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天皇について(19)「明治14年の政変」およびその後の「藩閥政治」の実相 たけもとのぶひろ【第70回】– 月刊極北

天皇について(19)

たけもとのぶひろ[第70回]

黒田清隆

黒田清隆

■「明治14年の政変」およびその後の「藩閥政治」の実相
 続いて「天皇機関説」登場の背景を考えます。具体的に論じたい最初の論点は、「明治14年の政変」とその前後の政治過程です。問題の天皇論が上梓されたのは1912年――明治天皇崩御のその年、明治という時代の最後の年です。それから数えておよそ30年もさかのぼる明治14(1881 )年の「政変」がどうして、「天皇機関説」登場の背景として論じられなければならないのでしょうか。
 ぼくはなにも上記「政変」と「機関説」登場とが直接的な因果関係にあると言っているわけではありません。ただ、この「政変」――とその後日談めいた展開をも含めて――は “明治の政治” を象徴しており、その “明治の政治” が天皇機関説を歴史の舞台に呼び出した要因の一つにちがいないと思っているのです。

 年代記をたどりながら事実を見ていきます。すでに指摘しましたが、憲法および国会をめぐっては在野から激しく突き上げる運動がありまし。政府の中枢もようやく一歩を踏みだそうとしたのでしょうか、同年正月早々の12日、伊藤博文・井上馨・黒田清隆・大隈重信ら4名は熱海に会して、憲法の大綱などについて協議したと伝えられています。ただ、意見の一致には至らなかった、とも。後の経過からみると、大隈がとくに異を唱えたことがきっかけで、政府開明派(伊藤博文・井上馨・大隈重信)の協力体制にひびが入ったものと思われます。

 1月のこの不一致を踏まえてのことでしょう、参議大隈重信は、早くも3月には『国会開設意見書』を上奏します。その骨子は、①イギリス流の政党政治(議院内閣制・立憲君主制)②1年以内の憲法制定 ③2年後の国会開設、の三点でした。
 大隈の「意見書」に対する伊藤の印象は、あまりにも短兵急で拙速に過ぎる、というものだったのではないでしょうか。というのも、このときすでに伊藤は当該問題のおおまかなスケジュールを思いえがいていたでしょうから――翌82年には渡欧し、たっぷり時間をかけて欧州先進国の憲法事情を調査して来よう、まず研究して来よう、然るのちに日本の憲法と国会の問題を具体的に考えればよいのだ、と。その伊藤からすると、 “1年以内に憲法・2年後に国会“ という大隈提案は、論外だったに違いありません。

 上記大隈意見書に対する反論があったのは、同年7月のことでした。右大臣岩倉具視による『憲法「大綱領」』(井上毅起草)の上奏が、それです。その眼目は、①プロイセン式君権主義 ②大幅な天皇大権(統帥権・文武官任命権を含む)③二院制議会(但し議院内閣制は採らず)④制限選挙制、などです。これが、伊藤博文の同調を得ることによって、結局は政府の最終方針となったのでしたが、そこには、本筋の「憲法および議会」に関する議論とはまったく別の、世に「開拓使官有物払い下げ事件」「明治十四年の政変」と称される事件の顛末が介在していた、と年代記にあります。「事件」「政変」は以下の通りです。

 まず「事件」について。政府は1872(明治5)年から10年計画でもって総額1400万円を投じ北海道の開発を進めてきました。翌82年は計画終了年次にあたります。開拓使長官の黒田清隆(薩摩藩出身)は、81年7月27日、北海道開拓使官有物払い下げを申請しました。申請内容は、①1400万円余の官営事業をたったの39万円で払い下げる、②支払い条件は無利息30年賦とする、③払い下げ先は薩摩藩出身の政商・五代友厚ら関西貿易社とする、というものでした。同月29日、この払い下げが閣議決定されます。
 しかし、8月1日、それが発表されるや、世論は、藩閥政治と政商の結託を直観し、猛反発します。大隈重信も同じく「払い下げ」閣議決定を非難します。大隈については、黒田を指したのは大蔵省の大隈派官僚だとか、大隈は民権派と結託して政府転覆を企てたとか、あれこれの噂もあったと伝えられています。伊藤博文は激怒し、大隈追放を決断します。ここまでが「事件」です。

 決着は「政変」の舞台、明治14年10月11日の御前会議です。決定事項は、①国会開設を明治23年とする(翌12日詔勅発布)、②開拓使官有物払い下げの中止、③大隈重信罷免の決定、の三点でした。これらの点について伊藤は、薩摩閥に対してしっかり根回しをしたうえで、大隈が天皇の行幸に同行して留守のあいだを狙って方針を決定し、天皇が行幸から帰京した10月11日のその日に御前会議の勅許を得て、上記のごとく事を決しているのです。多数派工作にせよ、喧嘩両成敗にせよ、細心の注意をはらって権謀術数をめぐらせる、しかし最終的には「御前会議」「詔勅」によって事態を収拾する――というのが、藩閥政治のやり方なのだな、と妙に納得させられるところがあるのではないでしょうか。天皇はいざという時の切り札であり、ジグソーパズルの最後のピースみたいな、そういう使い方にこそ、天皇親政・君権主義の真骨頂が見られるのだな、と。

