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法学部の傲慢 仲正昌樹【第21回】 – 月刊極北

法学部の傲慢

仲正昌樹
[第21回]
2015年6月4日
[1]
カール・シュミット入門講義(作品社)

『カール・シュミット入門講義』
(作品社)

 私が法学部(類)に勤め始めてから既に十七年半経つ。専門科目の授業も担当し、他大学の法学研究者ともそれになりにお付き合いし、大分慣れてきたつもりになっているが、今でも時々、法学部人間特有の偉そうな物言いにカチンと来ることがある。以前にも述べたが、法学部には、法学は社会を動かす基本的な学問であり、他の学問とは格が違うと思い込んでいる奴が結構いる。心の中で思い込んでいるだけならいいが、特に必要もないのに、他学部出身者に対して法学の特殊(優越)性を説いて聞かせようとしたり、大して難しい話をしているわけでもないのに、「法学ではこういう時に、●●…という概念に基づいて考えまして…」と、いちいちもったいを付けたりするので、いらっとする。
 私は、自分の担当している政治思想史だけでなく、法哲学・法思想史などに関連した仕事もし、何冊か本を出しているが、法哲学者の中にはそれが気に入らず、私の悪口を言っている輩が何人かいるらしい――「らしい」というのは、あまり面と向かって言われたわけではないが、「仲正が法哲学を辱めている」と非難している連中が何人かいることをよく耳にするからである。面倒くさい連中である。
 現在多くの大学でやっているように、金沢大学も初年次教育に力を入れている。私も初学者ゼミを担当している。ちょうど今、自分のゼミの学生のレポートを添削しているのだが、やっていてふと憂鬱になる瞬間がある。一年生の間は結構素直で、私にいろいろ質問し、アドバイスを求めてくるような学生が、法学の専門科目、特に民法、刑法、行政法などの授業を受けたあたりからだんだん傲慢になり、実定法科目を担当していない私のような教員をバカにし始めるのである。中には、あいつの授業は役に立たないのに、試験がやたらと難しいので、とったらダメだと言って回っているやつがいるらしい。法律相談室とか法友会などの法学系サークルの部屋を中心にその手の話が拡がっているようなのだが、そう言っている連中の半分以上は、私の授業に実際に出たことがない。私の初ゼミに出た時のおぼろげな記憶に基づいて、ドイツ語や政治思想史の授業もきついに違いとないと思い込んで、必死に「仲正はダメ!」と連呼している奴もいるようだ。無論、私の初ゼミに出席している学生の全員がそういう無礼者になるわけではないが、時間をかけて指導をした学生の中から、ちょっと法学をかじっただけで、勘違いしたエリート意識を持ってしまう奴が出て来る可能性があると思うと、空しくなる。
 最近、はてなブログで、どこの大学か分からないが、法学部の学部生を名乗る人物が、私の著作についてコメントしているのを目にした。「学部生の読書ノート――公法を中心に、気になった本について書きます」というタイトルのブログである。言及されているのは、二冊である。一冊は、作品社から出している『カール・シュミット入門講義』である。この本については嫌な思い出がある。一昨年、某私立大学の法学部生を名乗る人間がbookmeterでかなり侮辱的なコメントをしていたので、それに抗議する文章をこの『極北』に載せたところ、この“学生”に逆切れされ、彼と彼に肩入れする九大の大賀や中大の大杉などからひどい誹謗中傷を受けた。今回のブログ主も「法学部生」を名乗っているのでいやな予感がしたが、読んでみると、予想に反してかなり好意的に紹介し、推薦してくれていた。法学部生にも素直な奴はいるんだな、と思いかけたのだが、最後のいかにも法学部生らしい一言にカチンと来てしまった。

 個人的には、『憲法論』の解説をして欲しかった点と、若干お値段が張る点が残念です…著者の専門からすると、法律学からみるシュミット像というのは、過大な要求なのかもしれませんが…

