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ソーカル教にすがりついてしまう廃人たち 仲正昌樹【第23回】 – 月刊極北

ソーカル教にすがりついてしまう廃人たち

仲正昌樹
[第23回]
2015年8月3日
[1]
仲正昌樹

仲正昌樹

 前回 [2]、「ポストモダン」に対する過剰反応について書いたところ、意外なくらい大きな反響があった。一部には否定的な反応もあったが、その多くはいつものごとく、騒ぎに便乗して、多少名の知れた学者の悪口を言いたいだけの浅ましい輩であった。例えば、ポストモダン系の論客に対するありそうな悪口として、「○○論はもうとっくに終わったはずなのに。△△はまだ、○○論が有効だと思っているんだろうか。周回遅れ(笑)!」、という架空の例を出しておいたところ、私が最近誰かからこれとそっくり同じことを言われて、その怒りを発散するために、あの文章を書いたと勝手に妄想して、その前提で私をからかっているつもりの輩が何人かいた。Newsweekのピケティ特集の件(『極北』に連載している拙文の第十八 [3]十九回 [4]を参照)で、山形浩生に便乗して私の悪口を言って喜んでいたのと同じ連中である。常習犯なのだろう。念のために言っておくと、私個人が“ポストモダニスト”としてひどく罵倒された経験は、これまであまりない。強いて言うと、今回が初めてだが、私を誹謗した連中は、“ポストモダン”かどうかなどどうでもよく、ただただ学者を罵倒したいだけの連中なので、関係ないような気もするが。
 私がかねてからわずらわしいと思っていたのは、学者や知識人の文章、本のオビなどに、「ポストモダン」という言葉を見つけると、脊髄反射して何が話題になっているのかさえ分かっていないのに、「『ポストモダン』なんて終わったはずなのに。どうしてまだ、『ポストモダン』と言っているのだろうか?」、というような紋切型の台詞を言いたがる連中である。自分の人格が攻撃されているわけではなくても、何度も同じような台詞を聞かされると、イライラして来る。そういう連中は、デリダやドゥルーズの著作を――翻訳でもかまわない――読んだことも読もうとしたこともないか、読もうとしても難しすぎてすぐに挫折してコンプレックスになっているかのいずれかである。そういう連中が、誰かからの又聞きで、「ソーカル!」「ソーカル!」、と唱えているのを目にすると、余計にイライラする――“ソーカル教”については後述する。そうしたイライラさせられる問題について、私の思うところをまとめたのが、前回の文章である。
 あと、私の文章は「ポストモダン」あるいは「哲学」の魅力を伝えてないから駄文だとかわめいていた輩が何人かいたが、何を勘違いしているのだろうか?「ポストモダン」もしくは「哲学」を擁護しようとして書いた文章ではない。「哲学」や「思想史」において「ポストモダン」と呼ばれているものは、何らかの学派や教理ではなく、方法論でもない。フランスやアメリカに登場した一群の思想家のたちの間に共通に見られる一定の傾向にすぎない。にもかかわらず、「ポストモダン」を、同じ理論もしくは教義を共有する教団であるかのように見なして批判する奴は勘違いしているし、「デリダはポストモダンではなく、○○だ」、などと妙な拘り方をする奴もおかしい。そう指摘したのである。その程度のことさえ分からないくらい国語力の低い人間を感動させるような文章を書くつもりはない。そういう連中を“感動”させるような文章を書くことは、学者にとっては、不名誉でしかない。はてなブックマークで、chousuke7というハンドルのネームの人物が、「仲正の文章力ヤバいwww」と、ふざけたコメントをしていた。論文とか文学的エッセイのようなものとして書いたわけではないので、「見事な文体」である必要は元々ないのだが、こいつの言っている「文章力」とは一体何なのだろう?それほど自分の「文章力」に自信があるのなら、どこかの大手出版社に自分のすばらしい文章を売り込んで、ちゃんとした媒体で堂々と発表したらいいだろう。そうする勇気などなく、はてなブックマークの片隅でいじいじと他人の悪口を書き続けているくせに、「文章力」などとよく口に出来たものである。chousuke7の他の書き込みを見る限り、学歴コンプレックスと文章力コンプレックスがかなり強い人間のようである。
 言語学者を名乗るdlitという人物が、この件に関連付けて、自分のブログで、「人文系、ホンモノの学問、基礎/応用、みたいな話(言語学の研究者から見て)」という文章を書いている。私を直接罵倒しているのではないが、プロの研究者にしては、かなり失礼な物言いをしている。例えば、冒頭で「ちなみに、上記の記事に対しても、これから自分が書くことに対しても、愚痴だから(ある程度)批判を免れられると考えているわけではない。」と書いている。自分の文章について、「愚痴だからといって批判を免れられると考えているわけではない」と言うのは勝手だが、他人の文章もそれと同じだ、と断定するのは失礼だろう。君は、私の親か先生か?
