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天皇について(17)南北朝正閏問題をめぐって たけもとのぶひろ【第68回】– 月刊極北

天皇について(17)

たけもとのぶひろ[第68回]

後醍醐天皇

後醍醐天皇

■南北朝正閏問題をめぐって
 明治国家における天皇親政というのは、元老をはじめとする藩閥政治家たちが、自分たちの政治支配の実態を隠蔽しつつ正当化するために欠くことのできない、絶対の大義名分でした。前回の最後に、こういう趣旨のことを書きました。まずは、その「元老」について、知識を整理しておきたいと思います。

 元老とは「明治国家の建設にあたって尽力した功績ゆえに天皇から特別の処遇を受け、後継首相の推薦や重要外交問題への参画など国家の大事に関わり、最高指導者としての役割を果した政治家である」といった定義でよいと思うのですが、ただ、この定義に書いてないことで、この定義と同じかそれ以上に重要なことがあります。すなわち、元老という地位については、憲法にもその他の法令にも、何処にも何も書いてない、明文上の規定がない、ということです。早い話が、元老とは、憲法外の地位を有する、いわば超法規的な存在である、ということになります。ましてや、「藩閥政治家」という地位(存在)を明文化した法律があるわけがありません。そういう人たちが法律を作って操り、あるいは法律を無きがごとくに扱って、権力を恣にしていたのが、明治という時代の政治だった、ということではないでしょうか。

 名前を挙げてみておきましょう。①「元老」とは、はじめは伊藤博文・山県有朋・黒田清隆・松方正義・井上馨・西郷従道・大山巌の7名だったところに、桂太郎・西園寺公望の2人が加えられ9名となる、これで全員です。②最後の西園寺公望は公家出身ですが、あとの8名は全員が薩長両藩出身の藩閥政治家です。③明治の内閣総理大臣・首相は、ただ一人大隈重信を例外として、あとの全員が上記元老の中から出ています。伊藤博文・山県有朋・松方正義・桂太郎・西園寺公望です。④初代・伊藤博文内閣の閣僚10名は、旧薩摩藩出身者が4名、旧長州藩出身者が4名、旧土佐藩出身者、旧幕臣が各1名ですから、圧倒的に薩長主導の内閣です。⑤最後に特筆すべきは山県有朋。山県は、長州藩出身の藩閥政治家にして元老という地位を利用して、軍部(陸軍)・高級官僚・枢密院・貴族院などのなかに広大な人脈を築き、派閥の網の目を広げ、世に “山県閥” の名で呼ばれるほどの政治的影響力を誇りました。が、山県はこの種の政治家の典型であって、ほかの元老・藩閥政治家たちも同じ類いだったのではないか、と疑われます。

 言いたいのは、彼らのそもそもの出発点・原点、彼らの政治力の淵源がどこにあるのか、ということです。答えは、明治天皇です。彼らは明治天皇という金看板がなければ、単なるゼロです。つまり、彼らがどれだけ明治天皇の天皇親政に依存していたか、ということです。明治国家と言っても、彼らにとっては、「明治天皇統治下にある」国家というだけでは十分でない、明治天皇自らが統治する「天皇親政」国家でなければならない――これこそが彼らのホンネだったのではないでしょうか。

 この、天皇とは何であるのか、何でなければならないのか、という問いが問われる出来事が続いて起こりました。年表を見てみましょう(『日本史年表』東京堂出版)。

 1911年2月4日 衆議院で国定教科書の南北朝正閏問題おこる。
 1912年3月 美濃部達吉『憲法講話』。上杉・美濃部論争おこる。
 1912年9月13日 明治天皇大葬。(崩御は同年7月30日)。

 まさに象徴的です。明治天皇崩御の直前に、天皇とは何かを問う論争が二つ続け様に起こっているのです。これらの論争は、しかし、考えようによっては、すでに1909年10月26日の「ハルピン駅前における伊藤博文の暗殺」によって予言されていたのかもしれません。明治国家・明治天皇・明治憲法をはじめ、明治と名のつくもののすべての “産みの親” と言っても過言でない伊藤博文が死亡することで、この国は自らの来し方を振り返って自らを問い直さざるをえない、そういう局面を迎えていたのですから。

 今回は「南北朝正閏問題」をとりあげます。問題の舞台は小学校・国定教科書(制度化は1903年、教科書使用開始は1904年)です。いわゆる南北朝に関する記述が「南北両朝併記」になっている、それが問題だ、と大騒ぎになりました。
 事の起こりは妙なところでした。1910年、大逆事件裁判の法廷において被告人の幸徳秋水が発言しました。「いまの天皇は南朝の天子を暗殺して三種の神器をうばいとった北朝の天子ではないか」と。非公開の秘密審理だったはずですが、この情報がどこから漏れたのか、大審院が判決を下した1911年1月18日の翌19日、読賣新聞は社説で論じました。①教科書の「南北両朝併記」は国家分裂の因(もと)となりかねない、②「三種の神器」を所有していた南朝に大義名分がある、と。

