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自分の興味がないことは無駄だと決めつける“読者” 仲正昌樹【第20回】 – 月刊極北

自分の興味がないことは無駄だと決めつける“読者”

仲正昌樹
[第20回]
2015年5月3日
[1]
プラグマティズム入門講義(作品社)

プラグマティズム入門講義(作品社)

 これまで繰り返し述べてきたように、ある程度知名度のある著述家にネットで言いがかりをつけて、誹謗中傷する輩の大半は二重の誤読バカである。二重だというのは、アーレントとかピケティ等のビッグ・ネームの思想や理論を自分なりに単純化して“理解”し、それと違っていそうなことを、私のような少しだけ知名度がある著述家が言うと、すぐに「○○は△△の思想の本質が◇◇だと言うことが分かっていない。偽学者だ!」、と騒ぐということである。「△△の思想の本質が◇◇だ」というのは勘違いだし、○○がそれに反することを言った、というのもほぼでっちあげである。二重に間違っているので、間違いを正してやりようがないのだが、本人たちは、○○を論破したつもりになって勝利の雄たけびを上げる。
 無論、その手の雄たけびに同調してRTし、「いいこと言っておられます!」などとツブヤクのは本人と同程度の知的レベルの、いつものお仲間数名に限定されるので、大した害はない。厄介なのは、一見、△△も○○もよく読んでいるふりをし、客観性を装いながら、○○をバカに見せる捻じ曲げ、歪曲をやる輩である。書いた著者本人からしてみれば、「おまえ、どこを読んでいるんだ!全部斜め読みしているんだろ!私に何か恨みでもあるのか!」、と感じるような歪曲でも、長文の読者レビューのような形で書かれると、まだその本を読んでいない人には、まともな批評のように見えるかもしれない。長々と細かそうなことを書いているからといって信じてしまう奴は基本的にバカなので、そんなのは無視すればいいのかもしれないが、そういうレビューによって、私が「肝心のことが分かっていない間抜け」であるかのような印象が、広く薄くじわじわと拡散していくのはやはり不快である。その典型として最近目についたのが、二月末に刊行された拙著『プラグマティズム入門講義』(作品社)に対する、「古本屋A」と称する人物によるアマゾン・レビューである。
 この人物はこれまでにも何度か私の本に対して、浅いとか、不満が残るとか、「●●を論じ切れていない」式の上から目線のコメントをしている。そんなに浅いのなら、もう二度と読んだふりをしないでほしいものだが、結構しつこい。お笑い芸人に笑いを教え、相撲取りに相撲を教えたがる類のおっさんなのだろうが、人文系の本に関して――古本屋という本に詳しそうな職業を名乗って――それをやられると、それらの場合よりも迷惑度が高い。お笑い芸人に笑いを教えたがる素人が、実際にお笑い芸人よりうまく笑いを取れる可能性は極めて低いこと、相撲取りに相撲を教えたがる素人が実際にプロに勝てる可能性はほぼゼロであることは、まともな人間にはすぐに分かるだろう。しかし、哲学とか文芸批評の本は、何となく誰でも書けそうに見える――実際に自分で書いて、それを出版社に持ち込むと、そう簡単なことではないと分かるのだが――ので、単に偉そうなだけの素人のコメントを信じてしまう人が一定数いるようである。そう考えると憂鬱である。この古本屋Aという人物は、特定の著者に対して、自分なりのイメージを押し付けて、いろいろ憶測する傾向があるようだ。例えば、廣松渉の著作を読むと、そこに左翼同士の内ゲバの痕跡が見えて来るらしい。
 古本屋Aの『プラグマティズム入門講義』に対するレビューは、全体で1300字ほどの字数があり、最初の方は割と謙虚で好意的な感じで書いているので、冷静に評価しているように見える。しかし、すぐに上から目線で難癖を付け始める。

