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天皇について(7)西洋列強と日本~西洋文明と日本文化(2) たけもとのぶひろ【第56回】– 月刊極北


たけもとのぶひろ(第56回)– 月刊極北
天皇について(7)

今月のラッキー

今月のラッキー

■西洋列強と日本~西洋文明と日本文化(2)
 明治の先人たちは、驚異的な貪欲さでもって西洋文明を受容し吸収しました――その情熱・その努力は何ゆえであったか、また、そうした力はいったいどこから出てくるのか、これらのことについては前回すでに議論しました。
 また、日本人エリートのそうした努力について、当時来日していた西洋人たちはどのように見ていたのか、そのことについても、おおよそのところは前々回にふれておきました。――日本人は物質主義・現世主義の度が過ぎており、西洋の精神的なもの・宗教的なものがわからないし、わかろうとしない、どうもそういう印象らしい、と。

 彼らのそのような感じ方を紹介しながらぼくは、ある種の違和感をもちました。物質主義的なのは逆に彼ら西洋人のほうであって、精神的なものを大事にしてきたのはむしろ日本人なのではないか、という “反発” があったからだと思います。よくよく考えると、何をもって精神とするかの問題なのでしょう。彼らには彼らの唯一神に由来する精神的価値があるように、ぼくらにはぼくらの精神的な価値があって当然です。そういう思いからぼくは、前々回の終わりに、とりあえず結論めいたことを、こう書きました。――「これはもうキリスト教という一神教の存在に尽きるのであって、彼我の違いには如何ともしがたいものがあるのではないでしょうか。彼らは「絶対」の「一」へ向かって生きてきたのに対して、我々は「八百万の神々」「草木国土悉皆成仏」の世界に生きてきたわけですから」と。

 今回は、この彼我の違いについて、いま少し掘りさげて考えてみたいと思うのです。彼我の違いをより明らかにすること、それはとりも直さず、ぼくら日本人自身を知ることにつながるはずだと思うからです。渡辺京二氏の前掲書『逝きし世の面影』に何人もの西洋人の日本人観が紹介されています。三つ選んで、以下に引用します。

 • バード(Isabella Lucy Bird 1831-1904 旅行家・探検家『日本奥地紀行』、当時外国人が足を踏み入れることのなかった東北地方を馬で縦断した英国女性)
 「(日本人の)最高の信条はむき出しの物質主義であり、目標は物質的利益であって、改革し破壊し建設し、キリスト教文明の果実はいただくが、それを稔らせた木は拒否する」
 • オールコック(Rutherford Alcock 1809-1897 初代駐日英国公使 主著『大君の都』)
 「(日本人は)崇高な原理やロマンチックな幻想や活動的な没我的信仰によってすこしも啓発されない、本質的に下劣」であって、「かれらの知的かつ道徳的な業績は、過去3世紀にわたって西洋の文明国において達成されたものとくらべてみるならば、非常に低い位置におかなければならない」

 • ブスケ( Georges Hilaire Bousquet 1846-1937 1872明治5年から76年まで司法省顧問として在日した仏人)
 彼によれば、日本の社会にはすぐれてキリスト教的な要素である精神主義、「内面的で超人的な理想、彼岸への憧れおよび絶対的な美と幸福へのあの秘かな衝動」が欠けており、おなじく芸術にも「霊感・高尚な憧れ・絶対への躍動」が欠けているのである。そのことと、日本語が「本質的に写実主義的であり、抽象的な言葉や一般的で形而上的な観念についてまったく貧困である」ことは、密接な関係があるとブスケは考えていた。

