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天皇について(6)西洋列強と日本~西洋文明と日本文化(1) たけもとのぶひろ【第55回】– 月刊極北


たけもとのぶひろ(第55回)– 月刊極北
天皇について(6)

今月のラッキー

今月のラッキー

■西洋列強と日本~西洋文明と日本文化(1)
 このあと前回を引き継ぐ形で、いくつかの論点について議論を続けたいと思います。

 最初に問いたいのは、西洋列強との戦争が不可避であったということを書きましたが、いったいどこまで不可避であったのか、ということです。この点については、上山春平先生の前掲書『憲法九条――大東亜戦争の遺産』(明月堂書店 2013)第一章「大東亜戦争の思想史的意義」に、次のような指摘があります。(図1、『憲法九条――大東亜戦争の遺産』)

図1、『憲法九条――大東亜戦争の遺産』

図1、『憲法九条――大東亜戦争の遺産』

 「ここに、明治維新から大東亜戦争にいたる開国日本のコースが、ほぼ的確に描きだされている。開国にふみきることは、封建制の廃棄(明治維新)→産業革命(開国・富国強兵)→後進国の侵略(日清・日露戦争)→先進国との衝突(大東亜戦争)、というコースを、ほとんど論理的な必然性をもって含意していたのである。
 したがって、右の論理をみとめるかぎり、日露戦争や大東亜戦争の否定は、維新や開国の否定を意味し、それは、奇妙なことに、幕末の段階における攘夷の道の選択を支持することを意味する。しかし、この道をつらぬくことは早産の大東亜戦争を意味し、植民地化に道をひらく可能性をはらんでいる。
 幕末から大東亜戦争にいたるまでの段階では、軍備なき国家は国家の否定を意味し、植民地化を意味した。しかるに、軍備をたくわえ、主権国家を確立し、産業革命をやって、先進資本主義諸国と利害が衝突するにいたれば、有効な国際機構のない状況下では、戦争に訴えるほかに道はなかったのである。」(改行と()は引用者)

 19世紀の幕を開ける以前から、英・米・露・仏・蘭など西洋列強は、断続的に日本に来航し、薪水を乞い、通商を求め、開国を要求ないし勧告していました。そして1853年、米国使節ペリーが黒船の艦隊を率いて浦賀に入港し、軍事的威嚇の挙に出ました。これに追随して、他の列強諸国の軍隊も押し寄せてくるなか、日本は “攘夷か開国か“ をめぐって内戦状態に突入しました。開国といっても攘夷のための開国ですから、幕末維新のこの時代から、主権国家の体制を整えてゆく間もずっと、休むことなく日本は、戦争国家への道を選びつづけてきたことになります。日本の弱さに思いを馳せるとき、日本の戦争回避は極めて困難だったと思われます。

 次に、日本を待ち構えていたのが西洋列強相手の戦争だとすると、彼ら側の文明の利器を用いずして戦うことの結果は火を見るよりも明らかです。西洋文明の受容・吸収・同化が戦争勝利のための必要最低限の条件となります。日本は最低限度のその必要条件を満たすために必死の努力をしました。しかし、そういう努力はいったいどうしてできたのでしょうか。西洋文明の受容・吸収・同化のために努力をする、努力ができる、それだけの素地なり下地といったものは、いったい日本の歴史のなかで、どのようにして形成されたのでしょうか。
 この点についても、上山春平先生前掲書における「日本文化起源論(民俗学)」に学びたいと思います。先生の言説は、日本文化の起源を、弥生時代・稲作農耕文化(柳田民俗学)ではなくて、縄文時代・狩猟採集文化に求めるものです。以下に引用します。

 「私は、弥生文化よりも、それに先行する縄文文化に注目したい。つまり、農耕文化ではなく狩猟採集文化に日本文化の原型を求めたいと思うのだ。(中略)縄文文化は少なくとも4,5千年間にわたる幅をもち、紀元前3000年前後に頂点に達するが、その頂点をなす中期縄文文化は、おそらく、人類史上における狩猟採集文化の最高度の達成ではないか、と私は考えている。」その「数千年間にわたる異常に高度な狩猟採集文化の過程において、自然性を原理とする日本文化の原型がつくられ(たのだ)。」(上山前掲書)

 先生の上述の議論を反芻すると、こうなります。――日本文化の原型は縄文文化にあります。縄文文化とは「縄文土器・定住生活」文化を意味し、その本質は狩猟採集文化です。(図2、縄文時代草創期)

図2、縄文時代草創期

図2、縄文時代草創期

 縄文時代の人間は、獣や魚介類、草や木の実などを、狩猟・漁労・採集して生き、死しては土に還り微生物に食してもらいます。それはもう、他の生き物たちが食物連鎖のなかで生き死にするのと選ぶところがありません。つまり、他の生き物が自然であるように、人間もまた自然であるわけです。人間は自然の一部であり、自然と合体し、同一化しています。日本人はこのように、あらゆるものを “自然から貰い受けて生きてき” ました。つまり、日本文化の核心をなすものは、この、狩猟採集性=自然性にこそある、受動性にある、と先生は論じておられるのです。

 だからといって、日本人が文明に対して鈍感だとか無関心であるとか、そういうことではありません。反対です。外から渡来してくる新しい文明に対して日本人は――それがどのような種類の文明であろうと、猛烈な好奇心をもって迎え、熱心に受容・吸収・同化しようとします。外からやってきた文明は、当初のうちはやはり異物の域にとどまっていますが、日本人の長年にわたる受容と吸収の努力によって、ついには同化され、日本人自身のものとなります。つまり “日本文化における自然” となります。仏教がすっかり日本文化となるのに 5,6世紀の時間が、儒教は1,2世紀の時間が、かかっています。

 以上のような外来文化受容の歴史があるところへ、黒船浦賀入港という、軍事的のみならず文明史的事件が起こります。どうなるか。上山先生前掲書から引用します。
 「18世紀の後半ころまでには、大陸伝来の外来文化として受容された仏教や儒教のような東ユーラシア系の思想体系の吸収・同化はほぼ完了しており、黒船の威嚇を先駆としておしよせたニュー・フェースの西ユーラシア系文化にたいして、新鮮な受容の熱意を感じうる条件が十分に成熟していた。」
 すでに触れたように、来るべき西洋列強との戦争に勝利するための必要最低限の条件は、「西洋文明の受容・吸収・同化」にありました。そして、その受容条件は「十分に成熟していた」ということです。日本が物凄い勢いで西洋文明に食らいついて、その成果を貪るように喰らったことは言うまでもありません。

 では、西洋文明の何をどのように受容したのでしょうか。また、何をどうして受容しなかったのか――ここらあたりのことを、次回には考えたいと思います。