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天皇について(24)薩摩動く、「雄藩連合=公武合体」路線から「武力倒幕=薩長軍事同盟」路線へ たけもとのぶひろ【第76回】– 月刊極北

天皇について(24)

たけもとのぶひろ[第76回]

徳川慶喜

徳川慶喜

■薩摩動く、「雄藩連合=公武合体」路線から
「武力倒幕=薩長軍事同盟」路線へ

 久光にすれば、それにつけても邪魔になるのは「尊皇急進派=武力倒幕派」の奴らであることよ、ということです。とくに、中下級藩士の急進的な尊皇攘夷論を藩論とした長州藩は、もう少しおとなしくさせねばなりません。長州に対する久光ら——薩摩藩・幕府・公武合体派公家らの攻撃は、あらまし以下の通りです。

 1863.8「八月十八日の政変」(朝廷政治の主導権の転覆、尊攘派から公武合体派へ。三条実美ら七卿落ち、長州へ)
 1864.6「池田屋事件」(尊攘派二十数名、京都守護職指揮下の新撰組により殺傷)
 1864.6「禁門の変=蛤御門の変」(池田屋事件の報復として長州藩兵が薩摩・会津・桑名藩兵を攻撃するも、敗北を喫す)
 1864.8「第一次長州征討」(幕府、「禁門の変」を口実として朝廷に勅書を出させる)

 他方、文久2年から元治元年にかけての3年のあいだ(1862〜1864年)、薩摩と長州の両藩は、互いに敵対しながらも、それぞれ欧米諸国と戦火を交え、その軍事力の前に屈し、攘夷の不可能性を思い知らされます。年代記を見ておきましょう。

 1862.8 「生麦事件」(薩摩藩士、英国人を殺す)
 1863.5 「下関外国船砲撃事件」(長州、米・仏・蘭艦船)
 1863.7 「薩英戦争」(生麦事件の報復)
 1864.8 「馬関戦争=四国艦隊下関砲撃事件」(長州下関砲撃事件の報復、英・仏・米・蘭)

 これらの軍事衝突の結果をふまえて特筆すべき政治的関係が、英国と薩長とのあいだで、英国から薩長へのアプローチという形をとって表れます。事の発端は、1865年9月、英国の駐日公使ハリー・パークスの着任です(馬関戦争を主導した英国公使オールコックの後任)。パークスは、長州の高杉晋作と会ったり、薩摩や土佐など西南雄藩を訪ねるなどして、薩長和睦のために尽力しました。そこへ、坂本龍馬や中岡慎太郎の斡旋もあって、1866年1月21日、薩摩藩と長州藩は軍事同盟の締結にいたります。

 公武合体論か武力倒幕論か――雌雄を決する幕末の大詰めの戦いにおいて、上記英国公使パークスおよび彼の片腕で通訳官のアーネスト・サトウが果たした役割には、計り知れないものがあるとされています。彼らの情勢分析は次の三点に尽きます。

 •幕府は封建領主にすぎず、日本政府ではない。
 •幕府に代えて新しい政府を樹立すべきだ。
 •新政府は、天皇とそのもとに組織される雄藩連合でもって組織される。

 つまり、英国の対日外交方針は、統治能力の衰えた幕府を見限り、新政権の樹立に期待し、対日貿易を発展させる、というものです。

 英国と対照的に、仏国公使ロッシュは、600万ドルの借款をはじめ諸々の財政的・軍事的援助によって、幕府を立て直そうとしました。公武合体路線です。英仏両国の違いは、だれの目にも公然たるものだったと言います。
 少なくとも英国のほうは、通訳官のアーネスト・サトウが、1866年3月から5月にかけて3回、ジャパンタイムスに寄稿し、上記三点を内容とする情勢分析・外交方針を公にしていたからです。その寄稿文は、日本語に翻訳され、その翻訳が写本されて方々に出回り、挙げ句は大坂や京都の本屋で『英国策論』として売られるまでになり、勤皇も佐幕も両派ともに、これを英国の公式見解とみなしていた、と伝えられています。

