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天皇について(2)“欺瞞の権威” 明治天皇の悲劇 たけもとのぶひろ【第51回】– 月刊極北


たけもとのぶひろ(第51回)– 月刊極北
天皇について(2)

今月のラッキー

今月のラッキー

■ “欺瞞の権威” 明治天皇の悲劇

 明治の新しい指導者たちは、倒幕(=徳川慶喜征討)の大義名分を得るために、若き明治天皇の名において「王政復古の大号令」を発します。「大号令」には「神武創業ノ始メ」に範をとる、とあります。これは、天皇親政による明治の政治改革が、畏れ多くも王朝創始者たる神武天皇に由来する正統性を備えているのだぞ、と言わんがためです。神武という初代天皇の名前は、初代ということだけで唯一無二の価値があるうえに、 “神話的な戦争王” とか ”強力な政治家” といったイメージがあるのかもしれません。明治の指導者たちはそれを理想の天皇像として利用したかったのでしょう。

 しかし、戦争と政治――というのは、歴代の天皇たちが最も不得手とするところです。すでにみたように、ほとんどの天皇たちは、柔弱・非力・繊細で、受動的・女性的でした。なにしろ、代々、宮廷文化のなかで暮らしてきたわけですから。
 ちなみに、漢字の「武」の入った諡(おくりな)を持つ天皇は、神武、武烈、天武、文武、聖武、桓武の6人で、実際に戦争に従事した天皇は神武天皇只一人とされています。そして桓武天皇(在位781〜806年)を最後に、「武」という字は、天皇の名称の中ではいっさい使われていないそうです。
 次に、政治と天皇ということで言えば、中国の儒教を模範とした君主であろうと想像されますが、この種の天皇はさらに例外的で、伝説の仁徳天皇を別とすれば、天智天皇、天武天皇、後醍醐天皇くらいなものではないか、と言われています。
 以上にみた天皇を別にすれば、平安時代以降の歴代の天皇は、明治天皇をも含めて、戦争とか政治の方面を苦手とし、したがって時の権力者に対して非力そのものだったとされています。

 それが歴史の事実ではあっても、「王政復古」「天皇親政」を掲げる明治の指導者としては、自分たちの担ぐ明治天皇が女性的天皇のままでは困る、もっと言えば、日本の歴代天皇とはまったく逆の、男性的な統治者として君臨してもらわなければならないのでした。究竟するところ、「明治天皇は、儒教流の父性的人間たることに加え、政府を率い、軍を指揮する、西欧流の近代的国王でもあらねばならなかった」(シロニー前掲書)わけです。

 国家統治ないし政治支配とは、手短かに言うと、法律・組織・制度をつくり、それらをシステムとして運用することで国を支配する、そういうことだと思うのです。この観点から「天皇親政」という名の「明治の国造り」をみたとき、どうしても気になるのは、日本自前の智慧というか経験というか、そういうものがいったいどこに生かされているのだろうか、という問いなのです。
 法律・組織・制度については、「中華帝国発の父性的儒教政治」および「西欧近代の知識・技術・文物(=西欧文明)」、この両者が大きく影響していることは明らかです。

 しかし、運用システムについては、「現人神」「一君万民」「国体」など日本独自の考え方で行われてきたのではないか、と指摘する向きがあろうかと思います。
 ただ、これらについても、「絶対君主制」(=神の代理人としての君主の専断政治)ないし「キリスト教」「全能の神」など、いずれも西欧の歴史に着想を得ているのではないか、との指摘があります。前者については周知のことでありましょうが、後者についてはどうでしょうか。シロニー前掲書に、その点についての言及があって、ぼくは目から鱗が落ちる思いをしました。その箇所を引用します。

 「明治の寡頭政治家たちは、国家神道という上部構造を構築するため、天皇の神性にたいする民衆の信じこみをふんだんに利用した。1888年(明治21年)伊藤博文は、キリスト教のような強力な宗教を欠いている日本では、国家の「基軸」とすべきものは皇室しかない、と力説した。(中略)
 宗教学者・村上重良の主張するところでは、「現人神」の意味は明治維新後に、かつてと違ってきたという。かつては数ある神々のなかのひとりだったものが、一神教的な至高の神性を意味するようになったのである。エミコ・オーヌキ・ティアニーも、明治天皇という現人神はユダヤ教やキリスト教的伝統のなかの「全能の神」概念に近いものとなった、と主張する。(中略)日本の近代化は、天皇の神性を西欧的な宗教に見られる絶対的神性に仕立てることによって強化したのだった。」

