この区別を教えるのが結構大変である。無論、センスがいい子は、教えなくても最初から分かるようなのだが、機械的に処理していいトリビアルな情報と、学術的に論じる必要がある情報の区別がなかなか付かない子は結構いる。
 wikipediaも項目によっては、専門家らしい人が根拠となる文献を「脚注」のところで詳しく示してくれていることがあるし、英語版やフランス語版では、フリーで読めるオリジナル・テクストが外部リンクされていることもあるので、そういうものを参考にしたらいい、ということは当然言っている。「脚注」で挙げられている文献が、一番信頼できるもの、適切なものとは限らないが、ほとんどはちゃんとした学術書や論文、公的機関の文書なので、大学一年生がレポートの文献として参照するには十分であろうし、その文献を手がかりにして、芋づる式に他のより適切な文献を探り出すこともできる。真面目にやろうとすると、結構根気のいる作業である。これについては、あまり誤解の生じる余地はないと思うのだが、何年か前に、「wikipediaの記述を鵜呑みにするのではなく、注に出ているソースを見なさい」と言ったら、「脚注」のところを丸ごとコピペしてきた学生がいた。これを笑えないくらいバカなことをやっている、いい年をしたブローガーやツイッタラーは結構いる。ソースを示したつもりで、ネタ元のサイトのアドレスを貼りつけてあるものの、そのサイトに掲載されている文章自体が孫引きだったり、ブログ主がどうやってその情報・認識に至ったのか、皆目不明というケースが多々ある。多分自分のネタ元のアドレスを書くだけで、「ソースを示した」ことになると思ってしまうのだろう。
 その次の段階の問題として、どのテーマだったら、どういう専門の人のどういう著作・論文を参照すべきか、ということがある。これは、それなりに高度な判断力が必要な問題である。修士以上の学生が書く(べき)学術的な論文であれば、分野ごとに読むべきもの、参照してもいいものがほぼ決まっているので、あまり迷うことはない。自分ではっきり判断できなければ、指導教員や先輩に教えてもらえる――ネット上ではしばしば、まともな指導教員や先輩に恵まれなかったのか、人に教えてもらうことを嫌がったのか分からないが、ちゃんとしたソースから引用・参照することができない院生崩れを見かける。
 一年生のレポートだと、「原発と環境」とか「格差社会」「ヘイトスピーチと表現の自由」のような、その時々に話題になっているテーマについて、文献に当たったうえで自分の意見を述べなさい、というような大きなくくりの課題が出されることが多いので、かえって文献を絞りにくい。学者の書いたものに優先的に当たるとしても、誰を専門家と見なすべきか見極めるのが結構難しい。ポピュラーなテーマであるほど、その分野の専門家とは思えないけど、著名人ではある、“何でも社会学者”や“何でも哲学者”のような人たちが、大手の出版社から適当な本を出している確率が高い。無論その手の本でも、自分の専門性を生かしながら、きちんとした議論をしているものもあるが、一年生がきちんと仕分けするのは、難しい。また、その分野の専門家だと言える人でも、格差とか安保のような論争ネタだと、客観性を捨てて――論壇系にブログでよく見かける――檄文のようなことを書くこともあるので、注意する必要がある。同じ本の中に、学問的に客観的記述と、感情的な檄文が混ざっていることもあるので、余計にややこしい。
 そういうのを全て見分けるのは、一年生には無理だろう。三、四年生になって、専門の授業でレポート課題を提出しなければならなる段階で、どういうテーマに対してどういう文献を参照すべきか見当がつくようになっていればいいのだが、まじめに勉強していない人間は、そういう感覚が身に付かないままである。一般読者向けに面白おかしく書かれた本、新書のような一般読者向け入門書、専門的に勉強したい学生向けの入門書、体系的に記述された専門書、個別テーマに特化した専門書(論文)の区別が付いていないので、先行研究を参照すべきところで、入門書類からの簡単な引用ですませてしまったりする。あるいは、著名な学者や評論家たちの座談会とかシンポジウムの記録を本にしたものに見られる、放談とか冗談のような類を、ありがたがって引用したりする。