「数年前からプラグマティズムが気に入ってあれこれ読み出したが、偶然なのか時代の趨勢なのか、日経新聞の文化欄に出てくるほど世間でも注目されていることを知った。機を見て敏に本書が出たので読んでみた。ヘルダーリン研究の偉業は圧倒されるが、社会思想で英米系にまで手を拡げる著者の多産性にはびっくりする。ただ本書は講義の書籍化だが、その変換処理がお手軽過ぎて、星3つ。取り上げられたジェイムズの本もデューイの本も、彼らの作品としてはかなりわかりやすい方なのに、ぶつぶつ区切って引用し注釈するものだから、却って読みずらくわかりにくい。ぶつぶつ区切った後の注釈は大半言わずもがなで、すこしうるさい。これが講義ならそうではなのだろうが。時々出てくる板書した内容が本書にも出てくるが、意味があるとは思えない。」

「変換処理がお手軽すぎる」、とはどういうことだろうか?これだけだと意味不明だが、文章の続き具合からすると、「取り上げられたジェイムズの本もデューイの本も、彼らの作品としてはかなりわかりやすい方なのに、ぶつぶつ区切って引用し注釈するものだから、却って読みずらくわかりにくい」ということを指していると思えるが、自分が何を言っているのか分かっているのだろうか? この人物は、古典の読み方を学校でちゃんと習わないまま、思い込みで古本屋商売をやっているのだろうか?
 名著・古典を読みながら、注釈を加えて行く講義形式の本は、結構昔からたくさんある。では、どういう所に注釈を付けるのか?あまり人文書を読んだことがない素人――読書に関して素人などという言い方を使いたくないが、古本屋Aのような、見当外れの玄人気どりは、素人扱いしてもいいだろう――なら、何を言っているのか皆目分からない難しい箇所について注釈を付けるものと思っているかもしれないが、それは思い込みである。ハイデガーやデリダの難解な本のいかにも難しそうな箇所を注釈する場合もあるが、その逆に、表面的に読んで分かったつもりになりやすい箇所について、気を付けて読むよう促したり、何の変哲もない表現の時代背景や文脈について説明することもある。どちらがより重要か一概には言えない。
 古本屋Aが「ぶつぶつ区切って」とけなしている箇所で、私はいろいろな注釈をしている。ジェイムズの『プラグマティズム』の冒頭に掲げられているミルに対する献辞の意味や、同時代の英国観念論とどういう関係にあったのか、ジェイムズが言及しているライプニッツの楽観的な宇宙観とはどういうものか、チェスタトンとプラグマティズムの共通性、デューイのプラトン像は通常の哲学史のそれとどう違うのか、デューイの一見素朴な民主主義観は古典的な自由主義のそれとどう違うのか……それらは決して言わずもがなのことではない。仮に古本屋Aがそれらについて全て知っていたとしても、自分が知っているからといって、「言わずもがない」であるなどと言い放つのは不当である。それは本を読むことを愛する人間の態度ではない
 恐らく実際には、私の注釈の多くは、古本屋Aの知らないことだけれど、あまり関心の持てないどうでもいいことなのだろう。古本屋Aは、「本書では、分析哲学や科学との関係は一番言及が多いのだが、講義が一般向けということもあって著者独自の見解というより、巷間流布された見解が多くその点も物足りない気がした」、と言ってくさしているが、例えば、オストヴァルトの化学上の議論とプラグマティズムの関係など、それほど一般的に言われていないことも指摘している。また、後にデュエム=クワイン・テーゼへと発展することになる、プラグマティズムとデュエムとの結び付きが、ジェイムズのテクストの具体的のどの個所に見出せるか指摘することは決して無意味ではなかろう。デュエム=クワイン・テーゼについて知っている人はさほど多くないだろし、それが元祖プラグマティズムとどう関係していたかまで知っている人はかなり少ないだろう。古本屋Aはそういうことに関心がないので、「ああ、また聞いたような話だな」、と思い込んで読み飛ばしたのだろう。
 古本屋Aは、私が主として扱った、ジェイムズの『プラグマティズム』とデューイの『哲学の改造』には解説がいらないと最初から決めていたようである――だったら、どうして解説が必要のないものを解説している本をわざわざ読んで、著者をくさすんだ!

