- 明月堂書店 - http://meigetu.net -

訳が分かっていないのに、「ポモはダメ!」と言いたがる残念な人達 仲正昌樹【第22回】 – 月刊極北

訳が分かっていないのに、「ポモはダメ!」と言いたがる残念な人達

仲正昌樹
[第22回]
2015年7月5日
[1]
仲正昌樹

仲正昌樹

 自然科学における論争と違って、人文系の学問の論争は、クリアに決着が付かないことが多い。簡単に言うと、自然科学系の多くの問題は、実験とか計算、事実の観察によって、決着をつけることができるが、人文系では、それに相当するものがない。心理学のように、組織上は文学部に属していても、実験や臨床研究に重きを置く分野もあるが、これは例外だろう。経済学や社会学など、社会科学の一部の分野には、統計的データによってそれなりの決着を付けることができる問題もある。文学、歴史、哲学といったいかにも人文的な分野の主要な問題は、具体的な証拠を持ち出して白黒つけることはできない。歴史学や、文学の文献学的研究では、具体的な史料が重視されるが、史料だけで決着が付くのは、誰がいつどこで生まれたとか、この文章の実際の作者は誰かといった、細かい事実関係に関する問題くらいである。そういうことだけで、歴史や文学の研究がなり立っていると思っている、まともな研究者やその予備軍はいないだろう--“民間研究者”のつもりで、大学に所属するプロに対して、歴史豆知識クイズのようなものを挑みたがる輩ならいるが。
 「存在とは何か?」とか「人生に意味があるのか?」「道徳の源泉は何か?」といった抽象的な問題を様々な角度から論じる哲学は、人文系の分野の中でもっとも決着を付けにくい分野だろう。カントとヘーゲルでさえ、議論の枠組がかなり異なる。ハイデガーやレヴィナスの存在論と、英米系の分析哲学では、お互いに言葉が通じないことが多い――念のために言っておくが、英語vs.独語というようなレベルの話ではない。にもかかわらず、時々、知ったかぶりして、「○○論はもうとっくに終わったはずなのに。△△はまだ、○○論が有効だと思っているんだろうか。周回遅れ(笑)!」、というような調子の文章をネット上に書き込んで、得意がっている輩をたまに見かける――「ドヤ顔」と言った方が分かりやすいのだろうが、私はこの関西っぽい下品な響きの言葉に抵抗感がある。
 その手のからかいのターゲットになりやすいのが、「マルクス主義」と「ポストモダン」である。マルクス主義の場合、哲学というより、実践の思想という面が強く、かつマルクス主義者自身が実践と理論は一体だと主張してきたので、実践面での失敗や挫折――ソ連や北朝鮮の実態、左翼運動の自己解体と内ゲバ等――を“根拠”にして、その哲学としての有効性をも疑問に付すというのは、学問的に見れば飛躍だが、気持ちとしては分からないこともない。しかし、「ポストモダン系」と呼ばれる――あるいは、そう呼ばれていた――思想には、そうした分かりやすい実践との強い繋がりはない。ガタリやネグリ、後期デリダなどの研究をしている人たちは、左派的な立場から、思想と実践の繋がりを強調することがあるが、それは“ポストモダン系”の全般的な特徴ではないし、そうした“ポストモダン左派”的な人たちは、“ポストモダン派”と呼ばれることを嫌がる傾向がある。
 「ポストモダン」と名が付くものは、思想業界の人たち――あるいは、業界人ぶっている輩――からバカにされることが多い。しかしその割に、「ポストモダン」とは何なのかはっきり分かっている人はあまりいない。何となくカルソウに見える思想を、「ポモ」とレッテル貼りしたがる輩が多いが、この手の連中には、「カルイのはおまえのカボチャだ!」、とでも言ってやるしかない。
 明確な定義があるわけではないのだが、私の理解では、フランスで六〇年代に台頭した構造主義、及び、その成果を踏まえたうえで、限界を指摘し、乗り超えようとしたポスト構造主義の系譜を引く、哲学や評論の活動を指す。マルクス主義のように共通の信条や理論的前提があるわけではないが、①理性的な自我を起点とする近代知への挑戦②進歩史観の拒絶③哲学、文化人類学、精神分析、文芸批評、記号学などにまたがる学際性④ポスト工業化社会における新たな“主体”像の探究――の四点くらいを、大凡の共通の特徴として挙げることができるだろう。
 それほど明確な共通性ではないので、「ポストモダン」という呼称を使うのはおかしいと言う人がいる。素人だけでなく、哲学・思想史、文芸批評を専門としているはずの大学教員の中にも、玄人ぶって、そう言いたがる輩がいるが、私に言わせれば、特定の呼称を使うことそれ自体を問題にするのは、バカの証拠である。呼称というのは、何らかの対象や現象、傾向をうまく要約し、特徴付けるために使われるものである。その呼称によって名指されているはずのものが実在しないとか、そのようなものを想定して議論をすると不都合が生じる、聞き手に誤解を与える、といった問題を指摘するのであれば、意味ある批判だが、漠然と、「そんな概念使うことに意味あるんですかねえ~」とか言って、批判したつもりになっているのは、ただのバカである。ポストモダンに限らず、唯物論、観念論、プラトン主義、形而上学、カント主義、ヘーゲル主義、ロマン主義、功利主義、新カント学派、マルクス主義、実存主義、プラグマティズム、分析哲学など、ある哲学・思想の傾向をまとめて名指す呼称は、何某かの曖昧さを含んでいる。どういう場面でその呼称を使ったら、どういう不具合が生じるのか指摘しないと、単なる言葉の趣味の話でしかない。
