- 明月堂書店 - http://meigetu.net -

天皇について(13)天皇のお披露目―姑息・狡知に過ぎる明治政府 たけもとのぶひろ【第64回】– 月刊極北


たけもとのぶひろ(第64回)– 月刊極北
天皇について(13)

東京行幸

東京行幸

■天皇のお披露目――姑息・狡知に過ぎる明治政府
 万国対峙の状況下で新しい「国家」を立ち上げんとする明治政府の前には、容易には越えがたい壁が立ちはだかっていました。先人は悪戦苦闘を強いられながら、 結果的には必ずしも報われませんでした。今回は、その悪戦苦闘ぶりをここに示して、ともに考えたいと思います。残念なことに、あまりにも姑息に過ぎるので はないか、というのがぼくの感想です。
 まずは、天皇の “見てくれ” の改造というより変革です。もともと女性化していた少年・睦仁天皇を「厳父天皇」「武断天皇」へと一変させるために、明治政府は何をしたか、です。
 ①②③⑤を、加納実紀代著『天皇制とジェンダー』(インパクト出版会 2002年)からの引用で、④を上田篤著『一万年の天皇』(文春新書 2006年)からの引用で紹介します。

① 1868年・1869年(明治元年・2年) 女性的少年天皇の「隠蔽」!
 「このとき、天皇睦仁は、「日本ノ父母」というにはあまりに幼い15歳の少年だった。しかも後宮の女の世界で育った彼は、髷を結い、白粉(おしろい)で化粧していた。ジェンダー不在どころか、女性性に染めあげられていたわけだ。
 そうした天皇を、近代国家の元首として民衆に見せるわけにはいかない。したがって天皇はずっと隠蔽されたままだった。」
 翌1869年の東京遷都にともなう東幸(=東京行幸 1869年3月7日~28日)のときも、もちろん人目に曝さないように「隠蔽」しました。
 「隠 蔽」とは「見られたり知られたりしては困る物や事を意図的に隠すこと」、と『新明解』にあります。バレると、やましい、うしろめたい、気がとがめるから、 隠そうと目論んだというのですが、明治天皇とはそういう存在だった、少なくとも、政府中枢の人間にとってはそういう存在だったということです。国民にとっ ては、嘘をつかれたとまでは言わないまでも、本当のことは言ってもらっていません。半ば騙されたも同然です。

② 1871年(明治4年) 服制改革
 この年の7月、政府は一方的に廃藩置県の詔を発します。それは、分権的幕藩体制の解体・権力の中央集権化による強国づくりへ向けて、その第一歩を踏み出したことを意味しました。これを機に、天皇も “見てくれ” を一新し、内外・朝野に対して新しい時代の始まりを告知してもらわなければ、というような気分が政府中枢にあって、そのあたりから “先ずは服装を!” みたいな話になったのではないでしょうか。
 案の定、政府は天皇にこう言わしめています。「神武創業、神功征韓ノ如キ、決テ今日ノ風姿ニアラズ。豈一日モ軟弱以テ天下二示ス可ケンヤ。朕今断然其服制ヲ更メ、其風俗ヲ一新シ、祖宗以来尚武ノ国体ヲ立ント欲ス」と。
 言わんとすることは――「今日ノ風姿」つまり衣冠束帯の和装は「軟弱」でよくない、もっと男らしく、「尚武ノ国体」を感じさせる洋装がいい、いっそのこと軍装にしてしまったほうがよいのではないか、みたいな話だったと思います。

③ 1872年(明治5年)~1885年(明治18年) 地方巡幸
 しかし、長い年月にわたりタオヤメをやってきた人間が、和服をやめて洋服・軍服を着たからといって、すぐにマスラオへと変身することができるでしょうか。できるはずがありません。つまり、服装を変えても、すぐには表に出せないということです。しかし、いったんは表に出さなければならない、と思いこんでいるとすれば、どうすればいいのでしょうか。隠した状態で表に出す、それ以外に手はありません。
 加納氏は書いています。「1872(明治5)年から13年間わたって実施された地方巡幸は、新たな支配者としての天皇のお披露目儀式であったが、彼自身は鳳贊(ほうさん)や御簀(みす)の奥に隠され、民衆が見ることができたのはその壮麗な隊列だけだった。しかし、そのことで神秘性と威厳を感じさせることになっている」と。

