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天皇について(23)幕末・公武合体論の系譜 たけもとのぶひろ【第75回】– 月刊極北

天皇について(23)

たけもとのぶひろ[第75回]

島津久光

島津久光

■幕末・公武合体論の系譜

 維新の志士たちは「大号令」「御誓文」「政体書」など一連の文書を発するなかで、新しい国づくりをするにあたっての政治理念を提起しました。これらがどのように組み合わされて、どのような政治的構造物へとつくり上げられていくのか、それを解き明かしていきたいわけですが、これからはしばらくのあいだ、1867年から1868年(慶応3年から4年・明治元年)にかけての、これらの文書の発布にいたる、歴史的事実の経過をみていきたいと思います。

 事の始まりは、1853(嘉永6)年にあります。この年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは、軍艦4隻を率いて浦賀に来航、大統領国書を携行、日本に開国を要求しました。鎖国下の日本においては、他国(朝鮮・琉球は例外)の国書の受け取りは拒絶するのが決まりでしたが、ペリーの威嚇的要求に屈して国書を受理し、かつ1年後の回答を約束させられます。その年にあたる安政元年、幕府は、米国にとって一方的に有利な最恵国待遇を与える不平等条約に調印しますが、その顛末はここで論じません。問いたいのは、最初のペリー来航のあと、幕府——老中の阿部正弘――は、どのような策をもってこの国難に対処しようとしたか、という点です。二つあります。

 ①幕府は、ペリーの来航と米国大統領の国書について朝廷に報告し、その政治的協力を要請しました。このことは、「天子は学問を第一とすべき」としてその政治活動を禁じた「禁中並びに公家諸法度」第一条を自ら踏みにじることを意味します。
 ②諸大名・幕臣に対しても幕府は、事態の用意ならざることを示したうえで、国書への回答について意見を求めました。ということは、幕府政治への参加の道が、幕閣首脳のみならず諸大名・幕臣の前にも開かれたことを意味します。
 つまり、幕府はペリー来航を機に、幕府政治の運営方法に関する考え方を大きく転換したということです。従来の専制的な考え方をかなぐり捨てて、朝廷・公家と協調し、諸大名・幕臣の知恵を集め、その総力をもって難局に当たるよりほかはない、と。一言にしていえば、幕府主導のもとでの「公武合体論」です。

 この流れを見てゆきます。阿部正弘のあとは老中・堀田正睦です。堀田は外国御用取扱に任じ、通商条約の解決に向けて、米国総領事ハリス、朝廷、幕府のあいだを奔走し、周旋・調整につとめます。しかし、過激な攘夷論者であった孝明天皇は、条約締結の勅許を頑強に拒否して与えません。
 この難局を解決すべく登場した彦根藩主井伊直弼は、勅許を得ないまま、つまり天皇を無視して、日米修好通商条約を調印し、さらに政敵たる一橋派の、公家・大名・幕臣に対して、処刑・蟄居・謹慎などの処罰を命じました。結果は、「安政の大獄」(1859年)であり、その報復としての「桜田門外の変」(翌1860年)です。
 大老・井伊直弼らを中心とする守旧派幕閣の権威は地に堕ち、幕府専制をほうむる葬送の鐘が打ち鳴らされたということです。

 井伊大老暗殺後、老中首座に就任した安藤信正は伸るか反るかの博打にでます。政略結婚の企てが、それです。孝明天皇の妹和宮にはすでに結婚相手が決まっていたにもかかわらず、その和宮を強引にも将軍家茂のもとへと降嫁させたのでした。安藤にしてみれば、このご成婚をもって公武合体運動の成果とし、これを機に幕府再興のきっかけをつかまなければならない――というふうな気持ちだったのでしょう。しかし、この「幕府主導の公武合体」策は裏目に出ます。尊王攘夷派の浪士たちの怒りを買った安藤は、江戸城坂下門外にて襲われ、やがて失脚せざるをえませんでした(「坂下門外の変」1862年1月)。安藤の策略が小手先の小細工にみえること自体、時代がもはや「幕府による公武合体策」のときではなくなっている、ということではないでしょうか。

 上述のように、幕府による公武合体策は頓挫しました。白日のもとに曝されたのは、幕府の権威失墜であり、統治能力の衰退でした。従来の、譜代中心の幕閣専制政治ではもはや立ちゆかないということです。ここに、独自の公武合体構想をひっさげて登場したのが、なんと外様・薩摩藩の島津久光です。島津家は徳川家――11代将軍家斉(いえなり)――とのあいだに姻戚関係があり、公家の近衛家とのあいだに養子縁組の関係があったとされています。簡単に言えば、「11代将軍家斉の夫人が島津重豪(しげひで)の子で近衛家の養女であった」という、少々ややこしいけれど、わかってしまえばな〜んだそういうことか、みたいな話を、あえてここで紹介しておこうと思うのです。日本の歴史の深いところで行われてきたことというのは、要するにこういうことなんだな、と妙に得心するところがあったからです。だいぶ横道に入り込むので、それが気がかりなのですが。

「11代将軍家斉の正妻は近衛寔子(ただこ)。島津重豪(しげひで)の実子(最初の名前は篤姫)。篤姫は誕生後そのまま国許の薩摩にて養育されていたが、一橋治済の息子・豊千代(後の徳川家斉)と3歳のときに婚約し、薩摩から江戸に呼び寄せられた。その婚約の際に名を篤姫から茂姫に改めた。将軍家の正室は公家や宮家の娘を迎えることが慣例であるため、茂姫は、島津家と縁続きであった近衛家の養女となるために茂姫から寧姫と名を改め、家斉に嫁ぐ際、名を再び改めて「近衛寔子」として結婚することになったのである。
 また、父・重豪の正室・保姫は夫・家斉の父・治済の妹であり、茂姫と家斉は義理のいとこ同士という関係であった」(ウィキペディア「広大院」より、要約)。

 なんとまぁ、ややこしい系図ではあります。この種の生臭い話は、権力者の世界ではなにもめずらしくない、当たり前のことなのでしょうが、ぼくなんかは想像もできませんでした。ただ、この驚きの事実を知ってしまえば、薩摩の島津久光が、どうしてこの期に及んで出てくるのか――それも、もはや寿命が尽きたも同然の公武合体論をなお世に問おうとしたのはなぜなのか、納得がいく気がします。単純化して言えば、島津家自体が公武合体を自身において体現してきたからではないでしょうか。

 用意周到にも朝廷に志士鎮撫の勅命を出させたうえで久光は、1862年4月、藩兵千名を率いて上洛し、自藩の尊皇急進派を襲撃、殺害させました。「寺田屋騒動」です。島津久光作・演出の「公武合体」劇は、まず身内を血祭りにあげる場面から幕を開けます。全国の尊攘派志士に対する先制攻撃、朝廷内部の尊攘派公家に対する威嚇が、その狙いでした。

 「公武合体」策の「武」が幕府である以上、合体策は幕府政治の根本的立て直しが不可欠の条件です。久光は、トップ人事をも含む幕府政治に直接介入します。政事総裁職・松平慶永、将軍後継職・徳川慶喜、京都守護職(新設)・松平容保などを任命させた上で、「文久の改革」と呼ばれる一連の改革に着手させます。
 久光は、幕府という、すでに屋台骨がかしぎ・土台がくさっている建物に対して、増改築すればなんとかしのげるのではないか、と最後のあがきを試みていたのかもしれません。