 また、私が人文系の諸分野は、実験などで決着を付けることのできる理系と違って、はっきり真偽が確定できる事実だけで学問が成り立っているわけではないと述べたことについて、「ただこのような意見からは、自然科学系の研究者がいかに『事実』を正確に捉えるかということについてどれだけ苦心し、どれだけの方法を確立しているかについての敬意が見られないことが多く、好きではない」とコメントしているが、この言い方だと、私も、自然科学系の研究者をバカにしているように聞こえる。どういう人のどういうコメントを念頭に置いているのか分からないが、私の文章に関連付けて感想を述べているのであるから、誤解が生じないようちゃんと説明すべきだろう。
 この人物は、ブログの文章を以下のように締めくくっている:「なんとなく今回も『不要なケンカはやめよう』系の内容になっていまった。(…)時々全方位にケンカ売ってそれが面白い方向に転ぶという人もいないではないが、そういう人は少数で良いと思うし、少なくとも上記の記事はそういう役割は担いそうにないというのが私の感想である。」
 この言い方は、明らかに私に対して喧嘩を売っているだろう(笑)!別に学問論的な問題提起をしたいと気負って書いた文章ではないが、私の意図を勝手に忖度しておいて、「そんな役割を担えそうにありませんねえ」、という感じの感想を述べるのは失礼である。また、dlitの書き方だと、私が理系など、他分野の研究者にケンカを売っているかのように聞こえるが、これは明らかに誤解か、意図的なミスリードである。私は、私がケンカを売っているとすれば、水戸黄門の印籠のように、「ソーカル!」「ソーカル!」と連呼したがる輩である。dlitは、科学基礎論のできる言語学者として自分を売り込みたくて焦っているのだろうか?それとも、自分の失礼さに気付かない鈍感人間なのだろうか?