 ほんの数行の上記の文章ですが、そこには、西洋人には生まれつき備わっているが日本人には欠けている美質――と彼らが信じこんでいるもの――が、これでもかこれでもかといわんばかりに噴出しています。曰く、「崇高な原理」「ロマンチックな幻想」「活動的な没我的信仰」「内面的で超人的な理想」「彼岸への憧れ」「絶対的な美と幸福」「霊感」「絶対への躍動」等々と。
 これらの美しげな言葉・観念はすべて、唯一絶対の神への信仰から発しています。その信仰によると、人間とは、「唯一絶対の神・キリスト」によって、この世の万物のなかから、「特別」に「神の代理人」として「選ばれ」、「万物の上に君臨する」ことを許された――そういう存在だ、ということらしいのです。

 神により霊魂を与えられ、神から祝福されているのが、ただ人間のみであるとしたら、人間は神の意を体して、万物・自然に働きかけて改造し、積極的に万物・世界を変えていかなければならない、それが人間の使命だ――そういうリクツにならざるをえません。
 唯一の神をおのが後見人として独り占めにし、その金看板のもとで万物(自然・世界)に対してフリー・ハンドの振る舞いに及んでよしとする、まぁ、呆れるほど傍迷惑な人間至上主義ではあります。

 彼ら西洋人の文明・文化の、そうした側面は、彼らの言葉の使い方にも表れています。英和辞典をみると、たとえば state of nature は、「未開・野蛮の状態、野生、(宗教的には)天恵に浴さない罪人の状態」とあります。これだと、natureは “文明による改造” の対象であり、”矯正” の対象ですらあります。また native という単語があります。その国・土地に生まれた、という意味ですが、白人の世界観からすると、土着民・原住民・土人を指します。やはり、積極的に働きかけて文明化・近代化すべき対象です。彼らの価値観では、natureにせよnativeにせよ、否定・改造の対象であって、それ自体が尊い、という感じ方はもちろんありません。

 ところが、ぼくら日本人は、人間だからといって自然よりも立派だとか尊いというふうな、人間を特別視する考え方にはそもそも馴染めませんでした。万物・自然のもとで、人間もそのメンバーとして、ほかの生きとし生けるものたちとともに自然の富を享受し、ひとしなみに生きてきたわけですから。何千年も前から。宗教と言ってよいのかどうか、神様も八百万の神々を崇め、仏様も草木国土悉皆成仏を信じて、生き生かされてきた、長い長い歴史を考えると、唯一絶対の神の代理人として生きてきた人たちとは、文化の質みたいなものは自ずから違ってくるのではないでしょうか。

 このように書くと、西洋人たちは得たりとばかりに決めつけてくるでしょう。 “それだと日本人は、自然と同じじゃないか、人間になっていないじゃないか” と。あるいは次のように言うかもしれません。 “ヒトが人間になるには神様の存在が必要不可欠であるのに、キミタチ日本人には神様がいないじゃないか” と。
 西洋人の言わんとするところをぼくなりに噛み砕いて言うと、こうなります。
 “ 我々西洋人は神様から、一人一人が別々に、その人その人の「精神」spiritをインスパイアーしてもらっている。肉体という名の自然に、神様が「心」ないし「魂」を吹き込んでくれているのだ。我々はそういう存在だからこそ、「一人」という「存在」にかけがえのない価値があることを確信できるのだし、であればこそ「個人の人格」というものに侵すべからざる尊厳を認めることができるのだ“ と。

 彼らの言う通り、「一人」「存在」「個人」「人格」などの概念は、「唯一絶対の神」への上記のような信仰(=キリスト教)があるからこそ、成立するのかもしれません。そして、「自由」「平等」などの価値にせよ、「民主主義」や「ヒューマニズム」の理念にせよ、それらが生まれてきたのも、やはり「唯一絶対の神」への信仰があってのことなのでしょう。
 これらの概念についてはそれなりに解る気がするのですが、それはアタマの理解であって、自分自身のものとして身に沁みて得心がいっているかというと疑問です。

 彼我の隔たりについて考えてきました。しかし、隔たりは隔たりのままです。この隔たりについて、どう考えればよいのか――もう一度だけ次回に、考えてみたいと思います。