- 明月堂書店 - http://meigetu.net -

上山春平先生の戦争体験(後)「戦争の苦しい面・そうではない側面」 たけもとのぶひろ【第45回】– 月刊極北


たけもとのぶひろ(第45回)– 月刊極北

上山春平先生の戦争体験(後)「戦争の苦しい面・そうではない側面」

上山春平

上山春平

 前回に続いて、上山先生の講演「日本の生き方」(1983年)に触れながら考えます。そのなかで先生は、戦争の否定的側面とは別の、「そうでない側面」について触れておられます。上山春平著『憲法第九条――大東亜戦争の遺産』(明月堂書店)のpp183.184の部分です。まず、「そうでない側面」という言葉が出てくる文章を示します。
 「いま戦争の経験を語ることによって、あの戦争の苦しい面は幾らでも拾い出せると思う。だから戦争をしてはいけないのだともっていく話の進め方が多いのですが、そうでない側面があることを指摘しておきたいのです。」

 ここで先生は、「戦争の苦しい面」と「そうでない側面」と語っておられます。この表現をどう考えればよいのか、ぼくは長いあいだ、戸惑いに似た感情を抱いてきました。いつもの歯切れのよい先生とは違って、どこか躊躇いを抱えつつ言葉を探っておられるような、そんな気配を、ぼくなりに感じてきたのだと、いまにして思うのです。

 まず「戦争の苦しい面」について考えます。
先生は他の場所でもそうですが、「戦争の悪」とは書いておられません。「悪」と書かずに、ここでは「苦しい面」と書いておられます。自分の内面の声を聴いて、それをそのまま正直に表わすとしたら、戦争の堪え難い苦しさ、と言うほかなかったのでありましょう。

 ぼくにとって戦争は、活字や映像を通して想像するのが精一杯の、あくまでも自分の外の出来事にすぎないからでありましょう、戦争について “正気の沙汰” ではないとか “悪の極致” だとか、厳しい言葉で断罪しても平気です。戦争の犯罪性は疑う余地がない、と。

 しかし、先生にとっての戦争は、自ら進んで身を投じ、身を以てくぐりぬけ、自分は九死に一生を得たものの、生きて帰らぬ戦友もある――そういう体験であるわけです。先生が戦争について語るということは、自分に固有の戦争体験に重ねて自分自身を語ることを意味せざるを得ず、戦争は堪え難くも苦しいというよりほかないのでありましょう。
 「戦争は悪」である、だから「戦争をしてはいけないのだ」と、ただそれだけを言って終わりにすることができたら、先生はどんなにか気楽だったことでしょう。しかし、その悪を行ってきた自分としては、戦争は他人事ではありません。「戦争の苦しい面」と言う以外に、言葉があるでしょうか。

 次に「そうでない側面」について考えます。
 よくよく考えると、合点がいかないことがあります。そもそも「戦争」というものは、ただただ「悪い」「苦しい」だけのものなのでしょうか。もし、ただもっぱらそれだけのものであるなら、人類は先祖の昔から戦争を嫌悪し忌避してきたはずだし、戦争はなくなっていたのではないでしょうか。しかし、人間は絶え間なく戦争を繰り返してきました。それどころか、いくら口を極めて「戦争の悪」を非難したところで、人類が戦争から解放されることはありませんでした。なぜなのか。戦争には、「悪い」「苦しい」だけではない、「そうでない側面」があるからではないでしょうか。

 これらの問いを問うておられたのでしょう、上山先生は次のように語っておられます。
 「人類の歴史においては、昔から、集団のために個体が死ぬことを進んで積極的に受け入れることが一つのカルチャーとして、非常に称えるべきこととされてきました。日本でも『平家物語』とか『太平記』とかに、そういう事例がいろいろ出ており、第二次大戦期までは、そういう行為が繰り返し繰り返し褒め称えられてきました」と。

 「(戦争の)そうでない側面」とは、上記引用文のなかの戦争の定義をみれば、なんとなく理解できそうな気がしてきます。戦争とは「集団のために個体が死ぬこと」とあります。
 集団(国家)のために戦って死ぬこと、自分の個体を犠牲にすること、つまり戦争というものを、自分のほうから進んで受け入れる、好し(よし)として喜んで受け入れる――そういう人間のあり方、生き方、死に方が、褒めた称えられて然るべき価値として広くあまねく認知されてきたということではないでしょうか。戦争を肯定する「戦争のカルチャー」とでもいうべきものがなかったとしたら、善し悪しは別にして、人類史のこんにちがこのような形であったかどうか――まったく違ったものになっていたかもしれません。

 戦後70年「平和のカルチャー」のもとにあった日本では想像することさえ困難ですが、世界の少なくない国の人びとは、戦争というものに対して、必ずしも「悪」と決めつけないばかりか、むしろ肯定的に受けとめてきたのではないでしょうか。
嫌悪と忌避の対象として否定するばかりではなく、「そうではない」肯定的価値として語り継いできた面もあると思われます。
 ひるがえって人類の歩みを顧みるとき、残念ながら、戦争の「そうでない側面」には、人をその気にさせる抗い難い力があることを認めざるをえません。人の魂を奪うというか、魅了するというか、そういう働きがないとは言えないでしょう。

 そんなことを思わせることを、先生は語っておられます。
 「自分自身が国のために犠牲になるとか集団のために犠牲になることを決断し終わった
 人間は、全体の中にとけ込んだような、全体から支えられているような、集団の死んだ先祖たちまで含めて自分に寄り掛かってきているような気持ちになる。これは、そういう決断をした人間ならみんな感じた一種の陶酔に近い心境ではないかと思います。(中略)つまり、集団の一員として自分を犠牲にすることで陶酔できる、非常に安らかに犠牲になっていけるというカルチャーが人類の歴史に積み重ねられてきた」と。

 ここにあるのは、自ら志願した決死の特攻隊員であったればこそ、披瀝しえた言葉だと思うのです。先生が控え目にも、「戦争の苦しい面」とは別の「そうでない側面」と表現された、このようなところは、人間の本質に関わる、戦争を肯定しかねない弱さみたいなものに根ざしているような気がします。それだけに、ぼくらはこの側面のあることをよくよく自覚して、それに対して正面から問うてゆく必要があるのではないでしょうか。