 ここからが本題である。今回ネガティヴな反応をした連中の何人か、やはり「ソーカル!」「ソーカル!」と連呼していた。しかし、連呼するばかりで、ソーカルの何がすごいのか、中身をちゃんと説明しようとしている者はほとんどいない。この連中は、私がソーカルとベルギーの物理学者ブリンクモンの共著『「知」の欺瞞』を知らないか、読んでいない、あるいは理解できていないと決めつけて、『「知」の欺瞞』を読んでいたら、こんなまとめをできるはずがない。読んでこういう言い方をしているとしたら、修正主義だ!」、などとツイッターやはてなブックコメントで騒いでいた。hokuto-heiという人物は、わざわざ英語のタイトルを出して、「“Fashionable Nonsense”を読んでからもう一度考えてみようね。」と嫌味なコメントをしている。私が英語を読めないとでも思っているのだろうか?--学があるふりをしたいのであれば、フランス語版の方が先に出ているので、「《Impostures Intellectuelles》を読んでから~」、と言うべきだろう。
 バカの一つ覚えのように「ソーカル!」と叫んでいる連中は、私が前回の文章で、『「知」の欺瞞』に言及しなかったので、知らないか読んでいないと決めつけたのだろうが、私がこの本にわざわざ言及しなかったのは、ソーカル事件そのものを説明するのに必要ないからである。前回述べたように、ソーカル事件というのは、物理学者のソーカルが、「境界を侵犯すること Transgressing Boundaries」という、インチキ物理学の理論に、ポストモダン系の思想家たちからの引用をちりばめた、論文もどきを作成して、《Social Text》というアメリカの社会思想系の雑誌に投稿し、見事掲載させることに成功し、あとになってその内容が出鱈目だったことを自ら露呈し、それをめぐって一連の論争が起こった、というものである。
 『「知」の欺瞞』は、その論争での批判を受けて、ソーカルの側から自らの意図を説明し、“ポストモダン”と名指された人たちは、自分(たち)の問題提起を本気で受けとめるべきだと主張する本である。ソーカルとしてはそういう態度を示すのは、ごく自然のことであろう。しかし、ソーカルたちが改めて自分たちの立場を表明する本を出したからといって、世間的に“ポストモダン系”と見なされている人全てが、恐れ入って反省しなければならないというわけではなかろう。“ポストモダン系”と見なされている人の中で、数式のようなものが大好きで、(似非)物理学とか(似非)数学のようなものに魅せられ、自分の文章の中に、それらしき話を盛り込みたがる人はそれほど多くない。いても、本題とはずれたところで、ほんのちょっとアクセサリー的に言及しているだけ、という場合がほとんどだ。そもそも、“ポストモダン”という名前の学派とか教団のようなものがあるわけではない。ソーカルが指摘している問題は、自分のやっていることとはあまり関係ないと思う人が多いのは、当然だろう。しかし、どこかで『「知」の欺瞞』の解説文らしきものを読んだだけで分かったつもりになり、ソーカル教の信者と化している連中は、それをごまかしと決めつけ、「おまえらみんなインチキだ!」と叫びたがる。
 大前提において勘違いしているとしか思えない。叫んでいる連中自身には何を言っても馬耳東風だろうが、ちゃんと人の話を聞くつもりのある人たち向けに、どういう勘違いなのか、何点かに分けて説明しておこう。まず、ハンドルネーム「無謬ぽよ(mubyuu)」などが使っている「修正主義」という言葉について考えてみよう。一体どういうつもりで、「修正主義」と言っているのだろうか?「修正主義」という言葉はいろんな文脈で使われるが、基本的には、正統な見方が既に確立されていて、それを修正しようとする試みということのはずである。「無謬ぽよ」等にとっては、正統な見方が既に確立されているのだろうが、誰にとってどういう見方が確立されているのだろうか?ソーカル支持者たちにとっては、「ソーカルがポモと呼ばれる偽学者たちを完膚なきまで論破した」、という正統な見方が確立しているのだろうが、それは支持者たちが勝手にそう思っているだけのことである。少なくとも批判されているはずの人たちの大多数は、論破されたと思っていない。どこかの(ちゃんとした)学会で通説になっているとか、裁判所など法的に権威のある機関によって事実認定されているといったことでもない限り、正統な見方だとか修正主義だとか言ってもあまり意味はない。
