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戦争と同じかそれ以上に難しい「平和という事業」 たけもとのぶひろ【第46回】– 月刊極北


たけもとのぶひろ(第46回)– 月刊極北

戦争と同じかそれ以上に難しい「平和という事業」

『憲法第九条――大東亜戦争の遺産』

『憲法第九条――大東亜戦争の遺産』

 2回にわたって上山先生の戦争体験を学んできました。端から死あるのみと死んでかかることによってはじめて得られる「死の覚悟」、みずからの戦争であったからこそどうしても「戦争の悪」とは言えず体験のままを正直に表現されたのであろう「戦争の苦しい面」、それらとは別に戦争には「そうでない面」があって、人はその力に魅了され安らかに犠牲になってゆくことができるという、そのことをほんとうに味わった人にしてはじめて口にできる告白。戦争を外から見てきたぼくにとって、その中にいた人の話は衝撃でした。

 戦争というものは、事程左様に複雑微妙なところがあって、その悪を非難し反対を叫んだくらいでは、太刀打ちできないというか一筋縄ではいかないというか、それほどの難問だ、ということでしょう。別言すれば、人類にとって、平和の実現ということが、いかに難事業であるか、ということでもあると思います。
上山先生は、このことを身に沁みて承知しておられたからこそ、憲法九条とその前提としての前文の「平和主義宣言」を、国家制度史上の「画期的な事件」として高く高く評価されたのだと思います。

 「九条」と「前文」についてはすでに詳論しましたが、そのあらましを復習しておきます。
 「九条」は、国際社会に向かって宣言しています。日本国民は、①国際平和を希求する、②主権国家の根拠というべき国家権力は発動しない、すなわち戦争・武力行使を放棄する、③戦力は保持しないし、交戦権は認めない。
 また「憲法前文」は、人類共通の願望として平和主義の理想を掲げています。日本国民は、①人類の恒久平和を念願する、②日本の安全保障を「平和を愛好する諸国民=平和愛好諸国=国際連合」に委ねる、③そもそも国家主権は、他国のそれを無視し自国のそれを専らとすることを許さない。主権の相互尊重は、各国の政治道徳上の普遍的責務である。

 「九条」①は国際平和の希求を、「前文」①は「人類恒久平和」の念願をうたっています。日本国憲法における、かかる「平和主義宣言」は、好戦国・日本(枢軸国側)に対する平和愛好国・米国(連合国側)の “勝利宣言” だった、と察せられます。
 わが「平和」憲法こそは、米国はじめ連合国諸国が自陣営の ”正義” を世界に誇示する “金看板” だったのでありましょう。

 連合国(国連)は日本を懲らしめんがために、主権を奪いました。それが「九条」②③です。そして、「前文」②の、日本が国連へと委ねたことになっている主権は、現実には国連の引き受けるところとはならず、米国が代わって手に入れたのでした。このあたりのことはすでに詳述したところであり、これ以上は繰り返しません。ここで論じたいのは「前文」の上記要約部分 ③についてです。

 この「主権の相互尊重」に関する、上山先生の次のコメントは重要だと思います。
「これは、国際機構によって国家間の利害の調整を平和的におこなう可能性を前提条件とする国家主権の部分的放棄の方向をはらむ新しい国家観の萌芽である。」
ここに提起されているのは、あるべき国際機構とそのもとでの国家主権のあるべき姿です。
 人類の平和実現のための政治理念です。ただ遺憾ながら、現実の国連とその常任理事国政治は、顧みて、国家主権の膨張強化と相互角逐の方向だったと断じるほかありません。

 しかし、上山先生は国際政治の理想の方向を見失うことなく、日本の「平和」外交のあり方を論じておられます。「複合同盟論」がそれです(上山著『憲法第九条――大東亜戦争の遺産』明月堂書店、別章「日本防衛論」)。半世紀前の執筆であるため具体的な情況の違いはありますが、それを差し引けば基本の構造は変わらず、むしろ今日的状況のもとでいよいよ説得力を増してきている考察だと思います。二か所紹介します。

 ①「「複合同盟」というのは、日本と米国・ソ連・中国・北鮮・韓国との同盟を想定している。重要なのは日本が他の五カ国と各個に不可侵協定を結ぶことであり、それと併行して米国を除く四カ国とのあいだに正常な国交を回復あるいは開始することである。そして、できれば、沖縄・小笠原諸島・千島などの領土問題を解決し、漁業問題・貿易問題などを総合的に調整することである。こうしたことは、たとえ実現が容易でないとしても、基本方針としてその方向に努力を傾注することが必要だと思う。」(上掲書 p258)

 ②「いうまでもなく、自主とか独立というのは孤立を意味するのではない。国際的友好関係は、複合同盟関係を軸として、今日よりもいっそう積極的に発展させることが必要だと考えている。日本は、本来、加工立国以外に発展の道がないのだから、国際友好は至上命令である。その点で、今日のように近隣諸国と正常な国交さえ開けないような状態は重大な損失である。この損失が過度の対米従属に起因しているのだとすれば、それと不可分な関係にある従属的防衛体制は国力の発展にとってマイナスであり、ひいては国民の総合的戦力をそこなうものとみることができるのではあるまいか。もっとも対米関係が、敗戦後今日にいたるまでの日本の復興に貢献した事実は否定できないが、問題は、今後の日本の発展にとって、従来のような対米関係が日本にとって有利かどうかという点であり、私はその点に関して、日本の自主性の確立の必要性を痛感するのである。」(同 pp262,263)

 「平和という問題」は、上山先生にとって敗戦日本の最大のテーマだったのではないでしょうか。上記①②の議論に接してその感を強くしました。ぼくなりの理解を書いて、この回を終わりにしたいと思います。

 当たり前のことですが、国際社会にあるかぎり日本一国のみの平和、などというものは、言葉からしてありえないでしょう。平和とは、和して平らかにする・平らかになるという意味ではないでしょうか。もしそうだとすると、国際平和外交とは、和する相手との関係――他国とりわけ近隣諸国との友好関係をどのようにして構築し、保障するか、というときの、その営みを指すのでしょう。

 ならば、近隣諸国との友好関係、その総体の有り様こそが、日本外交の最大のテーマでなければならず、日米関係は――それがいかに重要であっても――その一部にとどまらざるをえません。近隣諸国のなかの一国に過ぎない米国に対する日本の関係が、支配と従属の関係にあるとしたら、そしてその対米従属関係が日本の国際的友好関係全体の利益を――すなわち平和の利益を――著しく損なっているとしたら、日本は対米関係を再定義しなければならないと思います。
 もう少し丁寧に言うと、日本の国際的友好関係の全体を展望し、そのなかに日米関係を置いてみて、あるべき日米関係を再定義する、ということでしょうか。「平和という事業」を成功に導くには、最低限そういう作業が問われるのでありましょう。否、それよりも前に、まず問われるのは、「日米関係の真実」に直面して逃げない誠実さではないでしょうか。