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永続敗戦論(3) たけもとのぶひろ【第49回】– 月刊極北


たけもとのぶひろ(第49回)– 月刊極北
永続敗戦論(3)

白井聡

白井聡

■「侮辱」を感じないことの「無責任」を考える

 さて、白井聡著『永続敗戦論』です。その第一章第一節は、「私らは侮辱のなかに生きている」――ポスト3・11経験、と題されています。3月11日の福島第一原発事故は、いまもなお問いかけています。日本および日本人はかつて何であったのか、そしていま何であるのか、と。答えはあらかじめ表題にあります。日本および日本人は “侮辱のなかの生” を生きている、と。

 原発なんて、そもそも安全なわけがない。どこが、いったいクリーンなエネルギーなのか。
そんなに結構づくめの発電事業であるのなら、どうして巨額のカネをばらまいて、住民を買収する必要があったのか? 危険極まりないヤバイ事業であることは、東電も国も自治体も、先刻承知の上での話だったのだ。住民もまた、カネを受け取ったことによって、本当はヤバいのだな、と事実の危険性をウスウスは感じざるをえなかったのだと思う。逆説めくが、事実の問題として本当に安全であるならば、権力やメディアは、どうして安全だ、安全だ、と国を挙げての大騒ぎをしなければならなかったのか。
 ここへ来て、ということは、3・11の福島第一原発事故という動かしがたい事実が現われたことによって、はじめて、だれもが「安全=虚偽」「危険=事実」ということを認めなければならなくなったし、実際に大半の人が認めているのだ。
 にもかかわらず、原発を止めない。再稼働する。外国にも輸出する。土も水も空気も原子力の汚染を免れることはできない。人間、動植物のみならず、微生物をも含めて、この地上のありとあらゆる生き物が、命の危機にさらされている。――彼らは、しかし、これらの事実をすべて無視する。どんなに非難されようと、原子力開発事業は止めない。

 これはどう考えても、白井氏の言う通り「侮辱」でしょう。
 「あの事故をきっかけとして、日本という国の社会は、その本当の「構造」を露呈させたと言ってよい。明らかになったのは、その住民がどのような性質の権力によって統治され、生活しているのか、ということだ。そして、悲しいことに、その構造は、「侮辱」と呼ぶにふさわしいものなのである」(前掲書 p6)。

 隠蔽してきた事実が露見したというのに、彼らは居直って、それがどうしたと言わんばかりです。どうすれば責任を取らせることができるでしょうか。事実と虚偽とのすり替えは、権力構造が総出で行っている国がらみの統治行為ですから、それを暴いて責任を取らせることは容易ではありません。

 しかし、だからといって、権力のこのような統治行為を許すことはできません。権力は歴史の事実のなかの、いったい何を隠し、何を偽ってきたのでしょうか。だれもがそのことを知る必要があります。知ることは、権利であるだけでなく義務でもあります。権力犯罪の事実を、だれの目にも明らかにして、万人に知ってもらうこと――なによりもまず問われているのは、まさにこのことではないでしょうか。

 白井氏はこう述べています。
 「われわれが胆に銘じなければならないのは、こうした「侮辱」のなかを生きさせる権力の構造、社会的構造は、3・11そのものによって立ち上がったものではない、ということだ。それは、この国の歴史のなかで不断に存続・維持・強化されてきつつも表面上は隠されてきたものが、誰の目にも明らかなかたちで現われてきたものにほかならない。要するに、現存の体制は戦前・戦中さながらの<無責任の体系>以外の何物でもなく、腐敗しきったものと成り果てていた」(同 pp11,12)。

 前福島県知事・佐藤栄佐久氏は、原発事故発生の2年前に、事が起こったときの事態の推移について、あらかじめ見て知ってでもいるかのように、その本質を指摘しておられたそうです。 「責任者の顔が見えず、誰も責任を取らない日本型社会」のことだから、何が起こっても不思議はないだろう、と。(「」の後はぼくの蛇足ですが)。
 責任を取らない権力の統治行為――この体制は、ただ単に戦前・戦中だけでなく、“そもそも論” 的に言うなら、明治天皇制国家が生まれて大きくなっていく、その頃から始まっているのではないでしょうか。

 と書くと、すぐに異論を唱える人があると思います。この国がおかしくなったのは大正・昭和に入ってからで、明治は立派だった、と。しかし、明治天皇制・明治国家そのものの造りに無理があったことは否めません。もちろん無理を承知のごり押しでやってこざるをえなかった世界史の背景というものがあることは承知しています。しかし、この無理無体な遣り口が、統治行為の無責任主義と合体して、ひとつの支配体系となってきたこと、まさしくこのことが、この国の今日をこのような形であらしめているのではないでしょうか。

 明治天皇制国家なるものを一つの構造物と考えたばあい、これを立ち上げる際には、そのための土台を築き、骨格を組み、棟木を上げていかねばなりません。その基礎工事の段階において、なにか重大な工法上の考えに間違いがあったのではないでしょうか。構造物の全体の出来不出来を決定づけるほど、それは、致命的な間違いというより、用いてはならない禁じ手でした。虚偽とか欺瞞とか、事実を “なみする” やり方が、それです。

 全体を仕切る役目の棟梁は、いるのかいないのか、いったいどうしたというのでしょうか。
どうなっているのでしょうか。棟梁とは誰のことか、まさか明治天皇ではありますまい。

 自他を偽り欺いてこさえあげた構造物がまともに立っていられたかどうか、歴史の事実が物語っています。明治天皇制国家を立ち上げる際の虚偽と欺瞞――その歴史の事実を見ておこうと思います。
 こういうふうに問題の在り処について、いちいち探っていくやり方だと、なかなか白井氏の言説「戦後=永続敗戦論」の本論にたどり着けそうにありません。もどかしいかぎりです。ですが、敗戦も戦後も、すべての問題は明治天皇制国家の立ち上げの時点から始まっているような気がしますし。ということで、次回はそのあたりのことを考えます。