 ソーカル事件に関して確定的な事実は、ソーカルが“論文”を送った時の《Social Text》の編集者であるBruce RobbinsとAndrew Rossの二人が、物理学的な内容を専門家に見せるなどしてきちんと吟味することなく、掲載を決定してしまったことである。ただし、全く何も考えずに、物理学っぽい文章に魅せられて、載せてしまったという単純な話ではないようだ。この経緯については、当人たちによる説明をネット上で閲覧することができるので、ちゃんとした関心がある人は自分で調べてほしい。それに加えて、ソーカルが引用した何人かの“ポストモダン系”の思想家の論文に、物理学や数学に関する不正確な記述が何か所かある、ということも確定的な事実と言っていいだろう。ただし、そうした不正確な記述が、それらの思想家の論文の核心に関わることなのか、全体の論旨にあまり影響しない周辺的な記述にすぎないのかについては、ソーカルたちと、批判されている思想家や彼らに立場的に近い研究者の間には、かなり意見の相違があるだろう。
 『「知」の欺瞞』でソーカルとブリクモンは、ラカン、クリステヴァ、イリガライ、ラトゥール、ボードリヤール、ドゥルーズ、ガタリ、ヴィリリオなどの著作にどのような誤りがあるか指摘している。この本の大半は、そうした個別の指摘である。現代思想・哲学を知らない人が、この本の記述だけ見ると、ラカンやクリステヴァがインチキ数学やインチキ物理学の論文ばかり書いているという印象を受けるかもしれない。しかしそう即断する前に、日本語訳でいいから、批判の対象になっている論文がどういうテーマのものか確認すべきである。実物にあたらなくても、『「知」の欺瞞』の参考文献表に載っている元論文のタイトルを見ただけで、物理や数学をテーマにした論文ではないし、科学哲学や科学基礎論の論文でさえないことは一目瞭然である。不正確な数学っぽい記述が最も多いのは、ラカンであろうが、図書館などに入っているラカンの主要著作をめくってみれば、数学っぽい話がなかなか見つからないことだけは、すぐに分かるはずだ。無論、著作全体に占める分量が少ないからといって、数学・物理学っぽい記述が彼らの思想の核心とは関係ないと断定することはできないが、ソーカルに関する解説文を鵜呑みにして偉そうなことを言っている“信者”たちが思っているほど、簡単な話ではないのは確かである。ラカンやクリステヴァ、ドゥルーズ=ガタリなどに関する解説書や研究書、批判的な読解を試みた論文などはたくさんあるが、その多くでは、数学っぽい話は重きを置かれていないか、端的に無視されている――別にソーカルに影響されて無視しているわけではない。自然科学っぽい記述は、彼らのテクストを読むうえであまり重要でないと思われているからである。精神分析家でもあるラカンやガタリについては、精神医学や心理学の方面からの批判もあるだろうが、それはソーカルたちの批判とは関係ないだろう。
 ソーカルたちは、ラカンやクリステヴァ、ドゥルーズと並べて、科学社会学者であるブルーノ・ラトゥールを批判の槍玉にあげているが、ラトゥールを、“ポストモダン”という同じくくりに入れることは、フランス系の現代哲学や文芸批評を研究している人にはかなり違和感があるはずである。ラトゥールがドゥルーズなどから影響を受けているとしても、一般に“ポストモダン系”とされているフランスの著名な思想家で、「科学社会学」という領域に積極的にコミットしている人はあまりいない。フーコーの「エピステーメー」論が多少関係あるかもしれないが、フーコーを科学社会学者だと思う人はほとんどいないだろう。『「知」の欺瞞』の第四章「第一の間奏」で、ラトゥールの他、ファイアーアーベント、デイヴィド・ブルアなど、ラディカルな科学社会学者に対する批判が展開されている――にわかソーカル信者たちが、ソーカルは社会構築主義や相対主義を批判しようとしたのだと分かったような顔をして言っているのは、この章の議論の孫引きだろう。