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ニー子との最後の日々そして別れ たけもとのぶひろ【第73回】– 月刊極北

ニー子との最後の日々そして別れ

たけもとのぶひろ[第73回]

 世田谷に住んでいたころ、友人が公園で捨った野良猫をもらい受けました。両手の中に収まるほど小さな黒猫です(本当は腹が白いのですが)。「五郎」と名づけました。十年を超えた潜行生活の半ば以上を共にし、助けてくれた「つよし」が黒猫でしたから、「つよし」の生まれかわりのようにも思えて、それはそれは可愛がってきました。ひとりでは寂しいだろうと、翌年には女の猫をもらってあげました。やはり野良の黒猫です。二番目にぼくの家族になったのだからと、「ニー子」と名づけました。

ニー子(右)と五郎

ニー子(右)と五郎

 そのあと、こんどはぼくがヨメはんをもらい四人家族となりました。さらに数年が経つうちにいろんなことがあって、結局は生まれ故郷の京都に帰ってきました。この地で、やはり黒白の子猫に出会いました。いつも一センチ以上ぺろっと舌が出ていたので、「ペロ」と名づけたのでしたが、男の子か女の子かも判りませんでした。なにしろ、抱っこはおろか、捕まえることさえできなかったのですから。出会ってから一年ぐらいはかかったと思います、捕まえて家の中に入れてあげることができたのは。ようやく獣医さんのところへ連れて行って、女の子であることが判明しました。

 五郎は十七歳(人間年齢では八十四歳)です。加齢が原因なのでしょうか、眼が見えません。ビー玉のような眼になってしまって。ペロは、慢性腎不全という厄介な病気です。毎週欠かさず二回ないし三回は獣医さんのところで点滴(輸液)をしてもらっています。いちばん親孝行だったのはニー子で、定期検診(血液検査・尿検査)のために獣医さんのところへ行くことはあっても、病気の心配で行くことはありませんでした。ニー子はいつも元気、と端から思いこんでいたのが間違いでした。

 そのニー子の様子がこれはちょっとおかしいのではないかと、急に心配になったのは四月末のことでした。ぼくが抱っこすると胸の辺りを圧迫するのが原因かどうか、苦しそうな咳をするのです。なんの問題もなかったはずのニー子が、今から思うと、そのときすでに、生死の分かれ目に立たされていたのでした。
 いつも通っている獣医さんのところに行ったのが四月二五日。レントゲンを撮りました。白くふわっと膨らんでいるものがもやもやと見えます。リンパ節が腫れている、癌の疑いがある、と言われました。しかし、にわかには信じられません。東京で動物病院を経営している獣医師の友人に相談しました。あなたならどうするか、と。胸部の超音波検査(エコー検査)、胸水穿刺(とりあえず胸水を抜いて検診する)、癌以外の、たとえば感染症などの可能性も疑ってみる、などが彼女の答えでした。

 二八日、三〇日と通院して、より詳しい診察を求めましたが、三〇日に再度レントゲンを撮るにとどまりました。癌の診立ては変わらず、対処の方法としては、朝晩二回、気管拡張剤・抗生剤・ステロイドを飲ませ、週一回のペースでさらに強いステロイドを投与するしかない、とのことでした。
 友人のアドバイスにあるように、ぼくとしては診断そのものにもっと手をつくしてほしかったです。癌を認めたくなかったですから。病院を変えて、セカンドオピニオンを求めるしかありません。信頼できる医者に心当たりがありました。ただ、その病院はあまりにも遠方過ぎるのが心配でしたが、そういうことを言っている場合ではないと直感し、決断しました。
 ようやく予約が取れて診てもらえたのが五月三日です。血液検査、レントゲン、超音波検査(=エコー検診)、胸水検査(穿刺による採集)など、できることはすべて目の前でやって見せたうえで、診断結果と今後の対処方針を示してくれました。

①エコー検査の映像を自分の目で見たから認めざるをえなかったのは、たしかに癌とおぼしき瘤状のものの存在です。ほぼ肺の悪性腫瘍と診て間違いないだろうが、念のために、穿刺採集した胸水を然るべき検査機関に送って細胞検診をしてもらうとのことでした。
②胸水を抜いたので、結果、少しは呼吸が楽になったと思うが、できるだけ楽な呼吸ができるように「酸素ケージ」(酸素濃縮器)の用意を指示されました。
③最後に、ステロイド剤を処方するが、嫌がるなら無理に飲ませる必要はなく、むしろ撫でてあげることのほうが大事とのアドバイスがありました。

 医者は残酷に過ぎるとはばかるところがあったのでしょう、余命について明言しませんでした。その段階ですでにニー子は数日の命だったのですが。しかし、親の欲目なのでしょうね、癌であっても直ぐに死ぬとは限ったものではない、せめてこの五月の一カ月は生きていてほしい、などと、今から思うと、前後左右の何処にも生き筋が見いだせない状況のなかで、主観主義というか無知というか、よくもまぁ、手前勝手な願望に身を託していたものよ、と恥じ入りつつ反省しています。