④ 1878年(明治11年) 大元帥の軍装で近衛師団を閲兵
 転機は、1877年(明治10年)の西南戦争・西郷隆盛自刃(9/24)だったかもしれません。敬愛する西郷を失ったところへ、大久保から武断政治の圧力がかかって来て、呼称もこれまでの「御門(みかど)」から「天皇」へと変わり、恋歌を詠むのもやめられたと伝えられています。「明治11年以後の天皇はカイゼル髭をはやし、軍帽を被り、軍服を着、軍刀を下げ、馬に跨がり、大元帥として近衛師団を閲兵した」とされています。
 髭を生やすのはいいとしても、なにも、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世(=カイゼル)から借りてこなくてもよいではないか、どうしても先端をぴんとはねあげた「カイゼル髭」にしないといけないのかと思うと、嫌な気がします。一事が万事ですしね。
 とまれ、明治天皇は大元帥として近衛兵の閲兵をはたしました。(「国家的国民」・エリート層の一部である)近衛兵の前には、正式に姿を現したということです。

⑤ 1890年(明治23年) 御真影の配布    
 「一般民衆に天皇が見えるものとなったのは、1890(明治23)年、いわゆる御真影の配布によってである。そこでの天皇はいかめしい海軍礼装に身を固め、眉は真一文字、みごとな口髭に顎鬚(がくす、あごひげ)までたくわえていた。
 <厳父>としての天皇のイメージはこの写真によってつくられたといっていい。
 しかしこの写真は生身の天皇を撮影したものではなく、イタリアの画家キヨッソーネ描くところの肖像画を、写真に撮ったものである。明治天皇が極端な写真嫌いだったためというが、おかげで理想的な君主像に仕上がった。」
 明治天皇がどういう姿形をしている人か、「臣民的国民」・一般民衆にお披露目するに際して、写真(=御真影)という媒体を使用することは当然だと思います。 天皇の写真といえば、誰だって天皇その人を写真機のレンズを通して撮影した写真だと思うでしょう。ところが、加納氏の指摘によると、明治天皇の御真影(写 真)は、写真家がレンズを通して見て、シャッター・チャンスを選んで撮ったものではない、というのです。
 まず、イタリアのキヨッソーネという画家に天皇の肖像画を描かせます。次に、写真家を呼んできて、その絵を写真に撮らせます。したがって御真影は、天皇その 人のありのままを撮ったナマの写真ではありません。天皇をモデルにして絵を描かせた、絵の中の天皇を撮った写真です。生身の天皇がいるのに、わざわざ絵描きに天皇の絵を描かせ、その、絵に描かれた天皇の写真を撮って、これが明治天皇だ、と言って広めた――それが「明治天皇の御真影」だというのです。
 ど うして、このような面倒くさい、ややこしいことをしたのでしょうか。絵に描かせた天皇の顔であれば、画家に対して、ここはもっとこうしろとかああしろと か、あれこれ注文をつけて、実際の天皇の容貌上の欠点を修正することができるし、「理想的な天皇像」をこしらえあげることができる、等々。
 より大きく・より強そうに・より偉そうに見せたいなんて、天皇に対して失礼でしょう。だいたい、絵を描かせて・それを写真に撮って拝ませる国が、いったいどこにありますか。 
 よ くもそういうことを思いつくものよなぁ、と感心します。その種の悪知恵に長けた人間がいたのでしょう。イカサマとか、ペテンとか、狡知とか――ぼくら日 本人というのは、そういう下劣なことをこそこそとやってしまうのだな、と思うと恥ずかしいです。口先では立派なことを述べるくせに、と。