ファイアーアーベントやラトゥールは、科学についてのメタ理論を展開するプロであるはずなので、数学や物理学に関する彼らの基礎知識の間違いを正すのは正当だが、それと、精神分析や記号学、消費社会学、文芸批評などの領域を主たるフィールドにしているラカンやクリステヴァなどに対する批判を、一括りにしてしまうのは奇妙である。恐らく、ラカンやクリステヴァが科学哲学や科学社会学を積極的に展開しているわけではないことは明らかであり、彼らだけをターゲットにしていると、些細なことでしつこく批判しているという印象を持たれがちなので、ラトゥールやファイアーアーベントを中間項として入れてきたのだろうが、彼らとラカンたちが思想的にどういう関係にあるのか、ソーカルたちは明確に述べていない。科学を相対主義的に扱っているように見える点が似ていることを示唆しているだけである。ソーカルたち自身は、少々無理のある十羽ひとからげをやっていることは自覚しているように思えるが、信者たちはそこが理解できていないようである。文脈を理解する能力がないのだろう。
 更に言えば、ソーカルは「境界を侵犯すること」の中で、フリチョフ・カプラやシェルドレイクなど疑似科学的な議論で評判の悪いニューサイエンスの旗手たちの名前を挙げ、彼らがあたかもラカンなどの“ポストモダニズム”と関係しているかのように印象操作をしているが、『「知」の欺瞞』の方ではさすがに、彼らのことを本格的に取り上げてはいない。無理に結び付ければ、怪しそうなものすべてに“ポストモダン”のレッテルを貼っているだけだと思われかねないから、少し慎重になったのであろう。しかし日本の信者たちは、そういう微妙な駆け引きが分かっていないようである。
 私の文章に対して、ツイッター上で「噴飯!」などと豪語していたハンドル名「ublftbo」という人物が、自分のブログに「ポストモダンにおける、自然科学概念を用いた比喩、の意義とは」という文章を書き、そこに『「知」の欺瞞』の一章の一部をコピペして紹介している――これを読むと、この人物が、批判されている側の元のテクストはほとんど読んでいないか、そのテーマが何かさえ理解していないらしいことが伺える。その文章に対して、こいつのお友達らしい「甕星亭主人」という人物が、「焚けよ坑めよ、と迄は云わんでもうんざりする話。 おまいら、ゲーデル判って引き合いに出してるんか、と数学史家が憤慨してる文章を何処かで読んだな。 根本原理を把み従って森羅万象を解き明かせるんだ、と引き札口コミ全面展開する教祖様の如く、権威として振舞い度いが為に…」という調子の、到底常人とは思えないコメントをしている。この錯乱の極みのような文章は、「タオ物理学なる妄想解釈が、其れで何か新しい事が解明出来たんか?と罵られて霜の様に霧散した先例も有ったな。」、と締めくくられているが、この連中は、カプラとラカンやデリダが思想的に同系列だと信じているのだろうか。そう信じているとしたら、話にならない。
 繰り返し述べてきたように、“ポストモダン”というのは単なる思想的傾向であって、学派でも教団でもない。統一された学会のようなものを作っているわけでもない。また、《Social Text》は、“ポストモダン”を代表する学術雑誌のようなものではない。《Social Text》のHPなどを見れば分かるように、ポストモダン系のテーマも取り上げる新左翼的傾向の強い雑誌である。ラカンやデリダを研究している哲学者や文学者で、この雑誌が“ポストモダン”を代表する権威ある雑誌だと思っている人はまずいないだろう。だから、この雑誌の(研究者でもある)編集者たちが、ソーカルに一杯喰わされたからといって、それほど大したことだとは思わないのだが、学者ごっこをしたいソーカル信者たちにはその最も基本的なことが分かっていないようである。
 shinzorという人物のブログ「shinzorの日記」に掲載されている「ソーカル事件が提起したもの――訳が分かっていないのは誰か?」という偉そうなタイトルの文章が、その最たるものである。この人物は、私の主張を簡単に要約したうえで、以下のように述べている。

