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永続敗戦論(1) たけもとのぶひろ【第47回】– 月刊極北


たけもとのぶひろ(第47回)– 月刊極北
永続敗戦論(1)

白井聡著『永続敗戦論』(太田出版、2013年)

白井聡著『永続敗戦論』(太田出版、2013年)

■白井聡著『永続敗戦論』の問題提起

 大東亜戦争はアジアの解放をうたいながら、実はアジア侵略の戦争でした。結果は、日本の「敗戦」に終わりました。しかし、その敗戦のなかから「憲法」が生まれ、そのあと「戦後」という名の、「平和」な時代が長期にわたって続きました。ところが、ここへ来て、かつて聞き慣れた問いが改めて問われています。言うところの「平和」はどうも嘘くさいのではないか、時代を通じて貫徹している通底音は「戦争」なのではないか、と。

 その流れを一挙に加速させたのは、安倍首相です。安倍は、当初 “ヒトラー顔負け” と揶揄されての登板でしたが、現実は揶揄で済まなくなっています。もともと安倍は「侵略」を認めません。したがって、「敗戦」など認めるはずがありません。もちろん、「平和」も「憲法」も「戦後」も憎んでいます。「敗戦」によって無理やりねじ伏せられ、「憲法」によって恥をかかされてきた以上、「平和」なんて糞食らえ、というのがホンネでしょう。
 それらはすべて “屈辱” であるとして、安倍は「戦後レジームからの脱却」を唱えてやみません。たとえば、「前文は何回読んでも、敗戦国としての連合国に対する “詫び証文” でしかない」(2005年) とか、「 “みっともない” 憲法ですよ」(2012年)などと、一方的な放言をまきちらしています。

 ところが、ここに若い学者が現われて、安倍を全面的に否定する立場から、「戦後」の本質を問う問題提起をしています。「戦後」という時代を貫いてきた基調について、「平和」だったと言いたいところだが、実はそうではなくて本当は「敗戦」だったのではないか、そして日本はいまもなお、その「敗戦」を引きずっているのではないか、と。問題を提起しているのは、白井聡著『永続敗戦論__戦後日本の核心』(太田出版)です。

 彼は、たとえば、次のように指摘しています。
 「大日本帝国がポツダム宣言を受諾することで、戦争は日本の敗北によって終わった。にもかかわらず、この日は戦争の「終わった」日として認識されている。ここにすべてがある。純然たる「敗戦」を「終戦」と呼び換えるという欺瞞によって戦後日本のレジームの根本が成り立っていると言っても過言ではない」(上掲書 p37)と。
 あるいは、「「戦後」とは要するに、敗戦後の日本が敗戦の事実を無意識の彼方へと隠蔽しつつ、戦前の権力構造を相当程度温存したまま、(中略)「平和と繁栄」を享受してきた時代であった」(同 p115)と。

 また、別のインタビュー記事を見ておきましょう。「そもそも多くの日本人の主観において、日本は戦争に「負けた」のではない。戦争は「終わった」のです。1945年8月15日は「終戦の日」であって、天皇の終戦詔書にも降伏や敗戦という言葉は見当たりません。このすり替えから日本の戦後は始まっています。(中略)敗戦を「なかったこと」にしていることが、今もなお日本政治や社会のありようを規定している。私はこれを、「永続敗戦」と呼んでいます」(朝日新聞 オピニオン欄 2013.7.3)。

 白井氏は指摘しています__「敗戦」と言うべきところを「終戦」と言ってきたから、日本が戦争に敗北したという「敗戦」の認識が欠けてきた、それにとどまらず、敗戦という「事実」そのものが「なかったこと」になってしまったではないか、と。これは「事実」の「すり替え」であり、「隠蔽」であり、「欺瞞」である、と。

 それにしても、どうして事実をそのままに「敗戦」と言えないのでしょうか。実際に負けてはいても、悔しいから認めたくない。それはそれで、人情としてはわかります。しかし、戦争とか政治とか国家とかは、人情の範畴を越えています。やはり、「敗戦」という言葉を大っぴらに言うと都合の悪いことがある。そういうことではないですか。いったい何が問題なのでしょうか。

 「敗戦」という言葉は「敗戦国=日本」という観念と一体です。のみならず、これらの言葉ないし観念は、「戦勝国=米国」という、もう一方の歴史の事実を想起させます。さらには、そこから、「戦勝国=米国」が「敗戦国=日本」の政府を傀儡に使って、日本人民を二重支配しているという、その戦後の統治構造がバレバレになる危険があります。
 そうなると、ついには、日本人の心の奥深くに潜められている、かつての敵対関係__「敗戦国X戦勝国」「米国X日本」という敵対性__が、意識の表面に浮上し、寝ている子供を起こすようなことになる恐れをなしとしません。

 したがって、「敗戦」という事実をそのまま伝える言葉は、都合が悪いことになります。その大っぴらな使用は遠慮してもらわねばなりません。代わりに、「終戦」という遠回しな遁辞を流通させたほうが無難、得策だということでしょう。

 日米の権力者どもが、当初よりそこまでの遠謀深慮を巡らして、日本統治にとりかかったのかどうか、にわかには判じかねますが、当面する支配の利害得失を本能的に直観し行動してしまうのが「権力」という化け物なのではないでしょうか。
 白井氏の著作に導かれながら、ここしばらくの間、「戦後」という舞台で、化け物たちが何をしてきたか、考えていきたいと思います。
 ときどき寄り道をしながらになるかもしれませんが。