 ひょっとすると本人は気付いていないかもしれないが、「過大な要求」というのは、失礼な言い方である。相手の能力を低く見積もる表現だ。法学という高尚な学問について語るのは仲正には荷が重いと言っているように聞こえる。この学生は、憲法や行政法の先生に向かって、民法や商法にも関連した質問をする際に、「先生のご専門ではないので、過大な要求かもしれませんが」、などと言うだろうか? 自分の大学の直接指導を受けている先生には失礼すぎて言えないことを、他大学の専門の違う教員に対しては平気で言えるとすれば、その教員をバカにしているということだ。「著者の専門は政治思想史なので、自らの専門の見地からシュミットを語ることに敢えて自己限定したのかもしれない」、というのが、失礼に当たらない穏当な表現である。そこまで慎重でなくても、せめて、「著者の専門外なので、ないものねだりかもしれない」、くらいの言い方にしておくべきだろう。
 念のために言っておくと、『憲法論』を本論中で本格的に取り上げなかった主な理由は、『カール・シュミット入門講義』は、実際に受講者を前に行った連続講義を文字起こししたものだからである。分厚い本だと、解説し切れない。加えて私は、『憲法論』はシュミットの著作の中ではさほど難解なものではないし、全体的に見てそれほどオリジナリティがあるとも思っていない。憲法学者や法哲学者には、『憲法論』こそシュミットの著作中最も重要だと言う人がいるが、私はそうした見方に納得していない。シュミットの著作に対して、私にとっての重要度順位を付けると、一位が『政治神学』、二位が『政治的なものの概念』、三位が『大地のノモス』で、『憲法論』は四位から六位くらいである。決定的に重要と思っていないので、全体の構成のバランスを崩してまで、取り上げなかったまでである。別に法学について論じるのが恐れ多いと思ったわけではない。
 念のために言っておくと、『カール・シュミット入門講義』では、シュミットによる純粋法学や団体国家論など従来の法理論に対する批判や、ワイマール憲法における例外状態規定の解釈をめぐる問題など、法学的に細かい論点にも触れている。憲法学の教科書に載っている「制度的保障」論と、『政治神学』などに見られる「秩序」論の関係についても、簡単にではあるが触れている。法学の素養がある人がちゃんと読めば、私が法学を怖れ回避しているのでないことは分かるはずだ。主として、政治思想史の観点からシュミットを紹介する本なので、法学的な論点の扱いがやや少なくなっているだけである。
 ついでに言っておくと、「私は仲正の能力を疑っている」などと言って、私をやたらにバカにしたがる、ネット上の“法学徒たち”は知らないようだが、私は医事法関係の裁判に少し関わって参与観察的な研究をしたことがあるし、戦後補償問題について論文を書いたこともある。これらの分野については、そうしたことに関心のない法学者よりずっと詳しい。そもそも、法学者や法律家には、自分が専門的に取り組んでいる領域以外のことになると、素人以下の見当外れなことを言ってしまう人が少なくない。「法律学」全体を代表して、見識のある発言をできるような人はそれほど多くない。大学で法学を学べば、法学の基礎知識や用語は覚えるだろうが、法的思考なるものを身につけられるとは限らない。「法律学からみるシュミット像」など、無意味である。意味があるとすれば、「ドイツ系の公法学から見たシュミット像」だろうが、そういう本や論文は既に結構ある。私が専門外に出しゃばってまで、それについて論じる必要があるとは思えない――少なくとも現時点では。
 シュミットの本に関して問題なのは、先ほどの一文だけであり、これだけだと、うっかり失礼な物言いをしただけのようにも見えるが、『今こそアーレントを読み直す』(講談社現代新書)に言及しているもう一つの記事にも、同じ様に失礼な表現がある。二度あると、意図的に私を見下しているのではないかと思えてくる。こちらは、主として私ではなく、立教大の川崎修氏の『ハンナ・アーレント』(講談社学術文庫)を取り上げた記事であり、私の本は比較の対象として引き合いに出されているだけなのだが、その引き合いの出し方が失礼である。

 本書は、日本におけるハンナ・アーレント研究の第一人者である川崎修教授による、アーレントの入門書です。/元々は、現代思想の冒険者たちシリーズの1巻として1998年に出版されたものでしたが、2005年に現代思想の冒険者たちSelectとして新装版が出版され、2014年に学術文庫入りしました。この経緯を見るだけでも、本書のすごさが分かります。/私が読んだのは、2005年の新装版ですが、文庫化にあたって大きな加筆修正はなさそうです。あと、新装版に比べて若干安くなっています。/アーレント入門書としては、他に仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』(講談社現代新書、2009年)がありますが、本格的にアーレントに触れるとなれば、本書以外の選択肢はないでしょう。そもそも、同じ土俵の本ではないですしね。