「ソーカル事件とは,ジャーゴンだけで,内容の無い偽論文を投稿したら,採用されたというものです。これが意味するところは,内容が審査されていなかったという,審査体制の問題です。内容があればこけ威しのジャーゴンは余計な修飾として無視すれば済みます。ところが,内容が無くても評価されたという大問題なのです。裸の王様がファッショナブルと評価されたのです。ここから示唆されるのは,他のポストモダン思想も内容の無い裸の王様ではないかとう疑いです。」

《Social Text》の審査体制が整っていなかったということであれば、その通りだが、いきなり「他のポストモダン思想も…」というのは飛躍である。“ポストモダン”という学派がある訳ではないし、先に述べたように、《Social Text》は、別に“ポストモダン”の代表的な学術媒体ではない。ここまではまだ許容範囲だが、この後がかなりひどい。

「その疑いを晴らすにはどうしたらよいかといえば,きちんと内容を評価して示せば良いわけです。ところが,それが出来ないのです。なぜなら自然科学のような評価基準が無いからです。(…)評価を決着させる基準がないので,何でも有り状態になっているということです。ひょっとしたら,内容のある素晴らしい論があるのかも知れませんが,それは客観的に誰にも分からないのです。別に,自然科学のような評価基準である必要はありません。面白いと思う人が多いと言う人気投票だってよいのです。文学の評価はそれに近いと思います。でも,それすらないのがポストモダン思想界だということではないでしょうか。そして,それが重要な問題だと認識もされていないということだと思います。」

 文学のように人気投票でよい、というのは正気で言っているのだろうか?文学作品と、文学についての研究論文を混同しているうえ、文学作品の評価の仕組みもよく分かっていないようである。この人物は学者のような物言いをしているが、自分で論文を書いたことなどないのだろう。理系学者で、文系の学問に関して荒唐無稽な批判をする人がたまにいるが、その域を遥かに超えている。ソーカル教の信者の多くは、これと同じような勘違いをしいているのだろう。
 まず、はっきりさせておくべきことは、ポストモダン学なるものはないし、ポストモダン系の主要な思想家・批評家・研究者たちのほとんどは、そういうものを作ろうとも思ってないことである。そういう言い方をすると、慌て者が、「ポストモダンの人にはちゃんとした専門がないんだ。やっぱり偽学者だ」、と即断しそうだが、それが勘違いである。ポストモダン系と見なされている学者で、ちゃんとした業績がある人にはそれぞれ、フランス文学、比較文学、英文学、国(日本)文学、(狭義の)哲学、倫理学、美学、社会学、文化人類学などの専門分野があり、専門ごとの方法論に適合した修士論文や博士論文を書いている。東大の相関社会科学や表象文化論のように、新しくできた学際的分野もあるが、そういうところでも、学位論文の全体像を構想し、指導教官の許可を得たうえで、中間発表などを経て、学位審査に至るまでの手順は決まっている――別に、これらの分野全体がポストモダン系だと言うつもりはないので、慌て者は勘違いしないように。それを信頼するかどうかは別として、評価システムは分野ごとにあるのである。文系の諸分野の中には、理系のような厳密な査読システムが発達していないところもあるが、全くない訳ではない。なので、就職などのために必要があれば、関連する学会や研究会の査読付き雑誌に投稿する。私個人は博士論文を書きあげた前後に、独文学会や日伊協会などの査読付き雑誌に投稿し、(ポストモダン系と見なすことができないわけでもない)論文を掲載してもらっている。ドイツのDaF関係の雑誌に、共著論文を投稿して、採用されたこともある。多くの人は、同じようなことをやっているはずである。
 “ポストモダン系”と特徴付けられる研究は、前回述べたように、学際的な性格のものが多いので、どこか特定の専門分野にきっちり収まらないことが多い。それでも、今述べたように、自分が取り組んでいるテーマに一番近い分野の学会・研究会に属して、業績を作ることができるし、関心が近い人が集まって新分野を立ち上げることもある。その新分野がちゃんと定着するかどうかは、何年か経ってみないと分からない。そういうことは基本的に理系と同じである。“ポストモダン”という括りは、あまりにも大きすぎて、方法論を統一することが無理だと分かっているので、ポストモダン学会らしきものはできそうにないが、ちゃんとした研究能力を持っている人であれば、自分が活躍できる分野を見つけることができるので、そういう大風呂敷の学会は必要ないのである。