 直ぐに後悔したのは、遠方に過ぎるその病院には、とてもやないが通うことができないので、通院時間の短い別の病院に転じたことです。絶体絶命の土壇場に直面しているのに、まだ生きていてくれるはずだ、と自分を思いこませていたのが原因でした。
 また、ニー子の病状についての客観的認識がまったく欠けていました。胸水が溜まると、肺の膨らむスペースが減って肺が圧迫され、とくに吸気が苦しくなる。息が細く浅くなって、深く吸えない。ちょっとしたことで咳がでるし、息切れする。とても苦しいし痛いそうです。彼女が耐えていた痛さがどれほどのものか思いやる、想像力が著しく欠けていました。

 主観的には、もちろん最大限の努力をしているつもりでした。実際の話、ニー子の病状がさらに一段と悪化した五月八日からのおよそ一週間というものは、病院に連れて行く以外は昼も夜も付き切りの介抱看護でした。朝になってヨメはんに交代してもらって少しは仮眠できましたが、完徹の日もありましたから、日にちも曜日もわからなくなりました。
 介抱看護と言っても、人間にできることは限られています。たとえば、

①「針なし注射器(プラスチックシリンジ)」でもって口の中に押し入れるようにして、水や鎮痛剤0.1mlを飲ませてあげる(初めのうちは好物のビーフ缶やサケ缶を水で薄めて粥状にしたものを少しは食べてくれたのですが)。
②酸素ケージ(透明プラスチックの酸素濃縮器、中型、幅80cm・奥行き32cm・高さ50cm)の中に寝床とおしっこ用砂場を作ってあげて、濃縮酸素(濃度30~45%)を吸わせてあげる。1時間に2,3回、1回10ないし15分程度。出入りを手伝ってあげる。③ケージの外では猫ハウスとか、タオルケットや毛布のベットを用意しておいて、楽にさせてあげる。こんなところでしょうか。
 そこへいくと猫は違います。眼の見えない五郎は、それでもなにかしら気配で感じるのでしょう、そばに来て同じ空間にいます。じっとしてそこに居るだけなのですが。ペロは、酸素ケージが持ちこまれたときから、ニー子の身になにかしら良からぬことが起きたらしいと感じたと思いますが、それが最悪の事態、生命の危機だと予知したのは十二日の夜半、午前0時を過ぎた頃だったと思います。

 そのときのことはよく覚えています。ニー子を酸素ケージから出してあげたところへ、ペロが鳴きながらまとわりついていって、ニー子のそばを離れません。水をあげ鎮痛剤を飲ませてあげるときも、ぼくら人間が怖いのもがまんして、ニー子の横に寄り添っています。でも、外に居られるのはせいぜい十五分くらいでしょうか。それ以上になると、息をするのも苦しくなるので、酸素の部屋に戻してあげます。ニー子を奪われた恰好のペロは、ケージの周りをぐるぐると回って鳴いています。次の日の夜中も、日にちをまたぐ頃から、ペロは鳴いて鳴いてニー子を求めます。ケージから出してあげると、ペロは尻尾を直立させながら身体ごとぶつかったり、ごっつんこの頭突きをしたり、ひとしきり甘えるかと思うと、今度はニー子の身体をいつまでもいつまでも舐めて毛繕いをしてあげるのでした。それは、今迄何年もの間してもらったことのお礼でもあるかのようでした。

 思えば、ペロは幼いときに母親に死なれたため、お乳も愛情もろくすっぽ与えてもらっていません。そんな生い立ちのペロは、ニー子のことを“これがお母ちゃんなのだ”と身に沁みて感じていたに違いありません。
 いつだって、ニー子の後をついて歩き、舐めてもらい、抱っこしてもらい、一つの円になってその中で寝かせてもらっていたのですから。
 ニー子だってペロが大好きだったと思います。彼女は避妊手術を受けていますから、子どもを産むことができませんし、子どもというものがどういうものか知らずにきたのです。そこへたまたまペロがやって来て、家族に加わり、一つ屋根の下で暮らすことになりました。そのペロがどこまでも自分を慕ってくれる。自分のことを母親と思っていてくれる。ニー子は母であることの喜びを感じていたと思います。ペロの甘えた仕草を見るニー子の眼は、母親のそれだったと思います。
 ぼくにとってニー子はかけがえがありません。そしてペロも五郎も他の猫によって代替できる猫ではありません。そうは言っても、ぼくにとってのニー子と、ペロにとってのニー子とでは、掛け替えのなさが違うということです。

