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天皇について(1)明治天皇ないしは天皇という存在について たけもとのぶひろ【第50回】– 月刊極北


たけもとのぶひろ(第50回)– 月刊極北
天皇について(1)

明治天皇

明治天皇

■明治天皇ないしは天皇という存在について
 明治時代・明治天皇のことを考えようとすると、その前に、天皇とはどういう存在であったのか、との問いが立ちはだかるのをどうしようもありません。それを問うていくと、ますます本題から遠ざかりそうで心配です。ですが、天皇について、常識としてぼくらが知っていることと本当のこととがあまりにも違い過ぎているらしい。しかも、その点に問題があると思われてなりません。そこのところから始めざるをえないと思うのです。

 ぼくらの知っている明治天皇といえば、現人神であり、絶対不可侵の統治権総覧者であり、西欧流の近代的君主であり、帝国陸海両軍を率いる「大元帥」でした。なにかの写真で見てかすかに覚えているのも、勲章や軍刀などで思い切り飾りあげた軍服姿です。
 ところが、何年か前に読んだ、ベン=アミー・シロニー著『母なる天皇〜女性的君主制の過去・現在・未来』(注)によると、実際の天皇は、その立ち居振る舞いのみならず、容姿や風貌からして、女性そのものだったと言うのです。一読し、余りの意外さに驚きました。

 明治元年(1868年)、2人の英国人外交官が別々の機会に16歳の明治天皇に拝謁し、それぞれ、そのときの様子を書き記しています。以下に引用します。
• アルジャノン・ミットフォード。
「彼は白い上衣に、詰め物をした深紅の絹の長い袴を着し、その裾は宮廷婦人の服のようにうしろに長く引いていた。眉は剃られ、額の高いところに描かれていた。両頬には紅がはかれ、唇はきらきらと赤く塗られている。彼の歯は黒く染められていた。」
• アーネスト・サトー。
「彼の顔色は、おそらく人為的にそうされていたのだろうが、白かった。口もとは、医者のいう顎部突出といってよかろうが、顔全体の輪郭はととのっていた。眉は剃り落されて、約2センチほど上に描かれていた。衣装は、背後に長く垂らした黒のゆるやかなケープ、白の上衣ないしマント、ひどくたっぷりした紫色のズボンであった。」

 そもそも天皇というものは代々、生きていくすべての営みについて後宮の女官(釆女)に世話をしてもらわなければならない、そういうシステムだったらしいのです。これだと早い話が、女性に囲われているようなものですから、いきおい外見も中身も女っぽくならざるをえなかったのでしょう。非力にして柔弱、繊細にして受動的、謎めいた女性――それが平安時代以降の歴代天皇の実像であったといいます。そのように弱かったからこそ、天皇は恐れられたり敵視されたりすることもなく、政治的な浮き沈みを超えて、王朝として並外れた寿命を保つことができたのかもしれません。

 それにしても天皇は、男性であっても、あたかも「女性」であるかのように生きなければならなかった――いったい、なぜなのか。この問いに対する答えにこそ、天皇信仰の淵源にかかわる秘密があるのではないでしょうか。シロニーの指摘によると、究竟するところ、天皇は「天照大神」という女性神(太陽の女神)の末裔であるという、この一点に尽きるようです。女性神の末裔である以上、天皇は、神聖な存在であるだけでなく女性的な存在でもあらねばならない、つまり女性の要素を体現していなければならない、ということになるのでしょう。

 天皇は、西欧の君主のような神の代理人ではありませんから、神に代わって神の命令を実行する君主(国王)ではありません。戦争とか政治(行政)なんて、もともとそんな柄ではないのです。天皇はただただ神々を崇拝する、神々と民とのあいだを仲介し、ひたすら民びとのために神々に祈る――それが天皇の役目です。その際、力弱い天皇としては、天照大神の末裔であることをもっぱら頼みとし、ただひたすら民びとのために、神々のお力にお縋りし、お願いするほかありません。尊崇する天照大神が女性ですし、自らの姿も女性に変え、神にお縋りしたい――そういうことだったのかもしれません。

 とまれ、明治天皇です。彼は14歳1カ月で天皇となりました。慶応2年、西暦でいうと1866年12月25日のことでした。彼が世に知られる、いわゆる「明治時代の」明治天皇となったのは、それから1年半余りして元号が慶応から明治へと改元され、もうすぐ16歳になろうかという頃でした。ですから形だけで言うと、明治天皇は、江戸幕府・将軍の統治下を最後の天皇として勤められたということです。

