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天皇について(5)明治天皇制国家を考える(3) たけもとのぶひろ【第54回】– 月刊極北


たけもとのぶひろ(第54回)– 月刊極北
天皇について(5)

『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー版、2005年)

『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー版、2005年)



■明治天皇制国家を考える(3)

 「国家的国民の余儀なき選択」
 前回、明治の教育制度について考えました。それは、初等・中等教育と高等教育をはっきり二分することによって、「臣民的国民」と「国家的国民」という、二つの国民を造りだす制度でした。この選択がこの国のあり方を大きく歪める因(もと)となった、少なくともその原因の一つであった、と言ってよいと思うのです。それはそうなのですが、そうせざるをえない事情があったことも指摘しておかないと、伊藤博文はじめ明治の指導者たちに対して著しく公平さを欠くところとなり、ひいては歴史の事実を見誤るような気がします。そこのところを考えたいと思います。

 まず、時代状況です。幕末以降の日本は、当時の言葉でいう「万国対峙」の状況下にありました。今風に言うと、いわゆる欧米列強の外圧下にありました。彼ら列強は、いまだ国の体をなしていない幕府を騙して治外法権(領事裁判権)を盗み取り、あまつさえ、自分たちの利害得失で決めることができるはずの関税自主権まで召し上げました。これら不平等条約は明治にまで及び、引き続き日本の近代を圧迫する “重し” として我々を苦しめたのでした。まさに喰うか喰われるかの植民地化の危機にあったということです。ですから、「中央集権国家の建設=富国強兵策の推進」は選択の余地なき絶対の至上命令でした。
 夏目漱石はそれを評して「善悪以前の強制力の所産」と言ったそうです。「ただそうせねば生存できなかったから」だと。

 次に、政治とか権力に対する民衆の対処のし方を見てみましょう。興味深いのは、諸々の対立が武力闘争に及んだばあいの、西欧(封建社会・絶対王政)と日本(鎌倉幕府以降・侍の時代)の違いです。 “いざ戦” となると西欧では、貴族だけでなく町人や農民など領域内のあらゆる民衆が城壁の中へと集結し一丸となって戦い、運命を共にしたそうですが、日本では侍(武士)のみが戦い、農民など民衆は城壁の中には入らず、山の上など安全地帯に避難し、勝敗が決した後に、勝利した側に着くのが常道だった言われています。

 明治改元の前夜・戊辰戦争のときも、西郷さんを自刃に追い込んだ西南戦争のときも、民衆の立場は全くの “我関せず” だったとのこと。それどころか、前後しますが、英・仏・米・蘭の四カ国艦隊が長州藩を攻めた馬関戦争のとき、長州の民衆は外国軍の弾運びをしていたそうです。
 政治については自分たち下々の者は与り知らない、ましてや戦争などご免こうむる――というのが、日本の民衆の当たり前の感覚だったと思われます。

 明治になってさえその調子であった日本の民衆が、はたしてそのままで「国民」たりえたでしょうか。「国民」以前の日本の民衆を「国民」に変え、日本を「国家」――それも強国――たらしめるには、どうすればよかったのでしょうか。「上から」「天皇の名を騙って」でも国家権力を発動し、「臣民的国民」を製造するしかない――明治の指導者たちがそう考えたとしても、それは無理からぬ決断だったのではないでしょうか。

 他方、当時の日本人エリート・知識人たち――上級教育を受けた「国家的国民」――は、どのような状況にあったのでしょうか。彼らとしては、最短時間でもって、日本を国民国家として建設し、欧米列強に伍してゆかねば――というほどの使命感は抱いていたと思います。どうすればよいのか。彼らは次のように考えていたにちがいありません。西洋近代文明が産み出した――法律・制度・産業・技術・学術・芸術・宗教など、すべての所産をそっくりそのまま輸入して自分たちのものにする。別言すれば、自分たちが自らを空しくし、進んで西洋文明を受け入れ、彼らの文明と同一化する――それが唯一最上の策でないにしても、その道を選ぶしかない、と。

