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天皇について(18)「天皇主権説」と「君民共治の政治」 たけもとのぶひろ【第69回】– 月刊極北

天皇について(18)

たけもとのぶひろ[第69回]

美濃部達吉

美濃部達吉

■「天皇主権説」と「君民共治の政治」
 明治天皇の最期がさし迫ったとき、あたかも天皇の時代を総括するような二つの問題提起がありました。南北朝正閏問題と天皇機関説問題です。前者については前回すでに、朝廷の正統性とは明治政府の正統性の問題にほかならない、との視点から検討しました。ですから後者の天皇機関説がテーマです。それはそうなのですが、ぼくとしては、この問題にこのまま入っていくのではなく、その前に、この問題を問題たらしめている与件とか、問題をとりまく――思想的な・時代的な――背景とか、いわば “問いの周辺” みたいなことを調べて明らかにする、そういうところから始めたいと思うのです。別言すれば、天皇機関説が登場すべくして登場したのはどのような状況があってのことなのか、みたいなことです、問いたいのは。

 帝国憲法の解釈について「天皇機関説という問題提起」をおこなったのは、美濃部達吉・東京帝大教授です。それは、とりあえずひと言で言えば、 “天皇は統治権の主体ではなくて、統治権の行使機関にとどまる、統治権の主体は国家である” ということです。この説が為されるからには、それより以前に ”天皇は統治権の主体である、統治権は天皇に属する“ とする「天皇主権説」が主張されていなければなりません。つまり、「天皇主権説」というテーゼがあって、それに対するアンチ・テーゼとして「天皇機関説」が登場した、というのが事実の順序です。

 かねてより「天皇主権説」を唱えていたのは、穂積八束・東京帝大教授です(なお、美濃部教授と直接論争したのはやはり東京帝大の上杉慎吉教授で、彼らは「君権学派」と呼ばれます)。
 この説は実に単純です。すなわち ①統治権(主権)は天皇に属する、天皇が主権を保持し、かつ行使する。②なお、内閣を構成する国務大臣の任免権は、議会の関知すべからざるところであり、もっぱら天皇に属する。③内閣(政府)・国務大臣の権限が天皇に淵源する以上、内閣(政府)・国務大臣は天皇に対してのみ責任を負うものであって、議会に対する責任は発生しない。④天皇の統治権行使について、国務大臣が掣肘を加えてはならないのであって、その輔弼は必ずしも不可欠の条件ではない。これらがその主張です。
 以上の天皇主権説は、欧州の、とくにプロイセンの君主専制主義=君権主義を輸入して、日本の天皇制に適用したものと言われています。

 とまれ “国家とは天皇のことである、天皇こそが国家である” と言わんばかりの天皇主権説をかかげておれば、政府としては、政党・議会の動向に関わりなく、その外に超然と立つことができますから、政治は元老・藩閥政治家の思いのままです。つまり、天皇主権説の役どころは、政府の超然内閣主義者たちに対して理論的な拠り所を与えるという、この一点に尽きるのではないでしょうか。
 1910年代以降は、同じ君権学派の上杉慎吉教授などが、「天皇即国家」「神とすべきは唯一天皇」「天皇は絶対無限」「現人神」などと、気のふれたようなことを口走ることになりますが、それらは、上述の穂積教授の議論から出るべくして出てきたものと言えるのではないでしょうか。

 さて、しかし、君権学派が主張するように、天皇たるものは、議会・政党については――とどのつまりは国民に対しては――なんらの負うべき責任を有しないというのであれば、維新劈頭を飾ったマニフェストは単なる言葉の言い回しにすぎなかったのか、と疑う人があっても不思議ではありません。例えばということで、二つの事実を示します。
 明治政府は、1868年1月、いち早く条約締結国に対して、王政復古にもとづく統治体制(=天皇親政)を宣言しました。そして、ほとんど時をおかず3月には「五箇条の御誓文」を発し、同年閏4月には同上誓文の制度化をはかって「政体論」を発布しています。
 前者において政府は、第1条で「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と人口に膾炙する宣言をなし、 “天下の政治は広く世に意見を求めて決めなければならない” と誓っています。また後者において政府は、アメリカ憲法を模倣して「三権分立」の国家体制をとるべし、と約束したのでした。