 したがって、明治天皇ないしは天皇という存在について考えるばあい、大事な点が二つあると思うのです。ひとつは、上述の復習ですが、天皇家が、女性神・天照大神の末裔として「万世不易の皇統」を継承してきたということです。いまひとつ、これからみていくのですが、天皇家は、江戸時代の2世紀半にわたって、幕府の命ずる「禁中並公家諸法度」(1615年)のもとで厳しく行動を規制され、支配されてきたということです。

 後者の点について、シロニー前掲書から引用して示します。
 「家康が定めた「禁中並公家諸法度」は、天皇の移動や旅行を制限してはいなかったが、事実のうえでは、崇め奉られる天皇自身は、黄金の籠のなかに封じこめられたも同然だった。(中略)徳川期には陸海の交通運輸が大いにひらけたにもかかわらず、江戸を訪れるか、東日本に足を踏み入れるかした天皇は、明治になるまでひとりもいないのである。つまり、近代になるまで、富士山を目にした天皇はいなかったのである。
 天皇に会いに京都にやってくる将軍も、一人としていなかった。1634年から幕末の1863年までの230年間、将軍はだれも京都にのぼっていない。(中略)御所に閉じこもった天皇のあり方は、後宮にしばりつけられた女性たちさながら、天皇の柔弱さの究極的段階にほかならなかった。」

 具体的な生活においても天皇は、いじめられていた、というより、ほとんどなぶりものにされていたらしいのです。たとえば、天皇はその身体そのものからして神聖である、との理由から、髪の毛や爪などの手入れの際も刃物の使用は禁じられており、若い女性が歯で噛み切るのが習わしだったと言います。また、同じく身体の神聖さゆえに、足を地面に触れてはならないとされ、移動は「輿に担がれて」と命じられていたそうです。また、天皇が病気になって治療のためにお灸をしてもらう必要があるときでさえ、同じ理由から、お灸をしてもらえなかったとのことです。さらにまた、言い掛かり同然のリクツをつけて、天皇は米穀の守護者であるから、米飯を食べるべきで、麺類を食べないことが望ましい、なんて、これはもう虐待です。

 いじめる側の幕府、その役人たちは、天皇というものをどのように見ていたでしょうか。
 ここに、彼ら幕府役人の天皇観の一端をうかがわせてくれる資料があります。 幕末の米国総領事タウンゼント・ハリスの日記(1858年1月27日付)がそれです。シロニー前掲書に引用されている部分は以下の通りです。
「ミカドについての彼らの口ぶりはほとんど軽蔑的で、日本人が天皇に対して抱いている崇敬の念について私がいくつかの発言を引用したとき、彼らは大笑いした。天皇は金も、政治力も、日本で価値ありとされる他の何ものをも持っていない、と彼らはいう。ミカドは名ばかりの人なのだ、と。」

「ハリス日記」の上記部分からわかるのは、ふつうの日本人は天皇に対し崇敬の念を抱いていたらしいということ、それに反して、幕府役人など支配層の人間は天皇を馬鹿にしきっており、しかもその軽蔑の念を隠そうともしなかったということ、この二点です。
 前者の天皇は、ふつうの日本人、庶民とか大衆の心のなかにある、尊くもあり有難くもある天皇です。後者の天皇は、武士を中心とした役人や僧侶や知識人など支配層にとっての天皇であって、生死をふくめてその存在自体をいかようにでも利用することができる、この上なく便利な “支配の道具” です。早い話、彼らは天皇に支配されるのではなくて、彼らが天皇を支配する、天皇を道具に使って支配する、となれば、天皇は彼らに使われる道具として、本当は支配される側に属しているのではないでしょうか。

 そして、我が国の歴史というものは、実は、この種のおどろおどろしくも・まがまがしい事柄の連鎖だったのではないでしょうか。これは、江戸とか明治とか、昨日今日に始まったことではなくて、ひょっとしたら、天皇による統治が制度化され、天皇における権威と権力が分割された当初から、少なくとも平安時代以降の、この国は、この調子でやってきたのかもしれません。

(注)ベン=アミー・シロニー: 1937年ポーランド生まれ。歴史学者。イスラエルのヘブライ大学を卒業後、新聞記者をしながら「広島、長崎に投下された原爆への一考察」で学位を取得する。67年から国際基督教大学に留学した後、米プリンストン大学で博士号を取得。帰国後、ヘブライ大学東洋学部教授となり、毎年500人を超える学生たちに日本の歴史と文化を講義し、トルーマン平和研究所所長を兼務する。91年にハーバード大学で客員教授。2000年、勲二等瑞宝章受賞。
なお、著書『母なる天皇〜女性的君主制の過去・現在・未来』(2003年)の原題は、The Enigma of the Emperors : Divinity and Gender in the Japanese Monarchy,2000. です。そのまま訳すと『天皇たちの謎〜日本王朝における神的なものと性的なもの』です。
このほうが内容に正直だと思うのですが。