 「ポストモダン系」と呼ばれてしかるべき思想の系譜があることを一応認めたうえで、それを“批判”する人たちもいるが、その人たちの大半は、名称に拘る連中以上に見当外れである。その見当外れには三つくらいのパターンがある。
 第一に、左翼や自称保守主義者たちによる、「ポストモダン思想は、資本主義や社会主義に変わるオルターナティヴを呈示することができなかった」、というタイプの“批判”がある。これは、“ポストモダン”が元々マルクス主義やリバタリアニズムなどと同様に、社会変革のための実践の思想であった、という前提での“批判”だが、先ほど述べたように、そういうことをやろうとしたのは、ポストモダン系と呼ばれる思想家の中の一部である。その一部の人たちも、資本主義に取って替わる新しい社会の構想のようなものを明示したわけではない。ポストモダン系と呼ばれる社会理論は、ポスト工業化の時代には、社会構成が多様化し、主体形成のモデルが不明確になっていることを指摘することが多いので、“オルターナティヴ”のような話には繋がりにくい。むしろ、マルクス主義にとっての共産主義社会のようなものを描くことが困難になったことを示唆するのが、「ポストモダン思想」である。「オルターナティヴを示すことができなかった」式のことを言っている人は、哲学・思想は、社会変革のための“オルターナティヴ”を示さないと価値がないと思い込んでいるのだろうが、そんなことを言うのであれば、「哲学」という名の下に大学で研究されているものは全て無価値である。更に言えば、そんな分かり切ったことを、偉そうな顔をしてほざいている人間の存在自体が無価値である。
 第二に、“ポストモダン系の連中”はふまじめだとか、不勉強だ、場当たり的に適当なことばかり言っているなどと見なし、それをもって思想そのものまでも否定しようとする印象論がある。恐らく、浅田彰とか東浩紀、最近だと国分功一郎、千葉雅也などに憧れ、文芸批評家とかアニメ批評家になりたがっている連中、あるいは、既にそうした“批評家”になったつもりの連中を念頭に置いているのだろうが、何かのブームにのってスターになった人に憧れ、その真似をしたがるイタイ連中が出て来るのは、「ポストモダン系」に限った話ではない。実際、アーレントとかレヴィナスとかピケティとか小林秀雄とか上野千鶴子とか佐藤優とか古市憲寿の真似をしてデビューしたつもりになっている自称評論家は、ネット上に腐るほどいる。この手のバカで不愉快な信者、エピゴーネンが多いからといって、当人を責めるのは見当外れの極みだろう。
 「ポストモダン系」に特有の問題があるとすれば、哲学を始めとする既存の知の体系の権威失墜・解体を肯定的に評価したり、浅田彰の「スキゾ・キッズ」論に象徴されるように、不安定な生き方を称揚するようかのような論調を広めたりしたので、勘違い人間を多少後押ししているということくらいだろう。しかし、それはあくまで、「多少の後押し」にすぎない。哲学者や評論家といった肩書が持つ意味が相対化したのは、社会の変化によるもので、ポストモダン系の思想家たちのせいではない。また、ポストモダン系の思想家の一部が、思想や評論のプロとアマの区別を相対化するようなことを言ったからといって、ネット上で勝手に“思想家”や“評論家”を名乗る人間が、ちゃんとした媒体に文章を発表し、職を得られる機会が増えるわけでも、多くの人から認められる保障が与えられるわけでもない。むしろ、そういう機会や保障などない、と言って、突き離してしまうのが、ポストモダン系の思想であろう。若手評論家養成プロジェクトのようなことをやっている、ポストモダン系論客もいるが、それで救われる人がいても、ごく少数なのは最初から分かり切っている。
 いずれにしても、勘違いしているバカを生み出した元凶だといって、ドゥルーズ、フーコー、デリダ、リオタール、スピヴァックなどのテクストに価値がないかのように言うのはバカげている。彼らのテクストはあまりにも難解で、勘違いしているバカにも、その連中の大量発生に文句を言っている連中にも、理解できるものではない。“元凶”とされている思想家の主要なテクストを読みもせずに、「バカの教祖もバカに違いない」式の単純な連想で、文句を言うのは、バカの上塗りである。