 「デューイのほうは、なおこんな注釈が要らない。岩波文庫版はかなり分かりやすい。」

 古本屋Aはこういう偉そうなことを言っているが、私は先に述べたように、表面的に読んだだけでは気付きにくいことについてコメントしているし、『哲学の改造』の訳でおかしなところ、誤解を招きかねないところを何点か指摘している。全体の理解に関わる重要なポイントも含まれている。古本屋Aは既にこの本を全て分かったつもりになっているので、それらを無視したのだろう。というより、自分が分かったはずのことについて、「いや、そういう理解ではダメだ」、と細かく指摘する私がウザイのだろう。古本屋Aは、昨年の八月に『哲学の改造』についてアマゾン・レビューを書いているが、そこで清水幾多郎・清水礼子親子による訳を、以下のようにベタぼめしている。

「20世紀の初頭の日本講演の記録を清水幾太郎親子が達意の名訳を編んだ。デューイの英語はとても難解でろくな翻訳はないが、講演記録とあってとても読みやすかったし、内容は現代の我々の普通の感覚に近く、社会活動でも今となってはこういう思考が普通になっているだけに、『哲学書『として読むと却って意外感があり新鮮である。」

 分かりやすい訳によって、全て分かったつもりになっていた古本屋Aは、自分の理解をかき乱すような要因は、なかったことにしたいのだろう――この書き方からすると、清水幾太郎の崇拝者かもしれない。まったくもって、傲慢極まりない態度である。名著であれば、たとえ自分で理解したつもりになっても、他人の解説にも目を通して見ようという気にはならないのだろうか?古本屋Aは何のために読書しているのだろうか?言うまでもなく、私は、自分では分かったつもりの古典に関する他の研究者の解説や入門書を結構頻繁に読んでいるし、多くのまとも人文系の研究者はそうしている。素人の古本屋Aにそんなことを要求するのは酷だと言う人もいるかもしれないが、私は古本屋Aが、一番肝心なことを分かっていないくせに、研究者に説教しようとする傲慢な態度を取っていることに腹を立てているのである。。彼は、レビューの中で私の本の内容と関係なく、中公の『世界の名著』で仕入れたプラグマティズムに関する自分の知識を披露しているが、多分、それがやりたくて、私の本をダシにしたのだろう。
 一番根本的な問題として、古本屋Aの私に対する注文は矛盾している。
 
「ジェイムズなら『心理学の諸原理』、デューイなら『探求の論理』をもっと語らないとプラグマティズムとしては奥に入っていったきがしないし、ミードの言及が少なく、ジェイムズ~ミードのIとmeの関係、行動する自我としてのIが面白いと思うのだがこの辺りも言及がなかった。(…)現代日本の思想史や現代ドイツ哲学についての著者の本も読んでいるが、どうも気が多いのか総花的で物足らない。」

 ジェイムズやデューイの分厚い著作をもっと解説しろ、ミードも入れろ、と言っておきながら、その一方で、「総花的」で物足りないとはどういうことだろうか?そんなにいろいろ入れたら、もっと「総花的」になるではないか。「総花的」という言葉の意味が分かっているのか?以前、拙著『〈日本の思想〉講義――ネット時代に、丸山眞男を熟読する』(作品社)について、評論家の池田信夫が、「熟読と言いながら、『日本の思想』の解説に終始している。羊頭狗肉だ」、という正気を疑わざるを得ない“批判コメント”をしていた。池田も古本屋Aも、基本的国語力が中学生レベル以下だとしか思えない。
 多分古本屋Aは、私の理解が浅い、やっつけ仕事をしていると言いたくて、そういう結論に持っていくため、適当に理由を並べたのだろう。そのせいか、かなり読み飛ばしているようだ。ミードについて言及がない、と言っているが、これは嘘である。さほど長くないが、ミードについても当然言及しているし、ブックガイドにも入れている。また、別の箇所でも、明らかに読み飛ばした、と分かる見当違いの批判をしている。