 そういう文献の読み方を知らない人間は、自分が論じようとしている問題が、どういう分野のどういう研究テーマに属し、それについてどのような先行研究があるか分かっていないので、「経済成長と分配的正義」の関係とか、「デリダやクリステヴァの記号論と科学社会学における構築主義の関係」のような、高度に専門的なテーマについて論じることなどできないはずである。よく分かっていないのだったら黙っておけばいいものを、その自覚さえないまま、ネット上で流布している単純な言説、「ピケティの『21世紀の資本』によって従来の経済学の限界が明らかになった」とか「ソーカルによってポストモダンの欺瞞が白日の下に晒された」、などというようなものを真に受けて論客ごっこを始め、(自称経済評論家や自称サイエンスライター、自称社会学者等からの)出鱈目な引用もどきを散りばめた文章を、論文のつもりで書き散らし、自分と違う意見らしきものを述べている(ように見える人)を罵倒するようになる。ソーカル教の信者たちや、(一見それと対立する立場にあるように見える)自称社会学者のmerca論宅(=社会学玄論)のような連中が、ソーカル事件を偽科学論争の一種と勘違いをしたままでたらめな議論を展開できるのは、文献の性質を区分するための基礎的な訓練を欠いているからだろう。
 当然のことながら、私は専門的文献に関する細かい知識さえあればいい、と言いたいわけではない。基礎がないのに細かいことだけ知っているせいで、バランス感覚がなく、おかしな足揚げとりをする輩がいる。
その分野の専門家でも、入門書や解説書を書く時は、かなり簡略化した記述をすることがある。というより、そうすべきであろう。例えば、ロールズの「正義の二原理」を、福祉国家を正当化するための原理と見なすのは、専門的理解としては間違っており、専門的な研究書の多くではその点について結構細かく説明されているが、その違いを一般読者向けに説明しようとすると、かなりスペースを取られるので、ロールズに関する新書を書くとしたら、便宜的に、「正義の二原理は福祉国家を正当化する原理である」、と説明するのは許容範囲だろう。ましてや、政治思想史とか正義論に関する教科書で、ロールズに関する一章を任された執筆者が、そういう説明をするのは致し方のないことである。直接自分が説明しようとしているテーマでないことについて文脈上最低限の言及をしなければならない時には、更に大ざっぱにならざるを得ない。例えば、政治思想史系の教科書の中で、アーレントやサンデルの「公共性」概念について出来るだけ詳しく説明しようとすれば、彼らのアリストテレス理解にも言及せざるを得ない。しかし、アリストテレス自身の議論を正確に再現したうえで、そのどの部分をアーレントやサンデルがどう理解したかちゃんと説明し、その理解が正当なものかどうか著者自身の見解をきちんと述べようとずれば、かなりのページ数が必要になる。無理にそういうスペースを取ると、物凄くバランスが悪くなる。アーレントやサンデルのイメージする「アリストテレス」をそのまま受け入れたかのような記述、あるいは、それを更に著者なりの視点から簡略化したような記述をせざるを得ない。本当にアリストテレスについて知りたい読者であれば、アリストテレスについての専門的解説書や、アリストテレス自身のテクストを読もうとするだろう。
 自分で入門書・新書とか教科書を書いたことがある人、あるいは、そういうものをよく読んで勉強してきた人なら、その手の広い意味での簡略が致し方ないことは、理解できるはずだが、本を読むうえでの基礎教養がないのに、何故か細かい知識だけある人間は、そうした事情が想像できない。だから、本論とはあまり関係のない事項についての、簡略化された記述を見つけて、鬼の首を取ったような大騒ぎをする。「仲正は△△を理解していないことが明らかになった! やはり偽学者だった!」、という調子で。本当に疲れる。
こういう病気は、初期段階でちゃんと治しておいてほしいものである。



『寛容と正義』10月下旬発売予定
2004年、実践社から刊行された『正義と不自由』に
書き下ろし「歴史と正義」の一編を加えた新装改訂版!

(四六判並製、224頁、予価本体価格1600円)