- 明月堂書店 - http://meigetu.net -

天皇について(4)明治天皇制国家を考える(2) たけもとのぶひろ【第53回】– 月刊極北


たけもとのぶひろ(第53回)– 月刊極北
天皇について(4)

今月のラッキー

今月のラッキー

■明治天皇制国家を考える(2)

 引き続き明治国家について考えます。前回みたように、統治主体の「天皇」には、「たてまえ」の天皇と「申し合わせ」の天皇があって、両者は互いに否定しあう関係にあるにもかかわらず、実に巧妙に、そして隱微に “使い分け” ることができた――それが明治国家というシステムだったと思います。 “ほんとうの” 明治天皇というのは、どこにも存在しなかったのかもしれません。というか、明治天皇が実際のその人として存在することは、認めないし許さない――この日本という国は、そういう非情な国なのかと疑わざるをえません。なにしろ、天皇は人間ではない、神なのだから、なんて “ええ加減” なことを言うお国柄なのですから。

 さて、「一君万民」のうちの「万民」、あるいは「天皇の国民」のうちの「国民」についてですが、「天皇」の場合と同様に、似たような ”使い分け” をしてきたものと察せられます。明治という時代は、「万民平等」とか「和の国民」とか、そういう “綺麗事” で誤魔化すことができるような、そんな穏やかな時代ではありませんでしたし。
 調べてみると案の定、万民・国民は、支配する側とされる側に二分されているのでした。

 前者の、支配する側とは、早い話が、国家の統治機構網を構成する個々の機関の個々の官位官職に就く者のことで、「国家的国民」と呼びたいと思います。彼らは、天皇側近の権力者たちから分割・分与された権力を、天皇の名において代行し、臣民=国民を権力の下へと動員し、天皇の統治を全うするのが役割です。
 後者の、支配される側とは、天皇が「爾臣民」と呼びかけるときの「臣民」のことです。これを「臣民的国民」と呼びたいと思います。

 すなわち、そもそもの初めから国民は、このように、臣民的国民と国家的国民との二つに分断され、支配被支配の関係に置かれている――それが、明治以来のこの国の統治の構造だと思われます。ですから、上述した、「万民平等」とか「和の国民」というようなことは、たとえ言葉だけであっても、軽々には口にできない気がするのです。むしろ反対に、臣民的国民と国家的国民とが、いかに分断され、引き裂かれてきたか――この歴史の事実にたいして、ぼくらはもっともっと自覚的であってよいのではないでしょうか。

 とはいえ、臣民的「国民」にせよ国家的「国民」にせよ、それどころか「国民」それ自体が、明治以前のこの国にはありませんでした。無いのですから、造りだすしかありません。どのようにして? 「教育」を通して、です。ここで言う「教育」の目的は、一つの日本国民ではなくて、二つの国民を造ることでした。すなわち、命令に絶対服従する「臣民的国民」と命令する側の「国家的国民」、の二つがそれです。

 まず、臣民的国民の教育です。これは、初等・中等教育・師範学校(=初等・中等学校教員の養成機関)・軍隊教育において為されました。その教育理念は、軍人勅諭(1882年)・教育勅語(1890年)に結実していますが、教育現場では御真影拝礼・勅語奉読・国歌斉唱・国旗掲揚などの儀式を通して身体化されていったのでありましょう。

 ここで「教育勅語」「軍人勅諭」について短く紹介します。「教育勅語」は、理想的な臣民的国民を定義しています。そのあらましは以下の4点です。

 ①人間関係(父母・兄弟・夫婦・朋友)については “和の心” で。
 ②道徳については、慎み・博愛・勉学・人格向上。
 ③社会(世間)については、公益を広め・秩序に従う。
 ④そして「いったん緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」。