 このとき明治政府は、天皇親政の名において天皇主権による統治を宣言しながら、同時に、立憲主義の理想をも語っています。欧米の立憲主義思想は、加藤弘之、西周、津田真道、福沢諭吉らが先んじて学び、世に広めており、その影響もあってか、政府の立法関係の機関においてさえ、立憲主義的改革(憲法制定・国会開設・国民参加)を構想する者もあったとされています。その流れを加速させたのは、遣欧大使岩倉視察団(1871年出国・1873年9月帰国)でした。視察団に参加した大久保利通らは、帰国して直ぐの10月、征韓論をめぐる政争を制し、11月には意見書を起草しています。

 その「意見書」において大久保たちは、自国の政治改革を求める立場から、「立憲主義の政治」を「君民共治の政治」というふうに自分たちの言葉にして言い直し、これをもって “政治の理想” としました。しかしあの強権的な大久保が、いきなり、どうして「君民共治」なのでしょうか。問題意識の原点は、万国対峙下にある日本の実践的至上命題――「文明開化」「富国強兵」――以外ではありますまい。極端な話、欧米視察から帰ったばかりの彼らの感覚からすれば、「君民共治」とは「文明開化」や「富国強兵」などとほとんど同意語だったのかもしれません。砕いて言えば、①欧米列強国と肩を並べる「強国」にならねばならない。 ②さもなければ不平等条約を撤廃させることはできない。 ③彼ら並みの「強国」になるには、彼ら流の政治を模倣してその実をあげるしかない。――「君民共治」とは、要するに、そういうことだったのではないでしょうか。

 一方、征韓論をめぐる上述の政争(73年10月)に敗れて野に下った板垣退助・後藤象二郎・江藤新平たちは、1874年の年頭早々に「民撰議院設立建白書」を発して自由民権運動の口火を切り、さらに1880 年には「国会期成同盟」を結成して、その後の国会開設運動の高揚に貢献したのでした。そして、それらの運動が立憲君主制とそのもとでの政党政治の実現を目指すなかで、自由党(板垣退助党首 1881年)が、続いて立憲改進党(大隈重信党首 1882年)が結成されていったことは、周知のところです。しかし、この民権派の動きがそのまま、 “現実の” 憲法制定および国会開設につながるほど、事柄は単純ではありませんでした。

 たとえば、ひとくちに「君民共治の政治」と言っても、いろいろです。①在野の民権派は、「君民共治の政治」運動を思い切り「民治」の方向へ持っていって、一気に国会開設と政党政治の実現へと突き進もうとしました。②他方、政府側を見たばあい、もともと欧米の思想に開かれた人もあったし、欧米視察からの帰国組もあって、「君民共治の政治」を理想とする議論はなされたでしょう。しかし彼らにとって、絶対的確信は「君治=天皇親政」にあるのであって、「民治」はいまだ理念でしかなく、その実践は将来の課題に属する、というのが一般だったのではないでしょうか。③最後に、ゴリゴリの藩閥政治家たち、権力の主流派は、「君治」あるのみであって、「民治」はない、「共治」などあるはずがない、というのがその立場だったと思います。

 以上において指摘したのは、「君民共治」という考えを一つの基準にして当時の政治の動きをみると、このように三つの流れに整理することができるのではないか、ということです。しかし、これでは単純に過ぎます。
 元老・藩閥政治の実相は、対立・抗争あり、妥協・同調あり、内応・結託あり、です。利害が渦巻き、事情が込み入り、紆余曲折し、離合集散するのが日常です。藩閥政治のこの種の悪弊が臆面もなく繰り広げられた時代というのは、その勢力分布が薩長土肥四藩連合から薩長至上主義へと大きく様変わりした時代であったということ、さらにまた、それは「憲法・議会・政党」ということが政治の主たるテーマとして問われた時代でもあった、ということです。

 次回は、この点について、具体的な歴史の事実に照らして検証していきたいと思います。