 この社説が帝国議会衆議院に飛火します。両朝併記の国定教科書を非難する質問書が提出され、南朝が正統なりと決議されました。南北朝並立説を執筆した責任者の喜田貞吉は休職処分となり、教科書の記述は南朝正統論に変更されました。以上が、南北朝正閏問題と呼ばれる “事件” の顛末です。このうちの、どこが、大騒ぎするほどの問題だったのでしょうか。それは、明治の元老および藩閥政治家にとって南朝の正統性の問題が、そのまま自分たち自身の政治的正統性の問題だった、だから騒いだのでしょう。それにしても、何百年もの歴史を隔てて両者を結びつけたものは何だったのか。それを一言にして言えば、「尊皇論」ということに尽きるのではないでしょうか。以下、日本史の知識の整理です。

 第96代・後醍醐天皇(1288〜1339)は、北条氏の鎌倉幕府を討伐すべく決起します。しかし捕えられて隠岐に流され、にもかかわらず脱出して朝敵追討の宣旨を発し、ついには北条氏の幕府を滅亡に至らしめました。そのあと天皇は理想の実現を目指します。
 理想とは何か。「天皇親政の復活」であり、「天皇絶対主義のもとでの公武合体」ということです。しかし、その「理想」は、具体的には、武士による土地領有権を天皇の支配下におく、といった過激な政策を意味しました。こうなると武士の反発は必至です。歴史上に「建武の中興」と称される天皇政治は、挫折せざるをえませんでした。
 夢破れた後醍醐天皇は、吉野に潜幸して南朝を開きます。そして天皇の没後も半世紀余りは、南朝と北朝の対立抗争が続きます。なお、明治天皇以降の皇室は北朝の子孫ですが、神器を保有していた南朝を正統と認めているとのことです。

 元老・藩閥政治家は例外なく、若かりし頃から「水戸学」の影響下にありました。南朝正統論・王政復古論・天皇親政論・尊皇攘夷論・儒教的国体論の信奉者であった、ということです。その彼らの価値観からすれば、幕府とは(鎌倉幕府も江戸幕府も)、本来なら朝廷のもとに帰すべき権力を不当な武力行使によって奪いとった武家政権にすぎず、その権力は朝廷のもとへ奪い返さなければなりません。彼ら幕末維新の志士たちは、後醍醐天皇による打倒鎌倉幕府の権力奪還と同じ質の “正義の戦い” を、徳川幕府に対して挑まなければならない――そう確信していました。

 徳川幕府は朝廷(北朝系)を禁中並公家諸法度の統治下においていました(これについては記述の通りです)。別言すれば、朝廷(天皇と公家たち)は、幕藩体制の一部にまで貶められており、いわゆるアンシャンレジームの一角を構成していた、ということです。
 朝廷(北朝系)からの言い分としては、そうやってなんとか折り合いをつけてきた、ということでしょう。しかし、そのようにして幕府・将軍権力の支配下にあった天皇が、そのままで王政復古とか天皇親政とか、その種の統治権力の主体たりうるでしょうか。別の言い方をしてみます。幕府・将軍権力を倒す以上は、幕府のもとにあった朝廷もそのままでは存続を許さない、ということでなければならなかったはずです。このことは、1866年12月25日、孝明天皇が幕府最後の天皇として、36歳の若さで死ななければならなかったことと平仄が合います。岩倉具視による暗殺を囁く声は絶えることがありません。

 勤王の志士たちの決意は、あっさり言えば次の二点でした。すなわち、①幕府統治下の天皇および朝廷(北朝)の流れを断ち切り、新しい天皇を立てて明治天皇とする。②明治天皇には、後醍醐天皇(南朝)の再来として、王政復古=天皇親政の新時代を切り開いてもらう。――以上は、しかし、形というか理屈というか名分の話でしょう。その中身というか実際の、嘘も隠しもない話としてはどうなのでしょうか。
 既述のとおり、明治の御代を切り開いたときの天皇はいまだ少年でしたし、それも宮廷の後宮育ちの女の子のような少年だったのです。維新の志士たち・藩閥政治家たちの「天皇親政」論は、もちろんこの事実を百も承知の前提とした主張でした。彼らにしてみれば、それは当然でしょう。天皇が無力非力であるからこそ、自分たちが天皇に代わって――輔弼とか協賛とか言いながら――実質的に権力を行使して、この国の政治を仕切ることができるのですから。それが明治の元老・藩閥政治家たちの政治の本質だったということです。