 上記引用文にある「天皇利用」との指摘は、明治の寡頭政治家ないし指導者たちが所詮は「虎の威を借る狐かな」の類いであることを暴いています。しかし、なんと言われようと彼らとしては、往時より「現人神=あきつかみ」として敬われてきた天皇の権威に自分たちの正統性の源泉を求める、つまり自分たちの権力行使を天皇の名によって権威づける、それ以上の名案はないと思われたのでしょう。かくなる上は、もともとから信仰されていた「現人神」としての天皇の神的権威をさらに絶対化して、西欧流の「唯一神」「全能神」のそれにまで高め、その絶対的権威を利用すること、これをもって最上の策とする――明治の指導者たちはそういう肚であったにちがいありません。

 日本の権威の頂点に君臨する天皇には、みずから率先して西欧化の範を垂れてもらわねばならない――そういう要請が、まるで事前の約束事であったかのように出てきたのでした。天皇は、たとえば牛肉を食べ、ミルクを飲んでみせねばなりませんし、宮中の晩餐会にしても “お酒と和食” から “ワインとフランス料理“ へと様変わりしてしまいました。服装にしてからが、従来の宮廷装束は許されず、西欧王侯風にズボン・ジャケット・靴・手袋でなければならないし、「大元帥」の出で立ちだと、馬に跨がり、洋風軍服・勲章・剣を着すものと決められたそうです。

 明治天皇はその衣食住・生活万般について指図を受ける身でしたが、政治に関する意思決定はもちろんのこと、意見をもつこと自体が大きく制限されていて、むしろ指図される立場であったとされています。西郷隆盛に宛てて大久保利通が書いた「不当な勅命は勅命にあらず」という手紙の言葉が、この事実を象徴的に物語っています。ここで大久保は、詔勅――天皇の意思・言葉・命令――を発するのが天皇その人ではない、と言っているのです。実際、天皇の名前で出された「王政復古の大号令」「五箇条の御誓文」「大日本帝国憲法」「教育勅語」「軍人勅諭」はおろか、天皇・皇室.皇族について規定する「皇室典範」でさえも、明治天皇その人に対する相談などほとんどなかったと伝えられています。

 「明治の寡頭政治家たちは、天皇が決定をおこなうことを期待してはいなかった。天皇の役割は、彼らが決定したことを支持し、正当化し、広く知らしめることにあった。」「明治天皇の意見が政府と食いちがうと、「納得させられて」ひっこむのはいつも天皇のほうであった。(中略)天皇は自分の確信を押し殺して、大臣たちの進言を受け入れた。こういうやり方で、明治天皇は日本的な伝統を踏襲すると同時に、西欧的な立憲君主たちの例にもならったのである。」(シロニー前掲書)。

 ここでシロニーは、天皇が「西欧の立憲君主たちの例にもならった」と述べています。しかし、西欧の立憲君主制下の君主は、まず第一に、神の代理人として神の命令を実行する権力を有していました。ただし第二に、君主が前提として有するその権力は、憲法(議会・政党政治)の制約のもとにあらねばならない、ということだったと思います。
 ところが、我が明治天皇は、君主の権力というものをそもそもの初めから有していないのです。制約するもしないも、当の権力を有していないのですから、天皇は西欧の立憲君主とはまるで違った存在です。先に幕府役人の言葉として、ただの「名ばかりの人」、というのを紹介しましたが、さらにそれ以上に気の毒なことに、ありもしない “欺瞞の権威” を背負わされて、それから逃れる術もない人、それが明治天皇の実像ではないでしょうか。

 明治という時代とその国家がこの種の虚偽と欺瞞の上に構築されているという、そのことがありとあらゆる災禍の起こるもととなっている――このことを、もう少し議論してゆきたいと思います。