「極めて語学は堪能なようだから、ブラドレーなど翻訳のない英国の著作にもっと言及し(言及されているところもあり、おっと思うが表層で通り抜ける)、プラグマティズムとの関係を考察し、もっと極限してもいいから、突っ込んだ議論にしたほうが却って、プラグマティズムの全体像に迫れたかもしれない。」

 ブラッドレーを含む英国観念論については、第一講と第二講でそれなりにスペースを取って解説している。「表層で通り抜けている」、という台詞を言いたかったのだろう。そもそも、デュエム、オストヴァルト、ヘッケル、ライプニッツについての解説はいらない、うざいと言っている奴が、どうしてブラッドレーの解説だけ必要だなどと言うのか?直前の『心理学の諸原理』や『探究の論理』、そしてミードも解説すべきだ、という言い分とも矛盾している。単なる思いつきで難癖を付けているとしか思えない。
 また、西欧の思想史を研究している学者に対して、「極めて語学は堪能なようだから…」というのは失礼な物言いである。私と親しくしている人の中にも、お世辞のつもりで、こういう失礼な言い方をする人がいるので、ここで指摘しておきたいが、こういうのは、プロ野球の投手に対して、「変化球投げれるんですって!すごいですね」、と言っているようなものである。外交官に、「えっ、ネイティヴが普通に話している英語を聞き取れるんですか。どうしてそんなことできるんですか!」、と言えば、侮辱だろう。そういう基本的な常識のない人間に、大学の教師は常識がないなどと言われると、本当に嫌になる。
 もう一つあまり本質的でないが、気に障ることを指摘しておく。古本屋Aは、私が講義中の冗談を挿入していることが気にいらないらしく、以下のようにくさしている。

「随所にユーモアを交えた著者の皮肉や批判があるが、こちらも、著者の気にしているあたりが、やや年甲斐がない印象が多く、講義ならそうは感じなくても、文字にすると印象が異なるのだろう。挿入しないほうがよかった。」

 こういうのは趣味の問題である。自分の趣味を絶対視して、押しつけるような言い分はおかしい。これらの挿入があった方が読みやすくていい、という読者も多い。そうでないと、同じ様な趣向の本を何冊も出せるはずがない。「やや年甲斐がない」というのは、どういうつもりだろう。古本屋Aには、何歳の人間はどういうような物言いをすべきだという明確な尺度があるようだが、「お前の常識を世間の常識であるかのように勘違いするな!」、と言いたい。古本屋Aのいくつかのレビューの内容や言葉遣いから推測すると、私よりも年が上、六十才以上の年寄に思えるが、いい年をして匿名で、偏見丸出しのコメントを書いて悦に入っているような奴が、よく他人に年寄の道を説く気になれるな、と思う。
 更にもう一つ、ついでに言っておくと、「古本屋」と「予備校教師」には、やたらと人文系の学者と張り合うとして、いろいろなことを言ってくる輩が多い。私も何度か迷惑を被った。当該の学者の学説とか、学問に対する基本姿勢とかを批判するのであれば、それなりに反論し甲斐もあるのだが、そういうことではなくて、「○○が□□を書いたのは何年か?」とか「▽▽が直接師事したのは■■か、それとも◆◆か」といった、クイズ的な知識の量を競ったり、その学者の著書に、その手のトリビアな情報が細かく記述されていないことをもって、その学者の無知の証拠にしようとしたりする――安倍首相の米議会スピーチに関する誹謗ツイートで騒ぎになった民主党のクイズ議員と同じような頭の構造なのだろう。とにかく、自分たちの方が知識の量という点で頭がいいことを証明したいのだろう。どういう人が学者としてすぐれているかについてははっきりした答えはない。私も正直分からない。ただ、少なくとも、クイズ脳・トリビア脳の人間が、学者に向いていないことだけは確かである。