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天皇について(12)明治「天皇親政」の困難 たけもとのぶひろ【第61回】– 月刊極北


たけもとのぶひろ(第61回)– 月刊極北
天皇について(12)

神武天皇

神武天皇

■明治「天皇親政」の困難
 誰もが知っているように、幕末維新の志士たちは、まず「開国」を成功させ、しかるのちに「攘夷」の宿願をはたすしかない、との考えでまとまっていきました。「富国強兵策・強国路線」です。スローガンに「富国」「強国」とうたっても、当初は「国家」の建設さえいまだしの情況でしたから、そもそも、目指すところの「富国」「強国」とはどういう国家なのか? これを問うところから始めなければなりませんでした。この問いに対する明治の指導者たちの答えは、江戸幕藩政治・分権体制の解体と中央集権化、(装いは西欧風立憲君主政治、実際は中国風儒教的皇帝支配の)「天皇親政」、ということだったと思います。
 言葉だけなら即座に答えることができても、この答えをどうやって実現すればよいか――それは、暗中模索、成否のほどは予断を許しませんでした。

 指導者とその政府は未経験な若輩者であったし、天皇はいまだ16歳の少年だったのですから。その少年天皇に天皇親政の責を負わせるのは、いかに名目だけとはいえ――そして実質的には自分たち指導者が政治をやるにしても――余りにも荷が重いと言わねばなりません。政治の中枢が非常な弱点をかかえていたということです。だからこそ、彼らは、自分たちの無力さ・非力さを外部の者に知られることを恐れました。自分たちの真実の姿を隠し、たとえ偽ることになろうとも、自分たちの天皇親政を大きく強く見せなければ、と思いつめていたのではないでしょうか。
 そのことを肝に銘じていたからこそ彼らは、国家構築構想ののっけから、次のように考えたのだと思います。神武天皇的なものとアマテラス信仰的なものとの「二本立てでいく」と。明治天皇に二つの側面をもたせてそれらを一身に集中・体現させるしかない、と。

 しかし、権威権力というものは、「絶対」の「一」であるからこそ威力をもつのであって、実は「二つ」あるのだというふうに相対化されると、両者はどういう関係にあるのかとか、両者のうち決定的なのはどちらなのかとか――あれこれの問いがもやもやとわきでてきます。おまけに、話は神話です。本当のことは誰にもわからないわけですし。
 たとえば、まず「一」なるものがあって、その「一」なるものを「二つ」に分けて考え、然るのちに両者を結びつけて、いまいちど新たな次元で「一つ」のものとして考える、というのであれば、得心がいくかもしれませんが、もともと別々の「二つ」のものがあって、それを「一つ」にしたとなれば、別々のものがどうして「一つ」になるのか、「一つ」にすることができるのか、というふうに問わざるをえないでしょう。そういうことです。

 とまれ、先述の「二本立てでいく」とは、何を意味するのか――「二人の皇祖」を立てるということです。これまでの叙述と重なりますが、整理をかねて再論します。

 第一の「皇祖」は初代天皇=神武天皇です。「父なる天皇」(家族国家の家父長)を象徴する存在です。「良い子だけがわが子」とするのが父性原理です(河合隼雄)。ここで「良い子だけ」というのは、文明進歩において・国富競争において・強兵戦争において、つねに「勝つ子」「優秀な子」エリートです。神武天皇を皇祖とする明治天皇は、支配層・エリートたる「国家的国民」を励まし駆り立てる「厳父」です。

 第二の「皇祖」は天照大神=アマテラスです。「母なる天皇」(豊饒神・太陽神・女性神)を象徴する存在です。「わが子はすべて良い子」とするのが母性原理です(河合隼雄)。ここで「すべて良い子」というのは、わが子に悪い子はいない、たとえ悪い子であっても、みんな「平等に」「いついつまでも」わが「赤子」だ、ということです。天照大神を皇祖とする明治天皇は、「臣民的国民」の心を慰め癒す「慈母」です。

 明治政府は、権威・権力の因って来たる源を「二人の皇祖」に求め、両者を「明治天皇」という一個の存在のうえに重ねて映しだし、それらをあわせて一人の「明治天皇像」というものをつくりだしました。「厳父にして慈母」であるところの天皇像というものを印象づけたい――それが狙いだったのでしょう。それはたしかに「理想の天皇」なのかもしれません。しかし、天皇といえども一個の存在が、まったく別の、対照的な二つの顔をもつことができるでしょうか。言葉のうえなら可能なことでも、実際の実現可能性は限りなくゼロに近いことはいくらでもあるでしょう。その類いではないでしょうか。