 「伊藤博文の政治」という大まかな括りで、「政変」の後をもう少しみてゆきたいと思います。――1885(明治18)年12月、伊藤は太政官制度を廃止して内閣制度を設け、自ら初代内閣総理大臣を買って出て、第一次伊藤内閣を成立させます。詔勅「明治23年・国会開設」の至上命令がその実現を迫ってきます。それを実現するには、それよりも前に当然、憲法を制定しておかなければなりません。制定した憲法に基づいて国会を開設するのですから。その憲法制定という大事業に備えんがために、伊藤は渡欧し調査研究してきたのでした。1888(明治21)年4月30日、ついに伊藤は――すでに触れたところですが――枢密院を設けてその議長を務め、草案の審議を開始します。枢密院議長に就任するためには、もちろん総理を辞任しなければなりません。

 さて、その際、伊藤は辞任後の内閣人事をどうしたか、です。年代記には「同年2月1日大隈重信、交渉の末外相就任」とあります。伊藤は総理大臣を辞めるというのに、その前に次の内閣の外相人事を決めているのです。もちろんその時すでに、後任の二代目内閣総理大臣は薩閥の黒田清隆を推奏すると肚を固めています。
 そして同年4月30日の記事です。まず「黒田清隆内閣発足、伊藤博文枢密院議長就任」とあって、直ぐその後に「勅命で特に閣議出席を許される」とあります。これはもう、ほとんど「明治二十一年の政変」(第二の政変)と命名しても間違いでないほどの政局でした。
 この政局を乗り切るにあたって伊藤は、「明治十四年の政変」(第一の政変)における権力闘争とその収拾の戦果を十二分に活用しています。その遣り口を目にする者はだれしも、権力者・伊藤の “狡知” を見せつけられる思いがするのではないでしょうか。

 「伊藤博文プロデューサー」による「黒田清隆内閣」組閣プロセスについて、その遣り口の要点をかいつまんで以下に示します。
①「開拓使官有物払い下げ事件」で失脚同然の黒田清隆を総理に推奏することで薩閥に恩を売る、②黒田次期総理を前提としたうえで大隈重信を外相に据えて、「政変」における大隈罷免措置の借りを返し、政敵・大隈との関係を修復する、③二者会談――伊藤にとっては “乗るか反るかの駆け引き” であり、大隈にとっては ”談判” であったかもしれない――を成功させることで、黒田首班内閣を最終決定する、④「政変」がらみで敵対関係にある黒田・大隈の両者を内閣の要衝に配し、互いに牽制させることで、各々が独自の政治的動きに出ることを封じる、⑤さらに、用心深いことに、「勅命」という奥の手を使い、総理の座を降りてもなお閣議に出席して睨みを利かすことができるという例外的権利(特権)を手に入れ、黒田総理・大隈外相の両者を支配下に置く。等々。――これらによってもはや明らかだと思うのですが、伊藤博文がその強大な権力を行使して動かしていたのは、「明治の日本という国家そのもの」だったのではないでしょうか。

 伊藤博文からすれば、黒田清隆と大隈重信とは呉越の関係で、両者を同じ舟に乗せ、自分も同じ船に乗りこんでおり、自分がその船の舵を操っている、という絵図です。(ただ、三者の間には三者三様の呉越の関係があった、と言うほうがより正確だとは思うのですが)。彼らの船の横っ腹には “「藩閥政治」号“ とでも大書されていたのではないでしょうか。こんなふうに言いたくなるのは、三者が三者ともそれぞれがそれぞれの政治信条を異にしていたからです。分けて指摘すると、次のようになります。

•黒田は大日本帝国憲法公布の1889年2月11日の翌12日、鹿鳴館での午餐会において「政府は超然として政党の外に立ち」と演説し、政党政治への対決と君権主義の立場を鮮明にしています。内閣は天皇に対してのみ責任を負えばよいというのが究極の立場です。
•大隈は、当時、立憲改進党の前総裁(実質上の党首)であり、議会(国民)に対する内閣の政治責任ということをうるさく主張する、政党政治の論客として、その名を知られた存在でした。③伊藤はというと、天皇中心の統治(=天皇親政)を内閣と議会が輔弼するシステムを理想としていました、ために内閣は、天皇に対する責任と議会に対する責任を同時に背負わなければならず、別言すれば、君権主義の原理と立憲主義の原理を同時に満たさなければなりません、結果、彼の発言は両極のあいだに引き裂かれ、ブレざるをえず、聞きようによっては二枚舌を使っているように聞こえてしまう、伊藤にはそういう不幸がついてまわったと思われます。
•模倣のモデルはそれぞれでした。黒田はプロシア型政治を、大隈はイギリス型政党政治を、伊藤はイギリス型二大政党・議会政治を、ということでした。
•しかし、三者が三様にいかに違っていようと、「藩閥」という、旧藩時代に由来する「利害の共有・人脈の縦のつながり」が、政治はもとより人間の営みのすべてをほとんど運命的に結びつけていたのかもしれません。
•これだと、しかし、統治は人間関係の縦のつながりがすべてとなってしまうわけで、「法にる統治」はいかにして可能となるのでしょうか。次回のにはこの問いをめぐって考えてみたいと思うのです。