 これは「軍人勅諭」における道徳教育も同工異曲です。勅諭は、「朕がお前たち軍人に教え諭すべきこと」として、「忠節」「礼儀」「武勇」「信義」「質素」の五ケ条を挙げ、「朕の戒めに従って国に報いる務めを尽くせよ」と諭しています。
 要するに、「臣民的国民」の教育とは、日本人の “心” の総量を「儒教道徳・プラス・日本的和の精神」という一つの型の中に流しこんで、同じタイプの “日本臣民=支配のための道具” を鋳造する、そのための組織活動だったのだと思います。

 では、命令に対して “条件反射的に” 絶対服従する臣民的国民は、何ゆえに、何の為に、作りださなければならかったのでしょう。周知の通り、明治国家の国家目的を達成するため、つまり、「富国強兵策」を推進し、「不平等条約」を粉砕するためです。国家は、その富を増やすために汗みどろになって働く百姓・職工・鉱坑夫・土工などを必要とします。とともに、戦争の最前線で血みどろになって戦う兵士たちをも必要としたのでした。これら「臣民」的国民こそは、国家のために働き国家のために戦う人間の、唯一の供給源であったと思います。

 次に、国家的国民の教育です。これは、高等教育・帝国大学・高等文官試験において為されました。権力の中枢を担ったのは、ここで教育されたエリートたちでした。彼らは、あるいは枢密院の顧問官となって天皇の諮問に応え、あるいは貴族院議員として天皇を守る藩塀となり、あるいは軍部・官僚の一員となり天皇の股肱として働きました(維新の元勲政治家たちは別格です)。また、地方にあっては、知亊、郡長、村長、校長、警察署長などの要職に就いて、天皇の統治を助けました。

 エリートたる国家的国民が天皇の名においてなすべき任務は、国家目的(=富国強兵・不平等条約粉砕)のために臣民的国民を「動員」すること、そして目的実現を「命令」することです。「動員」「命令」が職務である以上、彼ら国家的国民は、自国の政治・経済・社会の情報はもちろん、世界の、とりわけ欧米先進諸国の、情報についても、遺漏無く蒐集し、理解し、自国にとっての利害得失を判断しなければなりません。それだけの知識と能力を備えた国家的国民でなくては、天皇統治の代行という重責を担うことはできない、ということです。となれば、その任に堪えることのできるエリートの養成を目的とする高等教育をおこなうしかありません。
 この趣旨からして、国家的国民のための高等教育は、臣民的国民のための初等・中等教育・軍隊教育を完全には否定しないまでも、それらとは異質かつ異次元のものとして企図しなければならなかったのだと思います。

 もっと言えば、こういうことではないでしょうか。世界を舞台に欧米列強に伍して覇を争っていくには、西欧の技術や文物だけでなく、それらを産み出す “もと” となる考え方にまでさかのぼって学ばなければなりませんでした。たとえば、「社会と個人」とか、「公と私」とか、「人類と国家」とか、「文明と文化」とか、「普遍性」「人間性」「人類」等々といったことについても、世界から学ぶ必要があったということです。別言すれば、広く大きな普遍的なテーマについても、個々の専門的領域の問題についても、世界的水準でものを考えることができる、それだけの知的能力が求められたのだと思います。これらの要請に応えるべく制度化されていたのが、高等教育・帝国大学・高等文官試験でした。

 以上、明治の教育制度について考えてきました。簡単に言えば、明治国家は、ひとつのトータルな教育というイメージで教育制度を構築する道を選びませんでした。そうではなくて、教育というものを頭から初等・中等教育と高等教育の二つに分けて制度化する道を選んだのです。結果、「臣民的国民」大衆と「国家的国民」エリート、というまったく別々の、二つの国民が、それぞれの分を尽くして国を担っていくほかなかったのでした。

 明治以来この方、両者は引き裂かれてきました。その裂け目は、広いですし、深いです。そこは大きな空洞になっており、埋め立てることはもちろん、橋を架けることさえ、できそうにありません。
 ぼくら日本人は百数十年の間、引き裂かれることによって生じた、そのあいだの空洞を抱えたままの状態でやってきたわけです。ですから、『現代日本の思想』のように、明治国家を「一個のみごとな芸術作品」だとか「全体の調和と統一」だとか、そういうふうに評価することはできないということです。