 この回の冒頭においてぼくは――(装いは西欧風立憲君主政治、実際は中国風儒教的皇帝支配の)「天皇親政」、と書きました。言いたかったのは、西欧でいう意味での立憲君主制については “それらしい恰好” をつけることができればよいのであって、実際には中国王朝の皇帝統治をめざす――「天皇絶対主義」「天皇独裁」こそが、彼らの「天皇親政」だった、ということです。

 しかし、かえりみて疑問に思うのは、明治政府の「天皇親政」なるものが、この「厳父主義」とでもいうべき強権的統治に徹することができたかどうか、という点です。もしも、それができたのであれば、ただ神武天皇のみを皇祖として祀りあげれば済むはずですし、このほうがどれだけすっきりしたかしれません。しかし、それができなかった。
 だから、やむなく「皇祖の二本立て」「二つの顔をもつ天皇」「天皇の使い分け」を決意したのでありましょう。したがって明治政府の権力中枢としては、目指す「天皇親政」がどっちつかずで・あいまいな・要領を得ない統治にならざるをえないことは、覚悟の上だったのではないでしょうか。

 ここで問いを立てて考えておきたいことが二つあります。
 第1の問いは、天皇をいかに神格化しようと、また軍事的警察的支配をいかに強化しようと、この国では、そもそも「武断天皇」「畏怖すべき “厳父” による統治」ということ自体が 無理筋だったのではないか、ということです。
 その種の「男権主義的父性」は、この国には似合わない、あるいは馴染まないのではないでしょうか。いちいち威張ってみせなくとも備わっているのが「威厳」というものであって、それを感じさせるのが「厳父」という存在だとすれば、の話ですが。

 それは、よいわるいの問題ではなくて、この国の気風というか気質というか、その類いのものに関わっているような気がするのです。俗に、男を立てる・女が支える、対世間的には夫・妻は内助の功、などと言います。これを外から見るかぎり、男のほうがエライようにみえますが、その内情は、支えて助けているのは女のほうで、男は支えてもらい助けてもらって、立っていることになります。したがって、男のほうが女に依存していることにならざるをえません。
 このような男女のあり方は、のちに議論するように縄文時代以来の歴史に裏づけられており、神様であろうが天皇であろうが、ひとしなみに貫徹する法則みたいなものであって、もちろん明治天皇とその政府についても該当します。ゆえに、明治天皇には、どうしても男女二人の皇祖が必要であったのかもしれません。

 第2の問いは、上述の「どっちつかずで・あいまいな・要領を得ない統治」についてです。
 その時・その場に応じて「厳父」であることも「慈母」であることもできる、変幻自在で正体がつかめません。「厳父」にして「慈母」、「慈母」にして「厳父」、ということは、両者の間には隔ても区切りもなく、融通無碍、融けあってしまっているのかもしれません。だとすると、正体はつかめないのではなくて、もともと正体などというものはないのかもしれません。その “正体なき天皇” によって統治されていた国民は、どのように統治されていたのでしょうか。
 残念ながら、明治天皇ではなくて昭和天皇時代の証言ですが、いずれにせよ本質的な違いはないものと考え、茅辺かのう氏の文章から二つ紹介します。(同氏 「「天皇」に対置し得るもの」、加納実紀代編『女性と天皇制』思想の科学社1979年 所収)。

①「天皇は国家であり神であり道徳の権化であり国民全体の親であって、家族でもあった。こういう説明を、そのころの子供たちは小学校へ入るなり繰り返し教えられていたわけだが、それは、信じるかどうかの対象にしてもいけないものだったのだから、一方的にただ聞いているだけであった。が、うかつに近寄ると危ないものだということは感じられた。」

②「私が、あいまいな天皇像と感じたのはこの家と学校とにあるもので、たてまえを押しつける側と押しつけられる側とが明白な事実をはさんで黙契を交わしていた構図が私にはみえるのである。教師は天皇について話しながら、子供たちがそれを作り事だと気づいていることを知っていた。そして互いにそれを口に出さないという了解がなりたったところに天皇像があった、こういう二重性をもつあいまいさである。」

 二つの問いについて考えてきました。明治の天皇親政は、悪戦苦闘です。日本が国家たらんとした明治という時代そのものが、解決不可能な無理難題を吹っかけてきます。そのなかを、先人たちはなんとかしのいで通り抜けようと知恵をしぼります。ですが、筋道が通らない。統治の実際を得心のいく展開とせんがための努力は、必ずしも報われませんでした。次回、具体的な事実でそのことを検証します。