 ここに、渡辺京二著『逝きし世の面影』(葦書房 1998年)という書物があります。著者は、幕末から明治にかけて日本を訪れた西洋人が書き残した膨大な量の手記・手紙・論文などを渉猟し、彼らが当時の日本をどのように見たか、それを伝える文章を紹介しておられます。その中に、たとえばこういう証言があります。
 • チェンバレン Basil Hall Chamberlain 1850-1935(1873(明治6)年に来日、英国人日本学者、海軍兵学寮御雇教師、帝国大学文科大学教師、主著『日本事物誌』)。
 「一般的に言って、教育ある日本人は彼らの過去を捨ててしまっている。彼らは過去の日本人とは別の人間、別の者になろうとしている」。
 • ベルツ Erwin von Baelz 1849-1913(1876(明治9)年に来日、東大医学部の基礎を築く)。以下は故郷への手紙から。
 「現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくないのです。それどころか、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます。『いや、何もかもすっかり野蛮なものでした』(言葉そのまま!)と私に言明した者があるかと思うと、またある者は、私が日本の歴史について質問したとき、きっぱりと『われわれには歴史はありません、われわれの歴史は今からやっと始まるのです』と断言しました」。

 なによりもまず、自分のなかの日本人を捨て、日本の歴史を否定してかからなければ、内面のスペースが空きません。スペースを空けないと、西洋文明を受け入れる余地がありません。受け入れるために「自分のなかの日本」のスペースを削る、ということです。だからこそ彼らは、西洋人の前であえて日本を否定してみせる――過去の日本は、ただ古臭くて野蛮なだけで、恥ですらある、と。それは半ば自分に言い聞かせる言葉でもあったのではないでしょうか。

 ただ、この種のものの言い方は、きわめて微妙かつ控え目な、いわゆる日本人的表現であって、本当に言いたいところは、これを裏返してみないと理解できない、そういう類いのものだったと思えるのです。そして、そんなふうに手の込んだコミュニケーションの技術があろうとは、西洋の人たちには想像すらできないでしょう。当時の日本人エリートたちは、実はこう言っているのです――これからの我々は西洋文明に学んで、いまだかつて見たこともない聞いたこともない “新しい日本人” になるのだ、と。つまり、彼らが西洋人に伝えたかったのは、進んで西洋文明を学ぼうとする自分たちのポジティブな姿勢であった、と察せられます。下世話な言葉でいえば、 “今までの自分は死んだつもりになって、あなた方のことを勉強しますので、よろしくご指導下さい” というだけの話だったのではないでしょうか。

 ところが、招聘されてやってきた西洋の先生たちは、日本人知識人の表現をそのまま額面通りに受けとったものと思われます。日本人エリートたちの自己評価――自身をどう見ているかという点――については、非常にネガティブかつ懐疑主義的だというのが印象らしいのです。また、西洋文明に対する関心について言えば、その果実とでも言うべき物質的技術の修得を目指すあまり、ある種の物質主義・現世主義に陥っているのではないか、と感じていたらしいのです。同じことを別様に言えば、日本人エリートたちは、西洋の物質文明を産み出した因(もと)にある「精神的なもの・宗教的なもの・普遍的なもの・人類的なもの」についてはほとんど関心を持っていなかったし、そもそも理解する能力が欠けていた、というのが印象だったようです。

 日本人の自己評価と西洋文明への関心について西洋人がどのように見ていたか――渡辺京二氏の前掲書から学んだところを、ぼくなりの勝手な解釈で紹介しました。ざっくり言えば、「万国対峙」という「善悪以前の強制力」のもとにあって西洋を追いかける立場の日本人エリートとしては、「西洋文明への同化」以外に選択肢があったかどうか、疑問です。

 ただ、「西洋の物質文明を産み出した因(もと)にある」「精神的なもの・宗教的なもの・普遍的なもの・人類的なもの」について言えば、これはもうキリスト教という一神教の存在に尽きるのであって、彼我の違いには如何ともしがたいものがあるのではないでしょうか。彼らは「絶対」の「一」へ向かって生きてきたのに対して、我々は「八百万の神々」「草木国土悉皆成仏」の世界に生きてきたわけですから。

 最後に補足したいのは、明治のエリート知識人「国家的国民」が、自らの内面にあった「日本人の過去・日本の歴史」のスペースを削り――隅の方へ押しのけて――西洋文明のためのスペースをつくった、と述べた点についてです。これはまわり巡って前回の結語にもどるのですが、「日本人の過去・日本の歴史」を生き抜いてきた主人公――「臣民的国民」につながる日本人民衆――は、エリート知識人「国家的国民」から引き裂かれ、隔てられ、両者の間には空ろな(虚ろな)洞穴ができてしまったということ、まさにそのことが特徴となって、日本の近代がかたちづくられてきたのではないか、ということです。