 もう一つの典型的な勘違いの例として、どこかの大学の学部生だという人物の「Skinerrian’s blog」というブログに掲載されている「仲正氏のポストモダン擁護」という文章を挙げておこう。タイトルからして勘違いしている。この“学生”は私の文章の一部をそのままコピペした後で、次のように述べている。

「うーん、どうして挙証責任が批判者の方に押し付けられなければならないのかなぁ。ソーカルらが『知の欺瞞』で行った指摘が「全体の論旨にはあまり影響しない」ということをきちんと示さなければいけないのはポストモダン側の方であって、決して批判者の方ではない、と私は言いたい*1」

 この“学生”は大学で何を学んでいるのだろうか?Skinnerianと名乗っている割に、肝心のことが分かっていない。何等かの紛争がある場合、挙証責任が批判される側にあるのは、批判される側がかなり特殊な立場にある場合に限られる。私はこの“学生”や偉そうなソーカル信者たちの“先生”ではないので、どういう場合がそれに当たるか親切に教えてやるつもりはない。自分で考えて分からないのなら、救いようがない。あと、この学生はこの文に付けた注(*1)で、「これは『知の欺瞞』の序文でも書かれていたことだ」と述べているが、これは、ソーカル=ブリクモン自身の言葉ではなく、彼らを擁護するブーヴレスのコメントであり、しかもここで問題になっている挙証責任というのは、個々の数学・物理学っぽい表現に理解可能な意味があるかどうかを読者に対して示す責任のことである。これは厳密な意味での挙証責任とは言えないが、趣旨として分からないではない。しかし、前回の文章で私が主張したのは、「一部の理論家が数学や物理学について誤ったことを言っているからといって、その理論家の議論の全て、延いては、“ポストモダン”すべてを否定するのは飛躍ではないか」、ということである。個々の数学・物理学っぽい表現の話をしているわけではない。挙証責任の話は別にしても、ラカンやクリステヴァのことを全く知らない、知ろうともしない人間に、それが全体の論旨にどれだけ影響するのか説明することなど不可能である。知るつもりがないのだから。先ほどのublftboと同様に、この“学生”も、ソーカル=ブリクモンの記述だけで、クリステヴァの理論を全て分かったつもりになっているようなので、手のほどこしようがない。
 最後にもう一度言っておく、ソーカルのいたずらの成果と、『「知」の欺瞞』の指摘だけで、“ポストモダン”と呼ばれる傾向に属するもの全てがダメだと断定するのは、とんでもない飛躍である。平気でそういう飛躍ができてしまうのは、学問とは何の縁もない人間である。STAP細胞事件で、分子生物学者や再生医療研究者の一部の杜撰さが露呈したからといって、全ての生物学者や医者に向かって、「おまえらもどうせインチキやっているんだろ。自分たちは潔白だというなら、俺にも分かるような証拠を示せ。挙証責任はおまえたちにある!」、と言っているようなものである。無論、ある特別な立場にあって特定の重要なプロジェクトを推進しようとしている人たちであれば、自分たちがSTAP細胞問題で杜撰さを露呈した人たちとは違うことを示すべきだろうが、そういう限定なしに、全ての生物学者や医者、延いては、全ての理系学者を同類扱いして本気で糾弾しようとするのであれば、狂人だろう。世の中には、そういう常識的な感覚を欠いているくせに、論客ぶってほえたがる輩が多いので本当に疲れる。ソーカル信者たちの多くは、学問に対するコンプレックスによって動かされているのであろう。今回騒いでいた連中や、amazonレヴューで『「知」の欺瞞』を異様に持ち上げている連中のコメントを見ると、この連中が、難しい哲学系のテクストを読んで挫折し、その敗北感をごまかすために、全てを著者のせいにしたがっているのがよく分かる。「ソーカル」は彼らの救世主なのだろう。