ペロ

ペロ

 五月十四日、ニー子の最期の日でした。やはり真夜中の零時を過ぎた頃、ペロが“酸素の部屋”の前に来て坐り、ニー子を見ています。ニー子は中からじっと見ています。出してあげました。このときニー子は、珍しくスタスタと歩いて、ペロの直ぐ近くの座布団のところまで行って座りました。今から思うと、ニー子はペロに最期のお別れを言いに行ったのでしょう。五分くらいが経過したでしょうか、ニー子は酸素の部屋に帰ろうとしたのか、立ち上がり、よろつきながら1メートルほど戻ってきたところで、崩れるように坐りこみました。
 おしっこが洩れていました。いかにも浅くて細い息がニー子の苦しさを訴えています。水を飲ませ、鎮静剤をあげなくてはなりません。その前に、しかし、身体を温かいお湯で拭いて、ドライヤーか何かで乾かしてあげないと。慌てまくって、やっとのことで酸素の部屋に戻してあげたのは、ほとんど午前の一時になる頃でした。非常時を確信しました。死ぬかもしれない、と。二階のヨメはんを起こしました。

 朝十時の開業を目指して病院に駆けつけました。猫キャリーの中のニー子を抱き、酸素を吸わせながら。ボンベは四本もっていました。帰り道の分も要ると思っていたから。しかし、ニー子は死にました。
 医者から呼ばれて二階に上がりました。一階がキレイにしてあるだけに、別の病院に迷い込んだのではないかと思ったほどです。汚い物置小屋のような、床に犬猫の死体が転がっていても不思議でないような、ゾッとする部屋の、手術台なのか何なのか判別しかねるほど、いろんなものがごちゃごちゃとあるボード——手術台? ——の上に、ニー子は横たわっていました。
 抱っこしました。まだ温かかったです。息を引き取ったばかりだったのでしょう、午後十二時四十五分でした。ただ正確に言うと、最初はうまく抱っこできなかったのです。ニー子の身体は、まるで背骨がなくなったみたいにグニャグニャで、腕の間をくぐり抜けるようにして床の上にずり落ちてしまったのでした。

 超音波検査の画像データを見せながらの説明がありましたが、目の前にあるニー子の胸水を見れば一目瞭然でした。濁った薄茶色の胸水がわずかばかりの広がりをみせている、その真ん中に真っ赤な鮮血が円を描いています。皮膚に注射針を刺して胸水を抜く「胸水穿刺」に失敗したのでした。この上は、何を聞いても仕方がありません。ニー子を一刻も速く家に連れて帰りたい、それだけでした。

 午後二時くらいの帰宅だったと思います。生の場所である家のなかには、いまのニー子の居場所がありません。ヨメはんと二人で、居間にある“お飾り風”の床の間の前に、祭壇を作りました。恰好の——平べったくてけっこう大きさのある——ダンボールの箱を白いシーツで覆い、その上にタオルケットを敷いてベットに見立て、ニー子の遺体を寝かせました。
 掛け布団代わりに日本手拭をかけました。茄子の実の紫と葉っぱの深い緑が美しく描かれています。まるで岩絵具で描いた日本画のようです。子どものころ大好きだった猫じゃらし、それから彼女の写真、ペロや五郎とのツーショットの写真も飾りました。庭に咲いている、ピンクの花がかわいらしい野草も、花屋の菊の花も飾りました。
 十四日と十五日はお通夜でした。夜遅く迄、蝋燭をともして泣いていました。仏様の前で、浅ましいことですが、ヨメはんと喧嘩もしました。どうしてこいうことになったのか、誰がわるいのか、などを言い立てるものですから。不都合なことであっても、自分が引き受けるしかないのですが。自ら進んで引き受けることでしか、物事は収まらない、そういうものだと思うのですが。文字通り泣いたり喚いたりでした。

 十六日の夕刻、ペットの出張火葬屋さんに来てもらい、借りている近所の駐車場——梅の木が何本も植えてあるくらいですから、ちょっと広いめの空地——で荼毘に付しました。火葬車は火葬室と燃料装置を搭載しており、焼却時間は一時間少しです。そのあと骨を拾わせてもらって、火葬の儀式は終わりました。

 いちばんつらい思いをしているのは、間違いなくペロです。なにしろお母ちゃんと慕ってきたニー子に死なれたのですから。命日から二週間以上が経過した今でも、泣いています。ニャーと鳴くのではなくて、アォーン、オーンオーン、アオー、アーアー、オーなどと、呻くように、抗うように、訴えるように、吼えるように、あるいは泣き疲れて啾々とすすり泣くかに聞こえることも含めて、「慟哭」というものを眼前にしている気がしています。慢性腎不全のペロの身体に決してよいはずがないと思うのですが。

 先頃、詩人の長田弘さんが亡くなり、落合恵子さんが悼む言葉を書いておられます(朝日新聞五月二十日夕刊)。その文章のなかに長田さんの詩「こんな静かな夜」からの引用がありました。再引用します。
 「先刻までいた。今はいない。ひとの一生はただそれだけだと思う。ここにいた。もうここにはいない。」
 ニー子が死んで一週間の、時が時だっただけに、身に沁みて感じるものがありました。
 「今ここ」にいたものが「今ここ」にいない、という、そのことがいったいどういうことなのか、ニー子は身をもって示してくれたのではないか——そんな気がしてなりません。