 第三に、「ポストモダン・ブーム」が終わり、「ポストモダンの○○」というような言い方があまりかっこいい響きをしなくなったことをもって、「ポストモダン」が何らかの論争に敗れて、失効してしまったかのように思い込んでしまうということがある。冒頭に述べたように、哲学の論争や学派の対立に、明確な勝ち負けなどない。一方の立場の支持者が増えてきて、他方が流行らなくなったら、何となく、前者が勝ったように見えるだけである。しかし、そういう意味での勝ち負けを問題にするのなら、プラトン、カント、ヘーゲル、ニーチェなどの哲学は何度も負けては、復活している。また、哲学者が他の哲学者の理論を受容する場合、そのまま受容するのではなく、自分なりの修正を加えているのが普通である。デリダとかドゥルーズの主張の一部に何らかの欠陥が見つかったとしても、それで彼らの理論全てが否定される、ということはまずない。
 ポストモダン思想が“敗れた”と信じている人たちの多くは、「ソーカル事件」に言及する。ただし、ソーカル事件がどういうものだったかちゃんと理解している人は少ない。「何かすごい事件があって、ポモの欺瞞が暴露されたらしい」、という程度の幼稚な“理解”しかしていない輩が多い。この事件の概要をごく簡単に述べておくと、ポストモダン系の哲学者・評論家が、科学の専門用語を適当な比喩的意味で使っていることが多いことに、物理学者のアラン・ソーカルがポストモダン系の知識人をからかうためのイタズラ論文を書こうと思い立ったことが、発端だ。ソーカルは、ポストモダン系の哲学者や社会学者の言説と量子力学の基本的考え方が相通じていることを明らかにすることを謳った、「境界を侵犯する――量子重量の変換的解釈学に向けて」といういかにもそれらしいタイトルの論文を書き、数学・自然科学系の専門用語らしきものを適当に並べたてた。それをポストモダン系の思想雑誌に投稿したところ、見事採用されてしまった、というものである。ソーカルたちは、これによってポストモダン系の学者たちの欺瞞が明らかになったとして、大体的に批判キャンペーンを繰り広げた。ポモ批判の人達は、このことを金科玉条のようにふりかざし、「ポモ思想に未だにしがみついている仲正は、ソーカル事件で、その欺瞞が明らかにされたことを知らないのだろう。バカだね(笑)」、とか言いたがる――念のために言っておくと、私はいろんなところでフーコーやデリダを参考にしているが、「ポモ」を信仰しているわけではない。
しかし、ソーカル事件は、哲学の根幹に関わる問題ではない。かなりトリビアルな話である。ソーカルに名指しされているラカン、ドゥルーズ、ボードリヤール、クリステヴァなどが、物理学や数学などの最新の研究成果に関して、科学哲学・メタ理論的な見地から論評する論文を書きながら、元になっている研究の基礎的な概念を間違って使っていたというのであれば、致命的だが、彼らは記号、主体、欲望、無意識などについて論ずる文脈で、自然科学の概念を比喩として借用しているだけであり、全体の論旨にはあまり影響しない。確かに、よく分からない分野から比喩表現を借りてくるのは軽率だが、著者の軽率さをもって、理論や主張を全て否定しようとするのは飛躍である。例えば、ホッブズが自然状態において「人は人に対して狼である」と述べていることや、ルソーが描く、孤独に生きる野生人のイメージは、動物生態学や人類学の見地から見て出鱈目もいいところだろうが、それをもって、彼らの社会理論を全否定しようとするのは、バカげている。ベルグソンの進化論理解がおかしいと言って、彼の哲学を似非科学だと言ったり、プラトンの対話編に神話が出て来るからといって、彼の哲学を迷信だと片付けるのは、ナンセンスである。彼らのテクストをちゃんと読めば、論の中心がそんなところにないのは明らかだからである。
 一見単なる比喩に見えるものが、実は議論の本質に影響を与えているという指摘であれば、傾聴に値する――ポストモダン系の思想は、テクストの中での中心と周縁の関係の逆転のような問題に強い関心を寄せる。しかし、ソーカル事件に拘るような人たちは、そういう本質的な議論をするわけではない。ドゥルーズやボードリヤールの議論の本筋が見えないので、自然科学系の言葉の使い方のようなトリビアルなことにだけ眼が行ってしまうのであろう。理系の学者が、人文系の難しい論文を読むと、そういう反応をすることが多い。そうした理系学者の単純な反応に、知ったかぶりの自称評論家たちがのっかって、「ポモ」の悪口を言っているのである。心理学者や認知(脳)科学者であれば、認識論の問題と全く無関係とは言えないが、フッサールやメルロ=ポンティの仕事が、現代の心理学や認知科学の成果と相いれないなどといって“批判”しようとするのであれば、見当外れである。フッサールやメルロ=ポンティは、自分たちの研究の領域は、心理学のそれとどのように違うか繰り返し説明し、自らの立ち位置を明らかにしている。そういうことを知らない、あるいは読んでも理解しないまま“批判”するような理系学者は、ネット上のバカな目立ちたがり屋と大差ない。
 ポストモダン思想を批判したいのなら、大いにやればいいと思うが、その前に、自分が何を批判しようとしているのかちゃんと理解すべきである。妄想で批判すれば、確実に自分自身がバカになっていくだけである。