 幕末における朝廷・幕府・雄藩諸候の政局はどこもかしこも、佐幕派vs勤皇倒幕派の二極に引き裂かれています。そこへもってきて仏国が幕府につき、英国は薩長に肩入れすることで、外国の利害までがからんでくる情勢です。もはや一国の政治では済まなくなりつつある、そういうことではないでしょうか。

 顧みるに、勤皇倒幕派の長州は連戦連敗ですが、まだまだ意気軒昂たるものがあります。他方、「公議政体論=公武合体論=雄藩連合」の薩摩藩は負け知らずでしたが、にもかかわらず、必ずしもうまくいっているとは言えません。どうしてか。   
 幕府を中心として雄藩列候が団結しておこなう「公議政治・合体政治」というのは、結局は、すでに久光自身が試みた「幕府再建」政治にしかならないのではないでしょうか。
 そして、その「幕府再建」を前提とする公武合体という考え方は、すでに時代の要請から外れてしまっているのではないでしょうか。いまや、幕府は再建の対象ではなくて、解体・排除の対象になりはてているのかもしれません。

 おそらくそうした疑念さえ浮かんでいるなかで、薩摩は、英国公使のパークスや土佐浪人・坂本龍馬などの議論から学ぶ機会もあったのではないか、と示唆する史実があります。
 ここで久光の振った “乾坤一擲のサイコロ” が、幕末に終止符を打ち、壮大な歴史の舞台を用意します。サイコロとは何か。言うまでもありません、薩長軍事同盟です。1861年の1月すでに結んでいた軍事同盟を、ここへきて発動した、ということです。それが乾坤一擲の意味です。

 しかし、現実の政治過程はバクチではありません。一振りで決められるほど、単純ではありません。お互いに不倶戴天の敵であったものが、昨日の敵を今日の友とすることができるかどうかです。
 この場合より厄介なのは、薩摩藩のほうです。成彬以来の公議路線があり、久光の幕政への直接介入がありました。公議政体論路線=公武合体路線と武力倒幕路線との両方を、同時に並び立てることができません。薩長同盟は、両極に引き裂かれてしまいます。最後の詰め、政治決断が問われていました。

 薩摩藩の腹を最終的に決めさせたのは、1967年5月の列候会議でした。会議のメンバーは、薩摩藩・島津久光(現藩主・茂久の後見人)、前土佐藩主・山内容堂、前越前藩主・松平春嶽、前宇和島藩主・伊達宗城、そして徳川慶喜です。個々の議題は直接関係ないのですが、挙げておくと主な点は、朝廷の人事問題、第2次長州征討・処分問題、懸案の兵庫港開港問題などです。これらについてどういう議論がなされ、どういう結論を得たか、そういうことはこの際ほとんど問題ではありません。争いの焦点は、会議の流れを幕府・慶喜が握るか、薩摩・久光が握るか、の一点にありました。

 徳川慶喜と島津久光が激しく対立するなか、土佐の山内容堂は徳川家擁護(=公武合体論)の立場から慶喜に与しました。越前の松平春嶽は中立、宇和島の伊達宗城はあえて動くことをしませんでした。結果、会議の主導権は慶喜の手に落ちました。
 会議の流れを支配することによって、雄藩連合が幕府から権力を奪取せんとする――薩摩藩・島津久光の目論見は外れた、ということです。しかし、久光が幕府から雄藩連合への権力奪取を企てた、というこの事実には重いものがあります。たとえ結果が敗北であったとしても、久光は、徳川慶喜を幕府の最高権力者の地位から排除しようと、一種の「政変」を企てたのですから。

 このように列候会議における敗北を喫することによってはじめて、薩摩藩は肚をすえて、「武力倒幕=薩長軍事同盟」路線の方向へと大きな一歩を踏みだすことができたのだと思います。
 以上によって、二つの陣営の戦いへと収斂せざるをえない構図みたいなものがみえてきたと思うのです。次回は、江戸幕府・親幕勢力と新政府勢力との戦いをたどりたいと思います。