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天皇について(10)明治天皇―二つの顔をもたされた天皇 たけもとのぶひろ【第59回】– 月刊極北


たけもとのぶひろ(第59回)– 月刊極北
天皇について(10)

明治天皇、1872年(20歳)

明治天皇、1872年(20歳)

■明治天皇――二つの顔をもたされた天皇
 日本の消極的凹型文化について、日本人の国民性について、その女性的性格を論じてきました。それよりも前に、天皇の女性性についても議論しました。いま一度、その文脈にたちもどって再論してよいのではないか、そういう流れになったような気がして実はホッとしています。

 次の点を思い起こすところから、あたらしく始めたいと思います。
 ①慶応から明治へと改元される1868年、拝謁を許された二人の英国人外交官は、16歳の少年天皇について、女性の顔つきだったし、衣装や物腰も宮廷婦人のものだった、と証言しています。
 ②また、幕末の米国総領事タウンゼント・ハリスの日記(1858年1月27日付――当時は孝明天皇)には、ふつうの日本人は天皇に対して崇敬の念を抱いているものの、幕府役人など支配層の人間は天皇を、なんの価値もない「名ばかりの人」と馬鹿にしきっている、と書いてあるそうです。
 ③これらから察するに、幕府の管理・支配下にあった天皇は、生死をふくめて――たとえば、明治天皇の父親の孝明天皇は岩倉具視に暗殺された、とする噂が囁かれています――その存在自体、いかようにでも利用できる、この上なく便利な “支配の道具” “政治利用の対象” であったことがうかがえます。

 では、幕末維新の志士とか公家などの、明治の指導者たちは、日本国をたちあげてその富国強兵策・強国路線を貫徹するうえで、少年天皇をどのように政治利用したのでしょうか。
 彼らは、天皇を「元首」に祀りあげて「天皇親政」を宣言し、統治理念として「一君万民」「一視同仁」をかかげ、「天皇の国民、天皇の日本」をめざす、としました。
 これらの美辞麗句は、 “天皇幻想” みたいなものを思い切り膨らませるのが、狙いです。実際に政治を仕切る輔弼・側近政治家たちとしては、「たてまえ」を膨らませるだけ膨らませておいたほうが実際の物事はやりやすいわけですから、あらかじめその種の暗黙の「申し合わせ」があって当然です。ないほうが不思議です。

 問題なのは、半ばお飾り同然に使われた、上記の言葉のもつ威力です。すべての政治・政策上の決断とその結果は、天皇の元首としての統治行為にほかならず、批判などは畏れ多くてできるものではない、となります。この仕組み自体が「天皇の政治利用である」と言わなければなりません。

 以上は、これまでの議論の復習です。これが明治の政治を理解する基本だと思います。
 では、上記の政治の仕組みのもとで、側近政治家・指導者たちは何をしたのでしょうか。
 最初の問題は、担ぎ上げた神輿の上の天皇をどうするか、です。

 先の米国総領事ハリスは、江戸時代の天皇について、民衆にとっては「崇敬」の対象、支配層にとっては「軽蔑」の対象、とみていますが、前者については正確さを欠いているようなので、その点を補っておきます。前者の「崇敬」は、民衆のあいだに広く深く根づいていたアマテラス信仰についてのものではないか、ということです。
 たしかに天照大神は天皇家の祖神とされていますが、そのことさえ知られていなかったかもしれませんし、天皇についても、京都の住民を別にすれば、誰も何も知らなかったと言われています。天皇は、京都の御所の中に閉じこめられたも同然だったのですから。

 これらのことは先刻承知の明治の指導者たちは、そもそもの最初から、「天皇」問題を二つに分けて考えていたものと思われます。すでに詳述したように、彼らは国民を臣民的国民と国家的国民の二つに分けました。教育システムも初等・中等・軍隊教育と高等教育の二つに分けました。同様に、元首たる天皇についても二つの顔をもたせた、ということでありましょう。それぞれに問題があります。
 一つは、はなからバカにしてかかっている役人など支配層に対して、どういう天皇像を提起するか、ということです。いま一つは、天照大神を尊崇してやまない民衆に対して、そのアマテラス信仰を天皇崇拝へと結びつけるにはどういう具合にもっていけばよいか、ということです。

 慶応から明治へと元号をまたぐ1868年、つまり明治政府始動のその年に、指導者たちは早くも、この二つの難問に手をつけています。

 まず前者について。役人など支配層に対して明治政府は、1月のど頭で宣言した「王政復古の大号令」のなかで、「諸事神武創業之始ニ原キ」との文言を述べています。「神武天皇」の名前を持ち出したのは、九州の日向から東征し大和を平定したとされる「初代天皇」の名前によって、明治天皇の権威づけをはかり、睨みを利かす魂胆です。ちなみに、明治4年(7〜11月)の廃藩置県の際も、天皇へと権力を集中させる国づくりを進めるにあたって、まるで “殺し文句” 同然の扱いで「神武創業」という文言を使っています。

 次に後者。民衆の人心収攬についても、明治政府は素早く動いています。天皇と国民の関係をどのように説明したか、これが問題の核心です。二つ指摘があります。
 ①1868年も、元号がいまだ慶応だった段階で、天皇は自分のことを国民の親である、実際には「億兆の父母」である、と書いたという、そういう「宸翰」(しんかん、天皇自らが書いた文章)があるそうです。ほんとうは岩倉具視か誰か、そのあたりの人間が書いたのでありましょうが、それはともかく、明治政府は、天皇と国民の関係を「親子関係」になぞらえ、日本を「家族国家」であるかのように思いこませようとしたということです。
 ②さらに翌1869年にも、明治政府は、「一尺ノ地一人ノ人民モ、ミナ天子様ノモノニテ、日本国ノ父母二マシマセバ」として、同様の議論をくりかえしています。ただ、ここでは一歩ふみこんで、「天皇・人民の親子関係=明治家族国家」論の根拠を示しています。明治天皇は「天照皇大神宮様ノ御子孫」なのだから、と。(いずれも、1869年「奥羽人民告諭」にある文言の引用です)。

 要するに、明治政府は、役人ども支配層については神武天皇の威光にすがって服従させ、民衆掌握についてはアマテラス人気にあやかろうとしたのです。しかし、この “企み” は必ずしも成功したとは言えないのではないでしょうか。なにしろ、両方とも “神話頼み” というか、極端な話、歴史の事実とは別次元の ”単なる主張” “夢物語” の域を出ないわけですから。ここでは、その弱点のあらましを指摘するにとどめます。

 前者について言えば、政治や戦争を得意とする神武天皇は、いくらなんでも、いまだ女性も同然の少年天皇に似合いません。無理があると思います。この違和感を、政府指導者たちはどういうふうに解決するつもりなのでしょう。
 また後者の「天皇・人民の親子関係=明治家族国家」論については、もっと困惑します。国家の本質に関わることを「親子」だとか「家族」だとか、この種の “比喩” でもって定義する国が、この地上のいったい何処にあるでしょうか。加えて、この定義の根拠は、明治天皇が「天照皇大神宮様」という神様の「御子孫」だ、という点にあるらしいのです。
 この定義とその根拠について疑問に思うことがいくつもあります。それらのことを、まずは得心がいくように説明できなければなりません。
 次回を期したいと思います。