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言葉マイナス意味 七司野寝子(第4回)– 月刊極北


七司野寝子(第4回)– 月刊極北
言葉マイナス意味

 学校の推薦入試や新卒の入社試験では面接を行うことがある。面接試験の質問で、「あなたの好きな言葉はなんですか?」というものが定番として挙げられる。そこでは、もちろん前向きな意味の言葉が求められている。そういうものに飽き飽きしている面接官へひとつ提案。「その言葉の《意味》は関係なしに、好きな言葉はなんですか?」という問いを投げかけてみてはどうだろうか。「『うし』のその二つの文字がそっぽを向いて、ちぐはぐであるような関係性……、それから……、そうですねぇ……、漢字であれば『映』の花が咲きそうな雰囲気など好きです」と答えてくれる人も、もしかしたら存在するかもしれない。
 でも、どうなのだろう。やはりこの問いは破綻しているのだろうか。というのも、《言葉》と《意味》は切り離せない関係であるかもしれないからだ。《意味》がなくなったら、それはもう《言葉》とは呼べなくなるのかもしれない。しかし、その問題が重要である前に大きな問題として、おかしな学校・会社だという評判が立ってしまうことが懸念されるのか。
 それにしても、《言葉》について考え、書いていると迷走する。《言葉》の内部にはまだ多くの何かが潜んでいるはずなのだが、《言葉》の表層的なものを考えたときも、そこから掬えるのは《意味》だけではない。たとえば、《字面》や《リズム》。《字面》という視覚的なイメージよりも《リズム》のほうが動的で身体的。だから、《字面》の好みは人によって違っても、《リズム》の好みにおける個人差はあまりないように思う。つまり、誰が聞いても心地よいリズムというものが存在するのだ。
 たとえば、七音、五音。日本語律文の代表のような存在である七五調。それに七音と五音を組み合わさることで短歌や俳句の形式は構成される。そうすると、なぜ七音・五音なのかということを考えたくなる。
それについては、坂野信彦『七五調の謎をとく 日本語リズム原論』(大修館書店)を読むと幾分すっきりする。八音でも六音でも定型になりうるリズムの良さはある。むしろ二音が一セットとなる日本語の性質からすると、こちらのほうが本来的であったりする。だけれど、八音や六音では、その全ての場合においてリズムが良くなるとは限らない。定型と名乗るためには、その八音、六音というルールを守ってさえいれば自動的にリズムを刻めなければならない。その点、七音、五音は都合が良い。いつでもあのリズムを打つことができる。
 では、そもそも、どのような構造のものが「リズムがある、リズムが良い」と言えるのか。そして、七・五調の「リズムの良さ」は理論的に説明されるものなのか。
 前述の本を読んで、七・五調のリズムの良さについて一応は私も納得している。でも実際、私は七五調にそれほど良い印象がない。それは記憶の問題なのかもしれない。中学生のときの和歌の暗記を強いられた思い出やマナーの大切さを訴えるような俗っぽい標語、そういう記憶がこびりついている。確かに七五調は、耳当たりが良い。だけれど、癇に障るのだ。
 そのイメージを塗り替えるためにも短歌について勉強をはじめた。五・七・五・七・七である。意味の句切れとリズムの句切れは必ずしも一致するわけではなく、そこにはせめぎ合い、葛藤がある。それが歌によって微妙なリズムの差を生じさせるらしい。単に五・七・五・七・七の形式に言葉を当てはめているだけではないのだ。
 おそらく目でリズムを感じることはできない。たとえば短歌がずらっと並んでいた場合、それらが短歌と知らされていなければ、五・七・五・七・七のリズムであることに気がつかないかもしれない。また、耳で字面は把握できない。どのような文字であるかを知らなければ、リズムから字面を思い浮かべることは、ほとんど不可能である。
 考え事をしているときの言葉には、字面はあるのだろうか、リズムはあるのだろうか。もしも、100パーセント《意味》の言葉だったら少し恐ろしい。言葉が字面やリズムに分散されないで意味だけに集中することが恐ろしい。そのどこに恐怖を感じなければならないかといえば、それもそうなのだが、過度なもの極端なもの、集中というものは恐怖ではあるまいか。