 先ほどの『カール・シュミット入門講義』に関する記事で、私は単なる「著者」なのに、川崎氏は「教授」である。私も川崎氏も、法学部(類)の政治思想史担当教授であるが、この扱いの違いは何なのだろうか? 立教と金沢の格の違いか? それとも、東大法学部の学卒助手出身の川崎氏と、同じ東大でも非法学部出身で、数年のブランクを経て、法学・政治学研究科でない大学院に入って、学術博士になった私との格の違いか?
 呼称に関しては、単に川崎氏を特に尊敬しているだけで、私の方はどうでもよかったというだけのことかもしれないが、「同じ土俵の本ではないですしね」、というのは露骨に失礼な言い方である。「土俵」という言い方は、多くの場合、格の違い、あるいは、能力の違いなどを表わすために使われる。野球選手とサッカー選手では土俵が違うという場合は、単純に、やっていることが違うので比較するのは無理だという意味でしかないが、日本でプレーしているサッカー選手と、海外でプレーしている選手に関して、土俵が違うと言ったら、格の違いの話だろう。川崎先生をあれだけ持ちあげたあと、それとの対比で引き合いに出した同分野の研究者の仕事について、「土俵が違う」と言ったら、後者の意味に取るだろう。憲法についての専門的な研究書を最近出したA先生と、憲法の教科書を最近出したB先生の二人が目の前にいたとして、「A先生の本は本当にすごいと思いました。B先生も最近教科書を出されましたが、土俵が違いますから…」、と言えるだろうか? 平気で言えてしまうとすれば、常識感覚がかなり欠如している。
 もしかすると、私の本は新書なので、学術文庫よりもより一般的な読者向けだ、という言わずもがなのことを言いたいだけだったのかもしれない。しかし、それだったら、バカにしているという印象を与えないよう、素朴に、「新書だということもあって、想定している読者が異なっているように思える」、とだけ述べればいい。
 また、そういう言わずもがなのことを言いたいだけだとしても、私の本もちゃんと読み、ある程度アーレントの思想の全体像を掴んでから語るべきである。例えば、私の本の第四章では、川崎氏の本ではあまり扱われていない、後期の著作『精神の生活』と『カント政治哲学講義』について、一般読者向けにやや崩した形ではあるがしつこく論じている。その章では、「観察者」とか「拡大された心性」など、やや専門的な概念についても、私なりの理解を示している。『革命について』を論じた第三章でも、アーレントの人格論に関して、必ずしもアーレント研究者の常識とは言えない見方を示している。そうしたことを分かったうえで、私の本は、本格的にアーレントを勉強したい人が読むものではないと断じているのだろうか?以前にも、この本について、私が砕けた文体で書いていることから、中身を理解しないまま早合点し、「浅い!」と決めつけた“学生”――これは都内の大手私大の経済学部生だったと思う――がいたが、今回の法学生にも、それと同じものを感じる。川崎氏の本に対する褒め方を見る限り、学術書の評価の仕方を心得ているとも思えない。
 恐らく、本格的な学者である川崎修教授と、浅くて大衆向きの本を書く――法学部的ではない――仲正のような輩の違いが分かる自分をアピールしたい気持ちが働いて、私に対してぶしつけな表現を使ったのだろうが、そういうダシに使われるのは不快である。川崎氏を尊敬し、すごい学者だと思うのは本人の勝手だし、私をサブカルっぽい書き方をするセンセーとして多少イジルのもかまわない。しかし、両者を比較し、学者格付け的な話をしたいのなら、アンフェアにならないようしっかり調べ、文章をよく練って書くべきである――学者格付け的な話をするのは、かなり下品かつ無礼な行為なので、お上品な法学者になりたい人間は、そう取られかねない物言いは極力避けるべきである。
 無論、私がこの『極北』の連載で例として取り上げて来た、いい年をしたおじさんなのに、口ぎたなく他人を罵倒することによって必死に目立とうとするあさましい自称保守主義者や自称経済論客――これらの連中は恐らく、まともな職業に就いたこともないのだろう――などに比べれば、この法学部生はかなりまともな人間であろうし、私に対してさほど悪意を抱いているわけではないとは思う。しかし、法学部特有の「上から目線」――少し前までちゃんとした日本語と認められていなかったこの言い回しはあまり好きではないが、「法学部」についてはぴったり当てはまるような気がする――を感じさせる表現を無造作に使っているのを見ると、単純な目立ちたがり連中に対するのとは別の種類の不快感を覚える。法学部(公法)の知的権威を後ろ盾にしているような書き方をすると、法学部をあまり知らない人には、信ぴょう性があるように見える。嫌味な感じがする。
 多くの法学者は、学者になる前に、無作法な「上から目線」は表に出さず、慇懃無礼に振る舞うことを覚えるようだが、たまに露骨に無礼なまま、学者になってしまう輩もいる。あるいは、ちゃんとしたポジションを得た後で、何かの拍子に、傍若無人な言動をするようになる奴もいる――中大の大杉がどっちなのかは分からないが。こういうご時世になっても、「法学(部)はすごい!」という揺るぎない確信を抱くことができるのは、ある意味、すごい才能かもしれない。